Magic Hour ─ きっと思ったよりも素敵な日になる

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— 目次 —

11秒ごと変わってく 2ポケットの宝物 3茜に染まる鳥 4あなたのひとコマ 5夕暮れてんとう虫 6魔法のコトバ 7届かない声 8ハートが充電不足 9山に帰ってく 10たったひとこと 11混じり合う 12笑う声たち 13送信 14ありふれた毎日ありがとう 15ブルーモーメント 16伝えたくなる 17そのちいさな手 18カーテンを開ける 19あなたの好きが私の好きに 20明日も歌おう 21はなの耳 22嵐の放送 23歩き出す 24大切なものを繋いでいく 25Magic Hour 26おばあちゃんに届ける 27集まる声 28海辺のステージ 29響いてく 30きっと思ったよりも素敵な日になる

— あらすじ —

現代日本。2020年代後半。。神奈川県の湘南エリア、鎌倉と逗子のあいだの海辺の街。 主人公ゆみこは地元FMラジオ局「Wave 78.2」の夕方番組 「Magic Hour ─ ゆみこのおつかれさまラジオ」のパーソナリティ兼シンガー。 …

— 登場人物 —

篠原 ゆみこ
主人公 / FMラジオパーソナリティ・シンガーソングライター26歳
ふわふわのミディアムボブ、明るい茶色。毛先がはねている。 丸い目で笑うと三日月型になる。日焼けした健康的な肌。 放送中は白いブラウスにロングスカート、足元はスニーカー。 右手首にミサンガ(リスナーの子供からの手作り)。 ブースではヘッドフォンをかけ、マイクとピアノの間に座る。
明るくておおらか。泣き虫だが泣いた後すぐ笑う。 リスナーのメッセージを「あなたのひとコマ」と呼んで大切に読む。 料理好き(特にスープ)。自分の曲に自信がない。 人の気持ちに敏感だが、自分の気持ちには鈍い。 口癖は「今日もおつかれさま」。
海野 航太(うみの こうた)
ラジオ局の音響エンジニア / ゆみこの幼なじみ27歳
日焼けした肌、短い茶色の髪。背が高い(182cm)。 ラジオ局ではTシャツにカーゴパンツ。サングラスを頭に乗せている。 ミキサー卓の前に座ると真剣な顔になる。
おおらかで鷹揚。ゆみこの番組の音を整える裏方。 「ゆみちゃんの声は夕焼けの色に似てる」と言った。 ゆみこに片想い中だが、マイクの向こう側で支えることを選んでいる。
白石 千鶴(しらいし ちづる)
リスナー / 渋滞の中で聴いている会社員38歳
きちんとした黒髪のショートカット。細身。 車の中ではスーツのジャケットを脱いでシャツ姿。 運転席でハンドルを握りながらラジオを聴いている。 表情が硬いが、ゆみこのラジオの時だけ少し緩む。
管理職。部下に厳しくしてしまう自分に疲れている。 「やさしくできなかったり怒ってみたり」の毎日。 娘の美羽(7歳)との時間が足りないことが心の棘。 ラジオネーム「夕暮れてんとう虫」でメッセージを送り始める。
篠原 はな
ゆみこの祖母 / 元歌手・最古のリスナー78歳
小柄でふくよか。白髪をきれいにまとめている。 花柄の割烹着。目尻の皺が笑顔の証。 最近少し耳が遠くなり、ラジオの音量を上げている。
ゆみこに歌を教えた人。「歌は風と一緒。届く人に届く」。 ゆみこの番組を毎日聴いている最古のリスナー。 ラジオネーム「さくらの母」。
翔太(しょうた)
不登校の中学生 / 深夜にラジオの録音を聴いている14歳
やせ型。前髪が長く目を隠している。パーカーのフード。 イヤフォンで世界を遮断している。部屋は暗い。
学校に行けない。理由は自分でもわからない。 夜中にゆみこの番組のアーカイブを繰り返し聴いている。 まだメッセージは送れない。でも「明日も笑おう」が頭から離れない。
第1章

1秒ごと変わってく

第1章 挿絵

# 第1章 1秒ごと変わってく

ブースのガラスが微かに温かい。午後五時の太陽が斜めに差し込んで、ミキサー卓のツマミに金色の光を乗せていた。エアコンの低い唸り。ヘッドフォンから漏れるホワイトノイズが、耳の奥で砂浜の波音のように揺れる。

ゆみこは白いブラウスの袖をまくり上げた。右手首のミサンガ——赤と青の糸が編まれた小さな輪——が机に軽く触れた。ピアノの鍵盤をひとつ、人差し指で押す。中央ハの音がブースの中を満たす。澄んでいて、少し冷たい。

「テスト、テスト」

マイクに向かって声を出す。喉が少しひきつる。毎日同じなのに、毎日新しい緊張が胸のあたりに巣くう。

「音量、問題なし」

スピーカーから聞こえる自分の声。少しだけ遠くにいる誰かの声のように聴こえる。

窓の外を見る。

湘南の海が水平線で空と溶け合っている。今はまだ青い。深い群青色から、ほんのり水色が滲むあたりまで。でももう、西の空の端っこがほのかに黄色くなり始めていた。夕焼けの前触れだ。

ブースのドアが開く。

航太が入ってくる。カーゴパンツのポケットからケーブルを一本取り出し、ゆみこの足元にあるコンセントにつなぐ。彼は何も言わない。ただうなずくだけ。日焼けした首筋に、Tシャツの襟がこすれた跡が赤く残っている。

「ありがとう」

ゆみこは小声で言った。

航太はまたうなずいた。サングラスを頭に乗せたまま、ミキサー卓の前に腰を下ろす。長い指がツマミの上を滑る。一つひとつ確認していく動きは、祈りのように丁寧だった。

時計の針が17時00分を指す。

ゆみこは深く息を吸った。胸いっぱいに春の終わりの空気を取り込む。潮の香りが混じっている。遠くで電車が通る音も聞こえる。

ヘッドフォンを耳にしっかりとはめる。

マイクに向かって身を乗り出す。

「──こんばんは」

一瞬、間を置く。

「Magic Hourへようこそ」

窓の外で、雲の切れ目から光があふれ出した。オレンジ色になった太陽が海面に道を作る。金色の帯だ。

「今日もおつかれさま」

その言葉が電波に乗る瞬間を、ゆみこはいつも想像する。

古い雑居ビルの三階にあるこの小さなスタジオから発せられた声が、アンテナを通って空へ昇っていく様子を。そして降り注ぐようにして──車の中へ、キッチンへ、病室へ、公園のベンチへ──届いていくことを。

「篠原ゆみこです」

右手首のミサンガをもう一度触れる。

「毎日午後五時から一時間だけのおつかれさまラジオ『Magic Hour』をお送りします」

航太が向こう側から親指を立てた。OKサインだ。

「今日も番組テーマは変わりません『明日に繋がる あなたに繋がる』」

窓ガラス越しに見える空の色が変わっていく。

一秒前まで青かった部分にピンクが滲む。薄い桜色のような淡い色だそれが次第に濃くなって桃色になるその変化を見逃さないようにゆみこは目を見開いた。

「今 窓の外を見ています」

声を少し落として囁くように話す。

「夕焼けが始まりましたね 西の方角から順番に色を変えていっています まるで誰かが見えない筆で空を塗り替えているみたいです」

左手でピアノの鍵盤をそっと撫でる。

「一秒ごとに変わっていきますね さっきまで青かったところがいつの間にか紫色になっている 見ていると不思議です この瞬間だけしかない色があるんです」

ブースの中には自分の呼吸音しか聞こえない。

でも向こう側には誰かがいると信じている。

一人でも二人でもいい。

この時間を共にしてくれる誰かがいると信じなければ番組は続けられない。

「今日最初におかけする曲は……私自身で書いた曲です」

少し躊躇う。

まだ誰にも聴かせたことがない曲だった。

「タイトルは『1秒ごと変わってく』」

航太が見上げる。

彼は初めて聴く曲名だという表情をする。

ゆみこはうなずいた。

大丈夫だと自分に言い聞かせるように。

ピアノに向き直る。

マイクスタンドを少し左によける。

両手を鍵盤の上に置く。

冷たい象牙感触。

右手首ミサンガ糸肌擦れる音小さいけれど確かに聞こえる。

指先力入れる──

最初和音柔らかい。

Cメジャー7thコード朝露のような響き。

次Gメジャー海風のような広がり。

ゆっくりとメロディ紡ぎ出す。

歌う前にまずピアノだけで一分間弾き続ける。

夕焼け音楽合わせて変わるように意識しながら鍵盤触れていく。

オレンジ色濃くなる頃メロディ高音域上がっていく。

紫色広がる時低音加えて深み出す。

そして歌い始める声出る瞬間いつも少し震えるけど今日震えなかった不思議と震えなかった

“歩道橋登りながら

夕陽見上げたら

君思い出した

あんなことこんなこと

全部ちっぽけに見えた”

声は思ったよりも素直に出てきた。

自分の声でありながらどこか他人事のようにも聴こえる。

ブース隔てたガラス越し航太真剣な顔で耳傾けている彼首微かに揺らしているリズム取っている

“1秒ごと変わってく空色

追いかけても捕まえられない

だから今この瞬間だけ

ちゃんと見ていたいんだ”

サビ部分力込める必要なかった自然と声大きくなっていた感情込めようと思わなくても勝手込まっていた不思議だ音楽とはそういうものかもしれない

“昨日泣いたことさえ

明日笑いに変わるなら

それだけでいいよ

それだけでいい”

最後フレーズ繰り返すとき窓外空真っ赤染まり始めた太陽沈む直前爆発的輝きそれは一日の中で最も劇的な瞬間だ

ピアノ最後和音静かに響かせてフェードアウトさせるように消えていく

沈黙三秒ほど続けたかもしれない五秒かもしれない時間感覚なくなっていた

マイク再び近づける口元

「……ありました」

声掠れていた咳払い一つ

「私自身のために書いた曲なんですけど……誰かのためにもなったらいいなと思って」

航太向こう側からペンをくるくる回している彼何かをメモしているようだ

放送続ける

リスナーメッセージ紹介まだ来ていない日もある今日来ていないかもしれないそれでも続ける

「もしこの番組聴いている方いましたら……メッセージお待ちしています」

住所読み上げる地元郵便番号丁目番号

「お手紙でもメールでも大歓迎です」

窓外夕焼け最盛期過ぎて落ち着いた茜色広がっている雲一つない空全体均一色染まっている美しい残酷なくらい一瞬しか続かない美しさ

時計針17時30分過ぎている

前半終わりそうだ

ふと視線下ろす右手首ミサンガ見つめる赤青糸交じり合って紫色作っている部分ある偶然だろうか夕焼け空似ている色だ

幼い女子手作りプレゼント彼女母親連れて局訪れたことある恥ずかしそうにしてたけど必死編んだと言っていたその子今どうしているだろう小学校行っているだろうか元気だろうか

“あなたひとコマ”

ゆみこ突然そう呼びたくなるリスナーそれぞれ持っている物語断片それ紡ぎ合わせていくことが自分仕事だと今思った

航太合図送ってくるCM入ること示す指三本立ててカウントダウン始める三二一──無声音切り替わる瞬間ふっと力抜ける背中椅子背もたれ預ける息深く吐き出す

ブース中静寂戻るエアコン音だけ聞こえる

ドア開けて航太入ってくる水入ったグラス机置く氷一つ浮いている表面結露水滴伝っている

「ありがとう」

ゆみこグラス手取る冷たさ心地よい喉渇いていることに気づかなかった一口含む水味しないのに何故か甘く感じる

「曲よかった」

航太突然言う彼普段感想言わないタイプだから驚いた

「あ……ありがとう」

照れ隠すようにまた一口水飲む

「夕焼け似合う曲だった」

彼窓外見ながらそう呟いた

“ゆみちゃん声夕焼け色似てる”以前彼言った言葉思い出すその時理解できなかったけど今少しわかる気する自分歌声確かに刻々変わる空色どこか似ているかもしれない不安定で儚くてそれでも確かに存在しているもの

CM終了十秒前示す航太指立てて数え始める彼口動かさないけど唇形で“5…4…”伝えてくるゆみこ頷いてヘッドフォン直す姿勢正すグラス脇によける

3…2…1…

マイク再び生き返るような感覚電波繋がる瞬間いつも小さな衝撃走る背筋伸びる

「戻りましたMagic Hourです」

声明るくする必要なかった自然明るくなっていた不思議だ

「ただ今17時42分 外もうすぐ暗くなりますね 茜色から藍色へ移行中です 星一番出そうな東空もう薄暗くなっています」

無意識左手伸ばしてピアノ鍵盤そっと触れる中央ハもう一度鳴らす同じ音でも時間経つと違って聴こえる魔法のようなことではないただ耳状態変わるだけだろうけどそれでも魔法のように感じられる瞬間ある

次のコーナー始める天気予報明日天気読み上げながら考えていたまだ誰も知らない番組これから知られるのだろうか一年後どうなっているだろう自分ここいるだろうか

ふと祖母顔浮かぶ彼女毎日聴いている最古リスナー“さくらの母”名乗って手紙くれることある励まし言葉いつも簡潔だが芯温かい内容ばかりあの人支えなければ続けてこれなかったかもしれない感謝伝えたい直接会えば照れ臭いから放送中さりげなく織り交ぜよう決心する

時計針17時50分近づいている残り十分番組終わり近づくと寂しくなる始まる前緊張より終わった後空虚方が大きいなぜだろう始まりより終わり愛おしいのかもしれない有限時間だから輝けるのかもしれないマジックアワーそう呼ぶ理由わかる気する限られた時間だから美しいのだろう永遠続いたら普通日常になってしまう特別じゃなくなるのだろう

最後一曲リクエスト読む今日来ていないので代わり自分選ぶビートルズ『Here Comes The Sun』選んだ理由特にないただ春終わり感じさせる曲だから季節合っていると思っただけ単純理由だがそれでいいと思う複雑理由必要ないときあるシンプル心地よいときある音楽そんなものだと思う

イントロ流し始めるギター軽快リズム航太向こう側微笑んでいる珍しいことだ彼普段無表情多いのに今日二度目驚き与えてくれる不思議日かもしれない一日小さな変化積み重ねること大切だと祖母よく言っていたその言葉本当かもしれない一秒ごとに変わる空色見つめながらそう思う

第2章

ポケットの宝物

第2章 挿絵

# 第2章 ポケットの宝物

スタジオの窓ガラスが、午後四時五十分の光を柔らかく反射していた。ゆみこは指先でマイクの防風カバーをそっとなぞる。スポンジの感触。ほんの少し埃っぽい匂い。ヘッドフォンからは、まだオンエアではない無音が流れている。その沈黙が、放送開始までの時間を測る心臓の鼓動のように感じられた。

机の上には、今日読むメッセージがプリントアウトされて並んでいる。三枚だけ。一週間前より少し増えた。紙の端が捲れている。彼女はそっと押さえた。

「あと五分です」

ブースの向こう、ミキサー卓の向こう側から航太の声が聞こえる。彼はサングラスを頭に乗せたまま、モニターを見つめている。ゆみこは軽くうなずく。手を膝の上に置く。スカートの生地がざらりとしている。

窓の外、湘南の海が見えるわけではない。でも空の色が教えてくれる。まだ青い。水色に近い青。でも西の方角が、ほんのり蜜のような色に染まり始めている。

五時ちょうど。

ゆみこの指がフェーダーを上げる。

「こんばんは、Wave 78.2、『Magic Hour』です」

声が出た。いつも最初の一言で胸の中が軽くなる。

「今日も一日、おつかれさまでした」

彼女はプリントアウトされた一枚目を見つめる。

「番組を始めて一週間と少し……毎日届くメッセージに、私の方が元気をもらっています」

窓から差し込む光が机の上を移動する。紙の上の文字に影ができる。

「今日のお願いがあります」

ゆみこはマイクにもう少し近づいた。

「あなたの今日の宝物、教えてください」

一呼吸置く。

「大きなものでなくていいんです。道端で見つけた石ころでも、ふと覚えた懐かしい歌でも……一日の中で、ほんの一瞬『あっ』と思ったもの」

ヘッドフォンから自分の声が返ってくる。少し響いている。

「そんな小さな宝物を、ポケットに入れて帰りませんか?」

最初のメッセージを手に取る。

「……それでは、早速ご紹介しますね」

***

白石千鶴は江ノ島電鉄沿いの道路で車を停めていた。前方には十台ほどのテールランプが連なり、赤く光っている。エンジン音だけが車内に響く。助手席には鞄と折りたたんだジャケット。

『ラジオネーム“夕暮れてんとう虫”さんからのメッセージです』

ゆみこの声がスピーカーから流れる。

千鶴はハンドルを握る手に力を込めた。

『今日、会社への通勤路で桜を見ました』

ゆみこの声は優しかった。一つ一つの言葉を丁寧に紡ぐように読んでいく。

『実はもう何年も同じ道を通っているのに、気づかなかったんです』

千鶴は窓の外を見る。道路脇には確かに桜並木がある。今は葉桜だ。濃い緑色になっている。

『信号待ちでふと見上げたら……一本だけ、遅咲きなのかもしれませんけど、小さな花が残っていました』

ゆみこが少し間を置く。

『白っぽいピンクでね』

千鶴は息を吸った。

『たった三輪くらいでしたけど……朝から会議続きで頭がいっぱいだったのに、“ああ”って思いました』

車内に静寂が広がるのは一瞬だけだった。

『それが今日の宝物です』

ゆみこが言う。

『ありがとうございます、“夕暮れてんとう虫”さん』

千鶴は目を閉じた。まぶたの裏側に朝見た桜が浮かぶ。本当に小さな花だった。ほとんど散りかけていた。

信号が青に変わる。

前の車が動き出す。

彼女もアクセルを踏んだ。

ラジオからピアノの音色があふれ出した。

ゆみこが弾き語りを始める。

短いオリジナル曲だ。

タイトルは知らない。

ただメロディーだけが車内を満たす。

千鶴は片手でハンドルを握りながらもう一方の手でライトスイッチをつけた。

まだ明るいのに。

なぜかわからないけれど、

つけたくなったのだ。

***

スタジオでは二曲目の弾き語りが終わろうとしていた。

ゆみこの指先が最後の和音を押さえる。

余韻がマイクを通して広がっていく。

彼女は鍵盤から手を離す前に一呼吸置いた。

いつもそうする。

音楽という風がいったん通り過ぎていく時間を作るためだ。

「次もメッセージをご紹介しますね」

二枚目の紙を取り上げる。

プリントされた文字を見て思わず笑みが漏れる。

子供っぽい字だ。

ひらながが多い。

『ラジオネーム“まいにちアイス”さん……小学二年生だそうです』

ゆみこの声があたたかくなるのが自分でもわかる。

『今日学校で絵を描きました。“おかあさんの顔”です』

彼女は言葉をつなぐ速度を少し遅くした。

子供たちにも聞き取りやすいように。

『おかあさんのお耳にはピアスがあって……髪は茶色で……目はやさしい目でしたって書いてあります』

窓からの光がいつの間にかオレンジ色になっていた。

机の上のプリントアウトも暖かな色合いに染まる。

『帰ってからおかあさんに見せたら、“ありがとう”って言われて抱きしめてもらいました』

ゆみこの喉元があつくなった。

深呼吸をするのが精一杯だった。

『その時のにおい……シャンプーのにおいとおかあさんのにおい……それが宝物です』

読み終えて数秒間何も言えなかった。

ただマイクに向かって微笑んでいるだけだった。

それが伝わるだろうか?

伝わると信じたいと思った。

「ありがとう、“まいにちアイス”さん」

声が出てきたのはしばらくしてからだ。

少し震えていたかもしれない。

でもそれは仕方ないと思った。

「お母さんの匂いはね……世界で一番安心する匂いかもしれませんね」

彼女自身も祖母のはなさんの匂いを思い出していた。

小麦粉と花と太陽がいっしょになったような匂いだ。

三枚目のメッセージへ移る前にピアノをもう一曲弾いた。

即興的な短い旋律だ。

子供たちのために明るく軽やかな調子で弾いた指先には汗ばんだ光沢があった

***

翔太は部屋の中で布団にもぐっていた。

午後六時近くなのにカーテンを閉め切っているので薄暗い

枕元にはスマートフォン

イヤフォンから流れるのは録音した昨日分の放送

ゆみこの声だけがある

『最後に一枚ご紹介しますね』

録音された昨日分だから内容を知っているはずなのに

翔太は息を殺して聴いた

『ラジオネーム“夜明け前”さんからのメッセージです』

ゆみこの声には特別な響きがあった

深夜帯によく聴いている人だと察しているのかもしれない

『自動販売機でジュースを買いました』

シンプルな文章だ

『お釣りが出てきたんです』

翔太は布団の中で目を見開いた

『コイン受け取り口に百円玉一つだけ転げ落ちてきました』

録音の中では微かに街頭騒音のようなものが聞こえる

車通りだろうか

『拾って手の中に入れたら冷たくて……でもすぐ温かくなりました』

ゆみこがあえて長めに間をおいた

『その温度変化の中になぜか“生きている”って感じました』

翔太は自分の手を見つめた

暗闇の中で白っぽくぼやけて見えるだけだった

『小さなお釣りですが今日一番嬉しかったものです』

放送ではその後ピアノ演奏があったはずだが翔太はいつの間にか再生ボタンを止めていた

部屋の中には完全な静寂がある

ただ自分の呼吸音だけだ

彼はいつの間にか起き上がっていた

布団から出て窓辺まで歩いた

カーテンの隙間から外を見る

夕焼け空が見えた

燃えるような赤だった

***

スタジオでは放送終了まであと三分だった

「たくさんの“宝物”、ありがとうございました」

ゆみこは机に向かいながら話す姿勢になっていた

自然体だ

「道端に見つけた桜……子供からの似顔絵……自販機のお釣り……」

一つ一つ数え上げていくうちにあることに気づいた

「どれも特別高いものじゃない」

声に出して言うことで思考も整理されていく

「どこにでもあるものかもしれない」

窓ガラスの向こう空はいま紫へと変わりつつあった

一日の中で最も劇的な変化をする時間帯だ

「でも切り取ってみたら……全部ポケットに入るくらい小さな輝きですね」

彼女自身胸ポケットの中にあるものを思い浮かべていた

リスナーの子供から届いたミサンガのことだ

まだ一度も身につけていない

大切すぎてしまうのだろうか?

「私にとって今日一番大きな宝物といえば……」

フェーダーをもう少し上げようとした航太の方へちらりと視線を走らせる

「皆さんからのこれらのメッセージです」

素直に言えた自分自身にも驚いた

「本当にありがとうございました」

最後にもう一度言う必要があったのだと思う

そしてピアノに向かった最終曲としてまたオリジナルの短い歌詞付き曲“ポケットソング”というタイトルをつけて即興的に歌った旋律単純だが心臓と同じリズムを持つような曲だった歌詞ではなくハミングだけで終わったほうがいと思ったのだろう最後までハミングだけで締めた余韻長く響かせてフェーダー下ろすタイミング完璧だった航太のお陰だと後になって思うことになるだろう今すぐではないけれど……

***

放送終了後ブース内にはオンエア中の緊張感とは違う静けさがあった機器類の発する微かな熱気埃舞う光柱窓差し込む夕焼け最後名残照らしている机椅子すべて黄金色染め上げているような錯覚起こさせるほど鮮烈色彩だった

ゆみこ伸びをする背筋伸ばす音ポキポキ鳴る両腕上げ天井向けて思い切り伸びた後ふうっと息吐き出した胸ポケット触れた中何入っている確認するためではない習慣行動だったそこ確かに存在感じられる安心感求めて……

ドア開く音振り返ると航太入ってくるTシャツ姿今日水色薄いグレーのカーゴパンツいつもの格好だが何故新鮮に見えるのか自分でも不思議だった彼手二杯コーヒーマグカップ持っている片方差し出す無言でそれだけで十分意味通じ合っていたこと多すぎ幼少期続いてきた関係性故だろう受け取りながらありと言った口元マグカップ縁当て温かい液体喉通っていく感覚全身染み渡っていくようだった疲労感溶ける瞬間……

航太反対側椅子腰掛ける自分コーヒー飲む様子眺めているような視線感じられるけど確証ない正面見ていないから……

今日放送よかったよ突然言葉出てくる予想外褒め言葉耳慣れていない種類褒め方照れ隠し必要以上大袈裟表現避ける航太流儀理解しているつもりだから尚更嬉しかった顔上がってしまう抑えられない笑顔溢れてしまう……

そう?あり……

返事平凡すぎ恥ずかしいほど平凡……

航太頷くそれ以上何言わなくていいくらい満足そう表情……

沈黙心地よい種類沈黙二人共有できる数少ない時間……

ふと思いついて胸ポケット手突っ込む中物取り出すミサンガ細編組糸三色混ざっている赤青黄色子供作った証拠多少不揃編目愛嬌ある仕上がり……

これ付けようと思うんだけど……

差し出す航太方向向けて……

片手結べないわけじゃないけど……

理由付け必要感じ自分でもなぜこんなこと言ってしまったのか後悔始まる前に航太平然立ち上がり近づいてくる背高すぎ影覆われる夕焼け遮られる一瞬暗くなるけどすぐまた光戻ってくる……

貸してみ?

低声音優しい命令口調……

渡す指先触れる瞬間ひやりとする冷たい?違う温かい体温伝わってくる……

航太平然受け取ると結び目解こうとする慎重指先動き器用さ意外今まで知らなかった一面見ている気分……

右手首巻き付ける長さ調整しながら二度三度巻いて結び目作る過程全部真剣眼差し観察されること恥ずかしく俯きたくなるけど我慢して見続ける結び目完成形整える最後軽引っ張り強度確認する仕草職業病かもしれない……

できたよ……

声聞き上げるともう距離離れ元位置戻っているコーヒー飲んでいる様子何事なかったように振舞っているけど耳朶赤くなっている気太陽光加減かもしれない確信持てない……

あり……

右手首挙げ眺めるミサンガ夕焼け浴び輝いている三色糸それぞれ違角度反射光放っている宝石細工見ているよう錯覚起こさせる美しさ……

宝物ね……

独り言呟くと航太また頷いた黙認同意表現方法彼特有……

窓外空完全紫紺移行直前深紅帯残している水平線近辺特に鮮烈色彩一日終わり告げる最終章始まり告げる合図同時刻毎日繰り返される奇跡日常化忘れさせられるけど今日限定的奇跡認識させられた瞬間……

明日も頑張ろうね……

誰に対して言っているのか自分に対しても航太に対してもリスナー全員に対しても判別つかない曖昧発言許される関係性心地よさそのまま受け止めてくれる相手側存在感謝以外何残せるだろう……

うん……

返事簡潔すぎ深読み余地多分与えられている意図的だろう二人共了解済前提会話成立不思議安心感包まれるブース内空間時間緩やかに流れていくコーヒー冷めるまでそこ座っていたその後片付け始める日常戻っていく準備整えていく明日また同じ時間同じ場所同じ奇跡繰り返すために必要な儀式のように淡々進んでいく作業中時折交わす会話最小限必要な情報交換それだけで十分充実感満ち溢れてくる夕焼け完全消え暗闇訪れる頃二人帰路着準備完了玄関出るとき振り返ればスタジオ暗闇中微かに機器類点滅するLED灯星屑見ているよう幻想抱かせるそんな夜始まり告げる風吹き抜けていった

第3章

茜に染まる鳥

第3章 挿絵

# 第3章 茜に染まる鳥

窓ガラスがオレンジに染まっていた。午後四時五十五分。スタジオの空気は冷たく澄んでいる。ミキサー卓のランプが幾つも点滅し、航太が最後のレベルチェックをしている音が、ヘッドフォンの片方から漏れて聞こえる。

「テスト、テスト。ゆみちゃん、今日の声は少し低いね」

ゆみこはマイクに向かって軽く咳払いをした。

「昨日、祖母とカラオケに行ったから。はなばあちゃん、演歌を十曲連続で」

「それは堪えるな」

航太の笑い声が小さく響く。彼はサングラスを頭に上げたまま、ミキサーのつまみを微調整している。指先が細かく動く。ゆみこはその手を見てから、スタジオの大きな窓の外を見上げた。

空が溶けていた。

青からオレンジへのグラデーション。その境目に薄紫色の帯が走っている。雲ひとつない晴天だった。夕焼けが始まる前の、静かな時間。海の方から潮の香りが漂ってくるような気がした。実際には窓は閉まっているのに。

時計の秒針が五十八分を指す。

ゆみこは深呼吸をする。胸いっぱいにスタジオの冷たい空気を吸い込む。右手首のミサンガが机に触れる。ビーズの感触。

航太が親指を立てる。

赤いオンエアランプが点灯する。

「……はい」

ゆみこはマイクに唇を寄せる。

「Wave 78.2、夕方五時です。今日もこの時間にお会いできて、うれしいです。神奈川県湘南エリアのみなさん、そしていつもどこかで聴いてくださっているみなさん、おつかれさまです。篠原ゆみこがお送りする『Magic Hour』、始まります」

ピアノのイントロが流れる。ゆみこの指が鍵盤を撫でるように動く。今日選んだのは春先に書いた曲だ。「桜色の風」というタイトルだった。メロディーは軽やかで、でもどこか寂しげな音色を持っている。

一曲終わるとき、窓の外に影が通った。

鳥だった。

数十羽、いや百羽以上の鳥の群れが西へと飛んでいく。黒いシルエットが茜色の空を背景に浮かび上がる。V字型を作りながら、ゆっくりと羽ばたいている。リーダーを先頭に、整然とした隊列。

ゆみこの言葉が出たのは、考えてからではなかった。

「あ」

マイクに向かってそう呟く。

「窓の外を鳥さんたちが飛んでいきますね。V字になって……先頭のお友達について行ってる。夕焼けの中を飛んでいく姿が……なんて言うのかな」

彼女は言葉を探すように一呼吸置いた。

「手を振ってるみたいに見えるんですよね。『また明日』って言いながら帰っていくみたいに」

スタジオの中が静かになった。

航太がミキサー越しにこちらを見ているのが感じられる。

ゆみこは自分の発言があまりにも感傷的だったことに気づき、

少し顔が熱くなる。

でももう引き返せない。

「えっと……そうですね。

今日もたくさんの『あなたのひとコマ』をお待ちしています。

メールアドレスは……」

いつものアナウンスを続けながら、

彼女はもう一度窓の外を見た。

鳥たちはもう見えなくなっていた。

茜色だけが残っている。

***

車列は全く動かない。

白石千鶴はため息をつくと、

エンジンを切った。

助手席にはスーツジャケットと鞄。

ネクタイも緩めている。

首筋に汗が伝うのがわかる。

前方にはトラックとワゴン車。

後ろには家族連れのミニバン。

運転席でスマホを操作している父親が見える。

隣では子供たちが騒いでいる。

その声まで聞こえてきそうだ。

千鶴は目を閉じた。

耳の中には自分の呼吸音だけがある。

心臓の鼓動まで聞こえるような気がした。

今日もまた部下に厳しく言い過ぎてしまった。

若い女性社員が泣きそうな顔をしていたのが、

今でも瞼の裏に焼き付いている。

「どうしてあんなことを……」

呟くと、

ハンドルを握りしめた。

革製のハンドルカバーが手汗で少し滑る。

ふとラジオをつけたかった。

何も考えずにダイヤルボタンを押す。

数字合わせる必要もなかった。

美羽がいるときにかけている局があるからだ。

子供向け番組があるチャンネルだったはずだが——

『——ですよね?

手を振ってるみたいに見えるんですよね』

女性の声だった。

若くて柔らかい声質だ。

千鶴は目を見開いた。

『『また明日』って言いながら帰っていくみたいに』

何かの番組だろうか?

千鶴はボリュームをもう少し上げた。

音楽ではなくトーク番組らしい。

ピアノの音色も時折混じる。

『……というメッセージをお寄せくださいました

“夕暮れてんとう虫”さん』

奇妙なラジオネームだと思った千鶴だが、

次の瞬間、

その内容に耳を奪われた。

『“今日遅咲き桜を見つけました

誰も見ていない路地で

一本だけ満開でした

宝物というには儚すぎるけど

明日も頑張ろうと思える

そんな出会いでした”』

読み上げられる声には温かみがあった。

読み手自身もその言葉に心動かされているのが伝わるような読み方だ。

千鶴は知らず知らずのうちに背中をシートにもたれかけていた。

握っていたハンドルの手にも力が抜ける。

『ありがとうございます、“夕暮れてんとう虫”さん』

パーソナリティと言うのだろうか?

その女性は続けた。

『桜って不思議ですね

見ている人なんていなくても

ちゃんと咲いてくれる

今年も来てくれたねって

毎年思います』

車内にはその声だけが響いている。

外の騒音——クラクションやエンジン音——さえ遠くなったような気分になった。

千鶴は目をつぶったまま、

深く息を吸い込んだ。

肺いっぱいに車内の空気を取り込むとき、

何故か涙が出そうになったわけではなかったのだろうか?

『さて、

次は“まいにちアイス”さんからのメッセージです』

番組は淡々と進んでいくのだろうけど、

千鶴にとって時間感覚があやふやになっていた。

***

スタジオには疲労感と充実感が混ざり合う独特な空気があった。

ゆみこはヘッドフォンを外し、

首筋をもむように揉んだ。

「お疲れ様」

航太がドアから顔を出す。「今日もいい放送だったよ」

「ありがとう」

ゆみこ立ち上がるとピアノ椅子から離れる。「でもさっき……鳥のこと言っちゃったよね?ちょっと恥ずかしいなあ」

「それが良かったんだよ」

航太スタジオに入ってくる。「リスナーからのメール増えてるよ」

彼スマホ画面を示す。「普段より二倍くらい来てる」

「えっ?」

ゆみこ近づいて画面を見下ろす件数表示確かに多かった通常よりも多くのメール届いているようだ

「鳥……ですか?」

「そうらしいね」

航太スクロールしながらいくつかの件名読む。「“鳥手振ってるよう見えた話感動しました”“私も空見上げました”……こんな感じ」

ゆみこ口開けたまま黙っている

自分の何気ない一言そんな風受け止められること想像していなかったただただ飛んでいく鳥美しいと思ったそれだけだった

「魔法じゃないけど」

航太言う。「魔法コトバあるんだよねゆみちゃんのは」

彼女振り返る航太優しく笑っている日焼けした顔皺寄せて

「そんな……」

言葉出てこない代わり涙目頭熱くなるそれ押し殺してゆみこ笑顔作る

「じゃあ明日も頑張らないとね」

二人スタジオ出ると廊下薄暗くなっていた事務所の方明かり漏れている帰宅時間過ぎているのにまだ残業している人いるのだろう

航太一緒出口まで歩くことになった外に出るともう完全闇夜になっていた空星幾つか瞬いている昼間暖かかったのに夜風冷たい

「送っていこうか?」

航太訊く自転車置き場の方顎向けて

「大丈夫駅まで歩く」

ゆみこ答える。「それより早く帰ってね航太君今日朝早かったんでしょ?」

彼昨夜深夜まで機材チェックしていたことを覚えていた

「わかったよ」

航ため息混じり笑う。「じゃあ気をつけて帰ってね」

別れるときふと彼女思い出す

「そうだリスナー増えたなら……新しいコーナー考えようかな?」

「どんな?」

「まだ漠然としてるけど“あなたマジックアワー”とかどうかな?一日一番輝いた瞬間教えてもらうとか……」

航考込むような仕草する

“いいと思うけど……無理しないでね”

心配そうな声だった

ゆみこ軽快返事する。“私楽しいんだから”

本当のことだった番組作ることリスナー繋がることすべて楽しかった苦しいこともあったけどそれ以上喜び大きかった

***

翌日放送前スタジオ準備しているとき携帯鳴った祖母からの着信だった

“ばあちゃん?今準備中なんだけど——”

“聞いたよ昨日”

祖母声弾んでいる。“鳥話素敵だったね”

“え?ばあちゃん聴いてた?”

“当たり前じゃない毎日聴いてるよ”

祖母笑う。“でも昨日特に良かった私も窓開けて空見上げちゃったよ”

電話越し扉開ける音聞こえるどうやら本当窓開けているらしい

“ほら今ちょうど夕焼け始まるところよん?”

“もう?”

ゆみこ時計見るまだ四時半過ぎだ早め夕焼け始まる季節変わってきた証拠だろう

“綺麗だね”

祖母呟く。“茜色だわまるで……”

言葉途切れる何思い浮かべているのかわからないでも間違いなく何か美しいもの思い出しているのだろう歳取っても変わらない感性持っている人だった

“ばあちゃん”

“ん?”

“ありとなんでもない”

急にかけなければならない電話切るとき近づいている告げ二人別れた後すぐ放送始まった今日メッセージさらに増えていた昨日話題鳥関連多く中には写真添付してくる人さえいたスマホ撮影した夕焼け空そこ小さく飛んでいる鳥群れ写っているものだった

読んでいるうちふと考えるこの声本当届いているのか祖母耳遠くなり始めているそれでも聴いてくれている誰かに向けて話すこと意味あるのか疑問湧いてくることもあったけど今こうしてメッセージ読んでいる限り答え出ていた届いている届こうとしている少なくとも届きたいと思っている人たち確かに存在するのだから

***

一方その時間白石千鶴再び渋滞中だった今日会議長引いてしまい完全遅刻確実子供迎え間に合わない保育園延長料金発生することになるそれだけで胃重くなる

ラジオつける同じチャンネル合わせた昨日と同じ女性声聞こえてくる

“……ですよね?皆さんそれぞれマジックアワー持っていると思うんです……”

千鶴ハンドル握りながらぼんやり聴いている番組名初めて意識する『Magic Hour』魔法時間確かに一日特別一時間かもしれない自分にとって魔法感じられる時間などもう何年過ごしていないだろう?

美羽生まれた頃抱っこしながら夕陽見ていたこと思い出す赤ちゃん温かい匂い柔らかい髪そのときだけ時間流れ方違っていたような気分になったあれ最後かもしれない

信号変わり前進始める車列少しずつ動き出すラジオ音楽流れ始めるピアノ弾き語り今日曲昨日より少し明るめ旋律歌詞聞き取れない部分多いけど繰り返されるフレーズ一つだけしっかり耳残った

——明日笑おう——

単純すぎ言葉だ大人になるほど信じられなくなる種類約束それでもなぜ胸刺さるのか理解できないまま千鶴目閉じるまた開けるとき前方車両ブレーキランプ赤く光っていた夕焼け反射してさらに鮮やかな赤色放っているまるで警告のように見えたけど同時になぜか美しくもあった

第4章

あなたのひとコマ

第4章 挿絵

# 第4章 あなたのひとコマ

午後四時五十分。スタジオの空気は乾いていた。

エアコンの微かな唸り。ミキサー卓のLEDが青く点滅する音。ゆみこはブースに入ると、まず窓のブラインドを上げた。西の空がまだ白っぽい。雲が薄く広がっている。今日の夕焼けは遅くなるかもしれない。

彼女はピアノの鍵盤に指を置いた。冷たい感触。右手首のミサンガが机に触れる音、カサッと。

「テスト、テスト……」

マイクに向かって声を出す。喉が少し詰まっている。昨夜、祖母とはなと電話で話したせいだ。はなが「最近、ゆみこの声がしっかりしてきた」と言った。その言葉が耳に残っていた。

ブースの外、航太がヘッドフォンをかけて座っている。カーゴパンツの膝にメモ帳を広げ、今日の曲順を確認中だ。彼は顔を上げて、ゆみこに親指を見せた。

大丈夫、という合図。

ゆみこはうなずいた。

五時ちょうど。オープニング曲が流れ終わる。ゆみこはマイクに近づいた。

「こんばんは、Wave 78.2です。今日もおつかれさま」

声が出た。いつもより少し低いかもしれない。

「そろそろ空の色が変わり始める時間ですね。窓から見える雲が、ほんのりピンク色に染まりかけています」

彼女は一呼吸置いた。

「さて、今日も『あなたのひとコマ』のお時間です」

コーナーが始まって三週間目。リスナーから届く日常の断片を読むコーナーだ。「夕食を作りながら窓から見えた虹」「駅で転びそうになったとき、支えてくれた見知らぬ人の手」「子どものポケットから出てきた石ころ」。

小さなものたち。

ゆみこはタブレットをスクロールした。今日は十七通届いている。

「ラジオネーム『湘南サイクリスト』さんです」

彼女は声を整えた。

「『今日、久しぶりに海沿いを走りました。風が強くて前へ進めないと思った瞬間、後ろから大きなトラックが通り過ぎて、その風圧で押されるように進めたんです』」

ゆみこは微笑んだ。

「『まるで誰かに背中を押してもらったようでした』……ありがとうございます」

彼女はピアノに向かった。左手で和音を一つ鳴らす。Cメジャー。

それから右手でメロディを探るように弾き始めた。即興だ。風をイメージして、三拍子で軽やかに。

三十秒ほどの短い曲だった。

曲が終わると、窓の外の空が少し濃くなっていた。雲の端が金色に縁取られている。

二通目。「ラジオネーム『カフェテラス』さん」

「『隣の席のおばあちゃんが、小さなケーキにろうそくを立てて一人で歌っていました。「おめでとう」と言ったら、「今日で夫と出会って六十年なのよ」って笑顔で答えてくれました』」

ゆみこの胸が温かくなった。

彼女はまたピアノに向かった。今度は穏やかなワルツだ。左手のベース音が優しく響く。

曲を弾きながら、彼女は祖母のはなを思い出した。祖父が亡くなって十年になるのに、はなはいまだに毎朝仏壇にお茶をあげる。「あの人、お茶濃いのが好きだったから」と言いながら。

空色が変わっていく。金色からオレンジへ移行する途中だ。スタジオ内も暖色系の照明のように染まっている。

五通目まで読んだときだった。

タブレットに新しいメール通知が表示された。「さくらの母」からだ。

ゆみこの指先が止まった。「さくらの母」——それは祖母のはなが先週つけたラジオネームだった。「桜のように咲いてほしいから」という理由で。

でも放送中にはなからメッセージが届いたことは一度もない。

彼女は息を吸った。「では次……ラジオネーム『さくらの母』さんです」

声が出るか心配だったけど、出た。

「『毎日この時間になると、台所でラジオをつけます』」

ゆみこの喉が締め付けられたような感覚になった。それはまさにはなの口調だ。「台所」という言葉遣い。「つけます」という丁寧な言い回し。

「『孫娘がパーソナリティをしています』」

ブースの中の空気が変わったように感じた。自分の吐息さえ聞こえるような静けさの中で、ゆみこは文字を追うしかなかった。

「『昔私がその子に歌を教えました。「歌は風と一緒よ」って言って』」

ゆみこの目頭が熱くなった。彼女は必死に瞼を閉じたり開いたりした。放送中だ泣いてはいけないでも涙腺があふれそうだどうしよう——

「『その子がいまラジオで歌っています』」

一瞬だけ声が出なくなったのでしょう? 航太が見上げているのが視界の端でわかったけど向き合えなかった向き合うと崩れてしまう——

「『私よりもずっと上手に歌います』」

ダメだもうダメだ涙があふれてきた頬をつたう熱いものがマイクに向かって話さなければならないのに声が出ない——

彼女はマイクから顔を背けた小さく息をついた手で目元をおさえた濡れた手首ミサンガも濡れる——

そのときガラス越しに見えたのは航太だった彼はいすから立ち上がりブースの方へ一歩近づいたそして右手の人差し指と親指で輪を作り左手の人差し指を通した

大丈夫

その口形だけ読めた

大丈夫

航太はもう一度同じジェスチャーを繰り返したそして今度は自分の胸に手を当ててうなずいた

あなたならできる

そう言っているようだった

ゆみこは深く息を吸い込んだ肺いっぱいにスタジオの乾いた空気を取り込んでそれからマイクに向き直った

「ごめんなさい……ちょっと……」

声が震えている自分でもわかるでも続けなければならない

「このメッセージ……私にとって特別なんです」

彼女はタブレットをもう一度見つめた文字が滲んで見えるけど内容はもう頭に入っている

「ありがとうございます……おばあちゃん」

その言葉が出た瞬間また涙があふれたけど今度は止めようとしなかったただ流れさせたまま話した

「今すぐ……曲を作りますね」

ピアノに向かう手も震えていた最初の和音を見つけるのに三秒かかったDm7——哀しいけど温かい響き

それからメロディが見つかった幼い頃にはなが教えてくれた童謡のような単純な旋律それを少しだけ変形させて

左手はずっと同じパターンを繰り返す揺りかごのように優しく

曲の中盤になってやっと声が出た歌詞ではなくハミングだけどそれでもいいただ音だけで伝えたいありがとうありがとうありがとう——

最後の音まで弾き終わるとスタジオの中には何も残っていなかったような静寂があったけどすぐに次の曲(予定されていたリスナーリクエスト)に入らなければならなかったのでフェードインさせた

曲と曲との間わずかな沈黙の中でゆみこが見上げると航太はいすにもどってヘッドフォンを調整していたけど視線だけはずっとこちらに向けていたそしてまたあのサイン大丈夫——

放送終了後六時三分だった窓の外にはもう夕焼けではなく深い藍色と紫の中間のような空広告塔ネオン青白く光る——

ゆみこはずっとブースの中に座っていた疲れたわけではないただ動けなかった航太があけてくれるまでドアの方を見ていなかったのでノック音にも気づかなかった

ドアがあいて廊下明かり流れ込む——

航太立っている手には紙コップ二つ湯気立っているほうじ茶匂う——

「お疲れ様」

彼短言った——

紙コップ一つ差し出す——

ゆみこ受け取った熱さ手伝伝わる——

```

「あり……」

```

声まだ完全戻っていない——

```

「放送中あんなことしてごめん」

```

航太首振る——

```

```

彼自分茶飲む——

```

「いい放送だったよ」

```

沈黙数秒二人とも茶飲む音だけ——

```

「おばあちゃんからのメッセージ初めてだった」

```

ゆみこ言った——

```

「知ってる?」

```

航太うなずく——

```

「名前見たらわかった」

```

彼窓の方向いて——

```

「でも読んでよかったと思う」

```

```

なぜ?

```

```

本当のことだから

```

本当のこと———

ゆみ考え込んだ確かに本当のことだけど放送中感情あふれてしまったこと恥ずかしいとも思っていたでも航太そう言う——

廊下向こう編集室明かり消える誰か帰宅足音遠ざかる——

航太また口開ける——

```

おばあちゃん今頃どうしてるかな

```

その言葉聞いてゆみ急立ち上がった鞄探す携帯電話どこ———

見つけた画面タップする着信音鳴る三回四回———

出た——

```

もしもし?

```

祖母声聞こえる背景テレビ音小さく———

```

ばあちゃん!

```

ゆみ叫びそうになる抑える———

```

今番組聴いてた?

```

一呼吸置いて——

```

もちろんよ

```

祖母笑い声混じり———

```

毎日聴いてるじゃない

```

```

メッセージ……

```

沈黙電話越しにはなが息つく音———

```

恥ずかしいこと書いちゃったかしら

```

違う違うそんなことじゃない———

ゆみまた泣きそうになる我慢する———

```

嬉しかった

```

短言葉それだけ———

電話向こう静かな笑い声———

```

そっか

```

それ以上何も言わなくていいはながすべて理解しているのが伝わってくる距離感———

暫し二人無言通話続けるただ呼吸分かち合うような時間———

最後にはなが言った——

```

明日も頑張りすぎないようにね

```

電話切れた後もゆみ受話器握りしめていた航太平然として待っている茶もう冷めてしまっていただろうけど文句一つ言わない———

やっと顔上げるとスタジオ暗くなっていた窓外街灯明かり連なる海の方暗闇深い波音聞こえない距離あるけど存在感じられる———

帰ろうか?

航太聞いた———

うん——

二人廊下歩く靴音響く清掃員挨拶交わすエレベーター降りる一階ロビー無人受付時計針六時半過ぎている———

外に出ると潮風香る五月夜肌寒いくらいだが心地よい———

駅まで送るよ——

航太言う自転車押しながら歩き始める——-

並んで歩くと子どもの頃思い出す学校帰り同じ道夕焼け見ながら帰ったこと何度あっただろう大人になってこんな形また一緒歩くなんて——-

信号待ちながら航太平然と言う—-

来週特集企画考えてきたんだ聞いてくれる?—-

仕事話いつもの調子—-

それが一番落ち着くと気づいた—-

海沿い道街灯黄色光帯状続く遠方江ノ島灯台点滅緑色一定リズム—-

自宅近づくと二階部屋明かり祖母起きているだろう—-

ここでいいよ—

玄関前立ち止まり—-

じゃあ—

航太自転車跨ぐ—-

おやす—

振り返らず去っていく背中見送る—-

ドア開ける家匂いいつもの味噌と畳香—-

ただいま—

呼びかけ返事なし居間行くとテレビ前椅子ではな眠っていた毛布膝掛けて口半開け規則的呼吸—-

そっと毛布掛け直す—-

テーブル上置かれていた一枚写真幼い頃自分とはなピアノ前並んで写っている自分泣き顔(練習嫌だった)祖母優しく微笑んでいる—-

毎日聴いてますよ—

それを握りしめ部屋戻る途中窓外見上げると雲切れて月現れる三日月細い光しかし確かにそこにある—-

明日天気良さそう—

呟き自分部屋入る—-

机上前週届いたリスナー写真何枚か貼られているその中一枚白石千鶴娘抱いた夕焼け背景写真正面美羽笑顔千鶴少し照れ笑い—-

明日もあなたひとコマ届きますように—

枕元ラジオ時計針光る録音機能オン明日朝一番昨夜放送聴き直す人いるかもしれない翔太君とか—–

布団潜ると一日疲れどっと押し寄せる意識遠くなる直前耳朶微かな音楽聴こえる気した幻聴だろうけど心地よい旋律祖母教えてくれた子守唄似ている—-

第5章

夕暮れてんとう虫

第5章 挿絵

# 第5章 夕暮れてんとう虫

エンジンの低い唸り。空調の風が頬を撫でる音。車内には、革のシートとほのかな芳香剤の匂いが混ざっていた。外はまだ明るいのに、車の中だけが青みがかった影に包まれている。白石千鶴はハンドルを握り、前方のテールランプの列を見つめていた。赤い光の点滅。ブレーキランプが次々と灯り、また消える。信号が変わっても、車列はほとんど動かない。

ダッシュボードの時計は17時12分を示していた。

彼女は左手を伸ばし、ラジオのダイヤルを回した。ノイズを挟んで、柔らかなピアノの音色が流れ出した。それから声。

「──今日もおつかれさまです。Wave 78.2、Magic Hour、ゆみこのおつかれさまラジオへようこそ」

千鶴はため息をついた。肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。

スーツのジャケットは助手席に掛けてある。白いブラウスの袖口が少しほつれていた。ネクタイを緩めるとき、首筋に一日の汗の匂いが残っていることに気づいた。会議室の冷房と部下たちの緊張した空気。数字と締切と評価という言葉が飛び交う空間から、ようやく抜け出したところだった。

「今日もたくさんの『あなたのひとコマ』が届いています」

ラジオからは紙をめくる音が聞こえた。

「まずは……『湘南ビーチサイド』さんから。『今日、初めてサーフィンに挑戦して転びまくりました。海水を飲んで塩辛かったけど、夕陽を見ながらビールを飲んだら最高でした』」

パーソナリティの声が笑った。

「転んでも立ち上がる勇気、素敵ですよね。海の塩辛さとビールの苦味、その両方が今日という一日の味なんですね」

千鶴は窓の外を見た。

道路脇には住宅街が続き、その向こうに海が見えるはずだった。でも今はビルの影に隠れている。彼女は毎日この道を通る。自宅のある逗子から鎌倉のオフィスまで。片道四十分のはずが、この時間帯なら一時間半はかかる。

娘の美羽は今頃どうしているだろうか。

学童保育からもう帰っているはずだ。夕飯は冷蔵庫にあるものを温めるように言っておいた。「ちゃんと野菜も食べなさい」とメモに書いた。「お母さん遅くなるから先にお風呂入ってね」とも。

美羽はきっと頷いて、「わかった」と言っただろう。

最近、その「わかった」という言葉にどこか諦めのような響きを感じることがあった。

ラジオから次のメッセージが読み上げられた。

「『カフェ巡り好き』さんからです。『今日見つけた小さなカフェで、シナモンロールを食べました。甘くて温かくて、ふわふわでした。隣のおばあちゃんと偶然席が隣になって、孫の話で盛り上がりました』」

「偶然って素敵ですね」パーソナリティの声が優しく続く。「知らない人との小さな交差点。シナモンの香りといっしょに、その時間も記憶に残りそうです」

千鶴はハンドルを握る手に力を込めた。

今日も午後の会議で若い部下を叱った。「資料の数字があっていない」「根拠は?」「なぜ確認しなかった?」言葉が次々と口をついて出た。部下は俯いて黙っていた。終わった後で、「あんな言い方じゃなかったかもしれない」と思ったけれど、「次から気をつけて」と言うだけでその場を離れた。

やさしくできなかった。

怒ってみたり。

それでまた後悔する。

車列がようやく少し動いた。

次の信号まで二十メートルほど進んで、また止まった。

ラジオからピアノの旋律が流れ始めた。

ゆっくりとしたテンポで、夕暮れに似た優しい音色だった。

歌う声も加わった。

*窓辺に落ちる夕陽のかけら*

*今日という日の重さを知る*

*ひと呼吸 深く吸い込んで*

*明日への小さな一歩になる*

千鶴は目を閉じた。

まぶたの裏側にオレンジ色の光が見えた。

歌詞が胸の中に入ってきて、何かが溶けていくような感覚があった。

曲が終わり、再び話し声になった。

「では次にお手紙をご紹介しますね……これは……」

少し間があった。

紙をめくる音ではなくて、タブレットか何かをタップする音だろうか。

「『夕暮れてんとう虫』さんからです」

千鶴は目を見開いた。

心臓が一度大きく鼓動した。

「毎日渋滞の中のお車の中で聴いています」

彼女自身のことばだ。

自分の書いた文章があんなにも他人のことばのように聞こえる不思議。

手帳に走り書きしたあの文字たち。

スマホで打ち込んだあのことばたち。

それが今、この車の中に戻ってきた。

パーソナリティが読み続ける声には微かな震えがあった。

感情的な震えではない。

丁寧に一語一語を受け止めようとする震えだ。

「今日も部下に厳しくしてしまいました」

千鶴は窓ガラスに映る自分の顔を見た。

表情がない。

一日中そういう顔で過ごしてきたのだろうか。

「やさしくできなかったり怒ってみたり」

読み上げられることば一つ一つが、

まるで小さな石のように胸の中に落ちていく。

痛みというより重みだ。

認められた重み。

「ハートが充電不足です」

最後のことばが出たとき、

千鶴は思わず息を詰めた。

そんなこと書いたっけ?

確かに書いたのだろうけど、

実際に声に出されて聞くと、

あまりにも直截的で恥ずかしくなった。

でもパーソナリティのことばはすぐに続いた。

間をおかず、

まるで待っていたかのように、

自然な流れで返事をつないだ。

「てんとう虫さん」

呼びかけられた。

その呼び方だけで、

なぜか涙が出そうになった。

「おつかれさまです」

ことばひとつひとつがあたたかい手のように差し伸べられる感覚があった。

「この一時間だけでも」

間があった。

マイクに向かって息をする音だけが聞こえた。

「あなたにとって」

また間があった。

ピアノのかすかな音色一つ鳴ったような気もしたけど、

それは想像かもしれない。

「充電器になれたらいいなと思います」

千鶴は目頭を押さえた。

泣いてはいないはずだったのに、

なぜか視界がぼやけた。

外を見ると、

西の方角から差し込む夕陽の光がいっそう強くなっていた。

車列全体を黄金色に染める光線だった。

フロントガラスには一日分ほこりの膜があり、

その上を通る光によって微細な傷や汚れまで浮き彫りになっていた。

そして彼女が見つけたのは、

フロントガラスの右下、

ワイパーの根本あたりにとまっている小さな赤い点だった。

最初は汚れかと思った。

でもそれは動いた。

ゆっくりと、

ほとんど気づかれないほどゆっくりと、

てんとう虫だったのだろうか?

赤い甲羅のようなものを持つ小さな虫だ。

それはフロントガラスを這い始めた。

斜め上方へ向かって、

不規則な軌道で進む。

夕陽を受けて、

その甲羅部分があざやかな朱色に輝いている。

まるで一粒だけ取り残された太陽のかけらのようだった。

千鶴は息を殺して見つめた。

虫はいったん止まり、

触角のようなものを動かした。

また進み出す。

第6章

魔法のコトバ

第6章 挿絵

# 第6章 魔法のコトバ

午後四時半。スタジオの窓から差し込む光が、ミキサー卓のツマミを金色に染めていた。空はまだ青い。でも西のほうがほんのりと薄いクリーム色に透け始めている。今日もあと三十分で放送開始だ。

ゆみこはピアノの前に座り、五線譜を広げていた。鉛筆が机の上で転がる音。消しゴムのカスが散らばっている。彼女はため息をついた。

「だめだ……」

メロディはある。指が自然に動く。白鍵と黒鍵が織りなす優しい旋律。春の風のような、夕暮れの波のような流れ。でも歌詞が書けない。一行目から詰まる。

「Magic Hour」

タイトルだけは決まっていた。番組と同じ名前だ。この一年間、毎日向き合ってきた時間を歌にしたい。なのに言葉が出てこない。

スタジオのドアが開く音。

「お、今日も早いね」

航太が入ってきた。Tシャツの袖をまくり上げた腕に、汗が光っている。外から運んできた機材の箱をそっと床に下ろす。

「暑くなってきたよ。もう五月か」

彼はサングラスを頭に上げたまま、ゆみこの様子を見た。

「どうした? 真剣な顔して」

「新曲……書いてるんだけど」

ゆみこは五線譜をくるりと裏返した。白紙が見えるように。

「メロディはできたんだけど、歌詞が全然」

航太はミキサー卓の前に座ると、ヘッドフォンを片耳にかけた。

「聴かせてよ」

「まだダメだよ」

「メロディだけでいいから」

ゆみこは少し躊躇った。それからピアノに向き直った。

指が鍵盤に触れる。最初はそっと、探るように。そして流れ出す旋律。短調から長調へ移る転調が、夕焼けの色の変化を思わせる。高音部で輝く音符たちは、雲の切れ間から漏れる最後の陽光のようだ。

一分ほどの演奏が終わった。

航太はヘッドフォンを外した。

「いいね」

「でも……」

「言葉で言おうとするからだよ」

航太は椅子ごとくるりと回ってゆみこを見た。

「ゆみちゃんはラジオで自然に言葉出てるじゃん。あの感じでいいんだよ」

ゆみこの目が泳いだ。

「あれは私の言葉じゃなくて……リスナーの言葉なんだよね」

彼女はピアノの蓋をそっと閉じた。

「毎日届くメッセージを読んで、それに返事をするだけだもの。

『今日もおつかれさま』って言うのも、

誰かの『おつかれさま』を受け取ってからだから……」

航太は黙って聞いていた。

窓の外でカラスが一声鳴いた。

スタジオ内の時計の秒針が進む音。

五時まであと十分。

「それがゆみちゃんの言葉だよ」

航太の声はいつもより低かった。

静かで確かな響きがあった。

ゆみこは顔を上げた。

航太は真っ直ぐ彼女を見つめている。

目尻に笑い皺があるのに、

表情は真剣そのものだった。

「リスナーの言葉を受け取って、

それを自分の声で包んで返す。

その過程全部がゆみちゃんなんだよ」

彼は立ち上がり、

コーヒーメーカーに向かって歩き始めた。

ポットを持つ手元から湯気が立ち上る。

「メロディもそうだろう?

誰かのために歌いたいっていう気持ちから

生まれてくるんだろ?」

コーヒーカップが二つ、

机の上に置かれた。

深煎りの香りが漂う。

ゆみこはカップを持つ手を止めた。

熱さを通して伝わる陶器の質感。

指先に残る微かな震え。

彼女はふと思い出した。

一週間前のことだ。

ラジオネーム「夕暮れてんとう虫」からの

メッセージを読んだ日のこと。

『ハートが充電不足です』

そう書かれた一行を見たとき、

胸の中にぽっかり穴があいたような

感覚があった。

そして返す言葉を探しながら、

自分自身もまた充電が必要だと

気づいたのだ。

その夜、

家で祖母のはなと夕食を食べながら、

ふと言葉が出た。

「ばあば、

私の声って誰かに届いてるのかな?」

祖母は味噌汁のお椀を持ったまま、

少し首をかしげた。

耳が遠くなっているので、

聞き取ろうとする仕草だった。

「届く人には届くよ」

彼女はそう言って微笑んだ。

目尻の皺が深くなる。

「歌もラジオも同じことさ。

風みたいなものだね」

風……

ゆみこは窓の外を見た。

空色が次第に薄くなり、

地平線近くにオレンジ色が滲み始めている。

今日もマジックアワーが近づいている。

五時になった。

放送開始時刻だ。

ゆみこはヘッドフォンを耳にあてた。

マイクに向かって深呼吸をする。

航太が見守っているのが背中でわかる。

彼があっち側──リスナーと同じ側に

立っていることを感じる瞬間だった。

オンエアランプが赤く光った。

『Wave 78.2、夕方五時です』

『今日もおつかれさま』

『篠原ゆみこのおつかれさまラジオ、

Magic Hour──』

いつもの挨拶だが、

今日は少し違う響きがあった。

自分の声の中に、

これまでとは違う何かを感じたのだろうか?

最初の曲を流している間、

ゆみこは五線譜をもう一度見つめた。

白紙だったページに、

ふと一行書き加えたくなった。

***

車の中では白石千鶴がハンドルを握っていた。

今日も渋滞にはまっている。

信号待ちで止まったとき、

フロントガラスにとまった小さな虫を見つけた。

またてんとう虫だった。

赤い背中に七つの黒い点がある。

先週送ったメッセージについて

まだ少し恥ずかしい気持ちがあったけれど、

同時になんだか軽やかな気分でもあった。

秘密を知られている安心感のようなものだ。

***

翔太は部屋の中でイヤフォンをしていた。

昼間でもカーテンを閉め切った暗い部屋で、

昨日録音した放送をもう一度聴いているのだ。

『明日も笑おう』

パーソナリティーの女性──

篠原ゆみこの口癖とも言えるこの言葉を

翔太は繰り返し聴いた。

なぜだろう?

この一言だけ特別な響きを持っているように感じられた。

***

スタジオには夕焼け色がいっぱいに広がっていた。

窓ガラスを通して入ってくる光が床や壁や機材すべてを

茜色に染めている時間帯だ。

ゆみこは片付けながらふと口をついた。

「航太くん」

「ん?」

「さっきのこと……ありがとう」

航太はケーブルを巻く手を止めたわけではないけど、

耳だけこちらに向けているのがわかった。

「何のこと?」

「歌詞のこと」

ゆみこはピアノ椅子にもたれかかったまま空を見上げた。

雲一つない西空にはグラデーションがある一番濃い部分──

太陽があった場所だけ真っ赤になっていた

「私ね……

リスナーさんのメッセージ読むときいつも思うんだ」

彼女はいつの間にか膝を抱えていた

小さくなった姿勢で話し続ける

「この人の痛み私にはわからないかもしれないけど

せめて寄り添うことはできるかなって」

航太はいよいよケーブル巻き終えて立ち上がると

窓際まで歩いて行った

背中越しに見える肩幅広いシルエット

夕陽逆光であたり一面金色

沈黙数秒経って彼振り返った

顔半分影になっているけど目だけしっかり光っている

“それが歌になるんだよ”

声低くて温かい

“誰かの痛み寄り添おうとするその気持ちそのものが”

“魔法コトバになる”

最後一言言い切ると照れたように首掻いた

“なんてね”

“そんな大層こと言える立場じゃないけどさ”

ゆみこ立ち上がった

足元スニーカー軋む音

五線譜持って再びピアノ前座ると鉛筆握りしめた

今なら書ける気する

最初一行浮かんでくる

『あなた痛いくらい青空見上げてました』

どこかで読んだメッセージ断片かもしれない

でも今それは自分言葉として湧いてきた

右手首ミサンガ揺れる

リスナー子供からの手作り贈り物細かいビーズ縫いつけてある

一つ一つ違う色夕焼け全部含んでいるようだった

第7章

届かない声

第7章 挿絵

# 第7章 届かない声

午後三時、部屋の空気は淀んでいた。

埃と古い紙の匂い。カーテンの隙間から差し込む光が床に細い線を引く。その線の中を塵がゆっくり舞っている。翔太はベッドの上で横向きに寝たまま、イヤフォンから漏れるかすかな音を聞いていた。スマホの画面は暗い。充電ケーブルが絡まったまま床に垂れ下がっている。

外から子供たちの声が聞こえる。

放課後の声だ。

翔太は目を閉じた。イヤフォンの中では昨日の「Magic Hour」が流れていた。録音したものだ。ゆみこの声が遠くから聞こえてくる。

「——今日もおつかれさま」

柔らかい声。ピアノの音が少し歪んでいる。録音状態が良くないのだろう。それでも翔太は毎晩、この歪んだ音を聴いていた。

「リスナーのみなさんから届いたメッセージ、ありがとうございます」

窓の外で自転車のブレーキ音。誰かが笑っている。

翔太は枕を抱きしめた。布団の感触が冷たい。

部屋には本棚がある。小学校時代の文集、賞状、習字の道具箱。すべて過去のものだ。机の上には未提出の課題プリントが山積みになっている。一番上のプリントには担任からのメモが書いてある。「体調はいかがですか」。赤ペンで。

翔太は目を開けた。

天井にひび割れがある。去年の冬にできたものだ。そのひび割れを毎日見つめているうちに、それが地図のように見えてきたことがある。どこか遠くへの道筋のように。

イヤフォンからゆみこの歌が流れてきた。

いつも同じ曲だ。「小さな手のひら」。翔太は歌詞を暗記している。

> 小さな手のひらで 空をつかもうとして

> 届かないのに ずっと手を伸ばしてた

彼は自分の手を見た。

細くて白い手。爪を噛んだ跡がある。

歌が終わると、ゆみこが話し始める。

「——届かなくても、手を伸ばすことには意味があるんですよね」

少し間があく。

「私もそう思いたいです」

翔太は息を吸った。

胸の奥が締め付けられるような感覚があった。

部屋の中が少し暗くなってきた。カーテンの隙間からの光線が斜めに傾いている。塵の舞う速度が遅くなったように見える。

翔太は起き上がった。

背中が痛い。ずっと同じ姿勢でいたからだ。

スマホを持ち上げる。

画面に指を当てるとロックが解除される。背景写真は何も写っていない青空だ。去年の春、まだ学校に行けていた頃に撮ったもの。

彼はブラウザを開いた。

Wave 78.2の番組サイトにアクセスする。「Magic Hour」のメッセージ投稿フォームが出てくる。

画面上部には今日のテーマが表示されている。

「今、一番小さな幸せ」。

翔太は指を動かした。

キーボードが出てくる。ローマ字入力だ。

打ちかけて止める。

何を書けばいいのかわからない。

幸せ?

そんなものがあるなら教えてほしい。

彼は消去ボタンを押した。

白い画面だけが残る。

窓の外で車のエンジン音。

帰宅する人たちだ。会社員だろうか。家族のために早く帰ろうとしている人たち。

翔太はまたキーボードに向かった。

指先が冷たい。

「部屋から見える空が」

打ち込む。

「青いだけで」

また止める。

馬鹿みたいだ。

こんなことを書いてどうする。

でも指は動き続けた。

「学校に行けなくて」

一行追加する。

「ごめんなさい」

画面を見つめる。

文字列が並んでいる。「部屋から見える空が青いだけで」「学校に行けなくてごめんなさい」。

意味がない文章だ。

バラバラで繋がっていない。

翔太は顔を上げた。

カーテンの隙間から外を見る。確かに空は青い。でもその青さが痛いほど鮮やかに感じられるのはなぜだろう。

彼はもう一度スマホを見下ろした。

送信ボタンがある。「メッセージを送る」と書いてあるボタンだ。

指先を近づける。

画面に触れる直前で止まる。

届かない声があることを知っている。

いくら叫んでも壁に跳ね返ってくるだけだと知っている。

以前、保健室の先生に話したことがある。「どうして行けないんですか」と聞かれて、「わかりません」と答えたら先生は困った顔をした。「わからない」という答えを受け入れられない大人たちが多いことに、翔太は気づいていた。

イヤフォンからまたゆみこの声が流れてくる。

録音だから昨日のことなのに、今ここで話しかけられているように感じる。

「——大丈夫ですよ」

ゆみこが言う。

「無理して笑わなくても」

翔太は目を見開いた。

その言葉、覚えていない部分だったかもしれない。何度も聴いているはずなのに初めて耳に入ってくる言葉があるのだ。

「辛いときは辛いって言っていいんです」

ピアノの音一つ。

「泣きたいときは泣いていいんです」

スマホの画面に涙が落ちた。

一粒、二粒。文字列が滲んでいく。

翔太は慌てて袖で拭った。

消してはいけないと思ったのだろうか、それとも消えたほうがいいと思ったのだろうか、自分でもわからないまま指先で画面をこすった。

涙で文字が滲んで、「ごめんなさい」だけが見えなくなっていた。「ごめんな」まで残って、「さい」がない状態になった変な文章になっていた。

彼は笑いたくなった。

泣きながら笑うような気分になったけど、結局どちらもできなかったただ鼻水が出ただけだったティッシュがないので袖で鼻を拭った

部屋の中は完全に薄暗くなっていたカーテンの隙間からの光線も消えている外では街灯がいつの間にかついているオレンジ色の光

スマホを持ち直す

送信ボタンを見つめる

光っている

緑色の発光ダイオードのように見える実際には液晶画面の発光だけど夜目には本物のように輝いている

押せば届く

少なくとも技術的には届くサーバーを通ってラジオ局に行くデータとして存在することになる

でも

本当に届くだろうか

この気持ち

この重たくて形にならないものが言葉になって誰かに理解されるだろうか

翔太はため息をついた

息遣いだけがあまりにも大きく響いた暗い部屋の中で

指先をもう一度近づける

今度こそ触れるかもしれない距離まで

その時

廊下から母親の声が聞こえた

「翔太ちゃん晩ご飯何にする?」

優しい声だった

心配そうな響きを含んだ優しさだった

翔太は反射的にスマホを伏せた

画面が見えなくなるようにベッドに押し付けた

「……なんでもいい」

声が出た

かすれて乾いた声だったけど出た

廊下でため息のようなものが聞こえたかもしれない聞こえなかったかもしれない足音が遠ざかる母が出ていった

部屋の中にまた静寂が戻る

イヤフォンからゆみこの番組終わりの挨拶流れてくる

「それでは今日も一日お疲れ様でした明日も笑おうね」

ああまたその言葉だ

明日も笑おうね

翔太はいつの間にか送信ボタンの上指置いていることに気づいた触れているわけではない浮いているだけ画面上数ミリ手前で震えている指先が見える

押す?

押さない?

彼目閉じる

深呼吸一つ深く吸って吐くことを試みる肺苦しいくらい空気入ってくる吐くと同時力抜ける全身力抜けるベッド沈むような感覚

開ける目

スマホ画面見つめるもう一度文字読む滲んだ文字読む

そして決断する指動かす上滑らせる削除ボタン押す一瞬確認メッセージ消える真っ白な投稿フォーム残る何もなかったように戻る

届かない声なら最初から出さなければいい

そう思うことにした少なくとも今日だけそう思うことにした

スマホ置くベッド横イヤフォン外す耳解放される外界音入ってくる台所食器触れる音テレビニュース流れる音生活音全部混ざって一つの日常作っている音それ全部向こう側にある音自分ここ側いる世界違う世界感じる

窓辺立つカーテン少し開ける外見下ろす街路樹街灯照らされて影作っている向かい家窓明かりついている家族夕食準備している姿見える父親帰宅して子ども抱き上げている小さな子どもの笑顔見える遠くに見えるけど確かにそこにある幸せ形ある幸せ見える形ある幸せ持っていない自分いる形ない何かを探している自分いる探しても見つからないかもしれない探し続けるしかない自分いるなぜなら——

なぜなら止まればそこで終わりだから動かなければ進まないけど動けないときもある動けない自分許せないときもある許せなくても時間過ぎていく時間過ぎていく中で変わらない自分残される変わらない自分嫌になる嫌になるけど変われない変われない自分抱きしめるしかない抱きしめ方わからないだから苦しい苦しさ言葉にならない言葉にならないものが喉詰まって窒息しそうになる窒息しないために吐き出す必要ある吐き出す場所必要だけど——

場所がないなら作ればいい?

そんな簡単じゃない知っている簡単じゃない知りすぎているほど知っているそれでも……

窓ガラス自分の顔映っている暗闇背景ぼんやり浮かぶ少年姿前髪長すぎて目隠れている口角下げている笑えない顔している明日笑おうと言われても笑えない顔しているそんな顔している自分嫌じゃなかったはず嫌じゃなかったのに今なぜ嫌なぜ涙出るなぜ——

振り向く部屋暗闇戻るベッド戻り横になるイヤフォンもう一度耳突っ込む再生ボタン押すゆみこの番組最初からもう一度聴き始める今日三回目かもしれない四回目かもしれない数えてない数える意味感じないただ流れる声聴きたい聴きたいだけ聴きたい理由なくただ聴きたい——

ピアノ弾き語り始まる今日違う曲いつもと違う曲新しい曲かもしれない歌詞聞き取ろうとする耳澄ますゆみこの声少し震えている緊張しているのかもしれない初めて歌う曲かもしれないそれでも歌っている歌いつづけている歌いつづけること意味あるのかもしれない意味なくても歌いつづけることそれ自体意味あるのかもしれない——

そう思いたい

そう思えない自分いるけどそう思いたい願望として抱きたい希望として持っていたい明日のために今日のために今のためにただ——

スマホ握りしめる暗闇中液晶光放つ握りしめた手汗ばんでいる暖かい自分の体温感じる生きている証感じる生きていていいはず生きていていいはず生きていていいはず何度繰り返しても確信持てない確信持てなくても生き続けるしか選択肢がない選択肢がないなら選ぶ必要がない選べなくていいい楽かもしれない楽じゃなく苦しい苦しいまま進むしか——

進む方向どこ?

わからない道歩いてどこ行く?

わからない目的地目指して歩いてどこ着く?

わからないそれでも歩かなければならない歩かなければそこ動かない動かない場所腐っていく腐りたくない腐りたくない腐りたくて腐りたくて腐りたくて——

泣いた

突然ではない段階踏んで最後涙腺崩壊静かに涙流れた止まらない理由わからない止めようがない袖濡れる布団濡れる濡れていく感覚冷たくなる感覚すべて遠くなる感覚その中ゆみこの歌声だけ近くなる魔法のように近くなる耳元囁くように響く魔法ではないけど魔法のように感じられる瞬間存在する瞬間存在するだけで救われる瞬間存在する——

夜更けまで聴き続けた

何度同じ部分繰り返したか忘れた記憶曖昧になるくらい繰り返した朝方眠り落ちたときスマホまだ握っていたイヤフォンまだ耳突っ込んでいた音楽流れ続けていた電池切れる直前まで流れ続けていた朝日昇るとき電池切れて無音になった無音の中眠り続けた夢見なかった空白時間過ぎていった空白埋めるもの何もなかった空白それ自体存在意義あったかもしれなかった空白それ自体満たされていたのかもしれなかった満たされていないのに満たされている錯覚必要だった必要な錯覚——

次の日曜日午後三時再び同じ時間同じ場所同じ姿勢唯一違うこと窓開けてあった少し風入ってきた春風桜散り始めた時期風乗って花びら一枚部屋入ってきた床落ち静かに横たわる花びら拾い上げ掌載せる薄ピンク色透けて見える脈打つような色命終わり際美しさ極める色命終わり際美しくなる不思議命終わり際輝く不思議——

掌花びら載せたまま窓辺立つ外見下ろす子どもたち公園遊んでいるサッカー少年たち走り回る女子たち縄跳び楽しむ年寄りベンチ座って日向ぼっこ犬散歩する人々すべて動いているすべて生きているすべて輝いているその中自分だけ止まっているように感じる止まっているわけではない内側激しく動いている外側現れていない内側激しく動いている外側静かな矛盾抱えている矛盾解けないまま抱え続けるしか——

スマホ取り出すもう一度サイト開く投稿フォーム開く白い画面見つめる今度書けるかもしれない期待少し持つ期待裏切られる怖さより期待持つ勇気少し湧いてくる勇気湧いてくる瞬間逃さず指動かす文字打ち込む一気呵成打ち込む考える間与えず感情任せ打ち込む完成文章読む読んで驚く自分書いた文章信じられないくらい素直文章素直すぎて恥ずかしい恥ずかしいけど消さない消さずに見つめる送信ボタン光っている今回触れるかもしれない触れる決意固まる固まる前に母呼ぶ声聞こえるまた同じ時間同じ呼びかけ繰り返される日常繰り返される中変化生まれる可能性可能性掴むため行動必要行動起こすため勇気必要勇気湧かないとき待っていればいい待っていればいつか勇気湧いてくる日来ると信じて待つ信じること難しくても信じたい信じたいから——

送信ボタン押さなかった今日も押さなかった明日押せるかもしれない明後日かもしれない来週かもしれそもそも押す必要あるのか疑問湧いてくる疑問答え出てこなくても疑問持ち続けること大切かもしれ疑問持ち続けること生きている証かもしれ生きている証求め続ける自分肯定したい肯定できなくても肯定しようとする努力無駄じゃ無駄じゃ思いたい思えないときもある思えないとき諦めずまた思おうとするその繰り返し人生かもしれ人生そんなもの受け入れられる日来るだろう来ると願って願い続けて願いつづけて願いつづけること祈ること祈ること歌うこと似ている歌風一緒届く人届くと祖母言っていた祖母正しかったのか確かめたかった確かめる方法知らない知らない道歩いて発見するしか発見できると信じて歩き出す一歩踏み出すため地面蹴る必要蹴る力湧かないとき休んでいい休んで力溜めてまた挑戦すればいい挑戦繰り返していればいつか進む進んだ実感持てるとき来ると信じて——

夕方五時近づいてきたマジックアワー始まる時間ラジオンしない生放送聴かない代わり窓開けて空眺める西空染まり始めるオレンジ色グラデーション紫混じり赤混じり一秒ごとに変わる色彩魔法のような時間魔法のような時間共有している人々いる海沿いドライブウェイ渋滞車中会社員女性台所夕食準備主婦病院ベッド患者ラジオ局ブース歌手兼パーソナリティすべての人々同じ時間共有しながら別々場所別々思い抱えて生きている別々思い繋ぐもの電波電波乗せて飛ぶ言葉言葉受け取る心心動かされ新言葉生まれ循環生まれる循環一部になりたいなりたくてもなれなくても循環存在知っているだけで救われる救われる程度小さくても救われる瞬間大切大切だから守りたい守りたいもの増えていく守りたいもの増えることは生きること証明増やしていきたい増やしていけると信じて増やしていこう増やしていこう決意固まる固まる前に夕焼け沈んでいく沈んでいく前最後輝き放つ一瞬世界金色染まる一瞬金色浴びて花びら掌輝く一瞬輝き記憶焼き付けて記憶糧にして明日迎える明日迎えるため今日終わる今日終わる前にできること一つ一つ積み重ねていく積み重ねていく過程人生人生受け入れられる日来ると願って願いに終止符打たず願いつづけて願いつづけること祈ること祈ること生きること似ている似ているから続けよう続けよう一人でも続けよう誰かのためではなく自分のために自分のために生きよう生きよう決めて決めてすぐ迷っても迷ってもまた決めればいい決め直せばいい決め直す自由ある自由使わなければ使わなければ自由意味なくなっても自由存在知っていればそれだけで希望希望灯して灯して消えないように守って守って守ることができなければ誰かに守ってもらえばいい誰かに頼ればいい頼ること弱さじゃ頼ること繋ぎ始め繋ぎ始めた証証残したい証残せる日来ると信じて今夜眠りにつくと

第8章

ハートが充電不足

第8章 挿絵

# 第8章 ハートが充電不足

午前八時四十分。オフィスのエレベーターから流れ出る人の波。コーヒーと紙の匂い。冷房の効きすぎた空気が首筋を撫でる。千鶴はブリーフケースを脇に抱え、スマートフォンの画面を確認しながら歩いた。今日のスケジュールがスクロールしていく。九時から経営会議。十一時半に新入社員向け研修の打ち合わせ。午後は四件の面談と、月末締めの書類チェック。

「白石さん、おはようございます」

受付の女性が笑顔で挨拶する。千鶴はうなずき、口角をほんの少し上げた。表情筋が固い。

自分の席に着く。パソコンを起動する音。隣のデスクからは若い男性社員が慌ただしく書類を探している。千鶴は視線を向けず、カレンダーに印をつけた。今日は水曜日。美羽の習い事がある日だ。

「あの、白石課長……」

振り返ると、入社二年目の女性社員が立っていた。名札には「田中」とある。顔色が悪い。

「どうしました」

「すみません、昨日お渡しした報告書なのですが、数値の入力ミスが見つかりまして……」

千鶴は息を吸った。ゆっくりと。

「修正版はありますか」

「今、急いで直しています。十時までには……」

「九時の会議でその資料を使います。三十分後までに私のデスクに置いてください」

声は平らだった。低く、冷たくないように気をつけながら。

「はい、すみません!」

田中さんが小走りで去っていく背中を見て、千鶴は目を閉じた一瞬。昨日の夜、彼女が残業していたことを思い出した。「お先に失礼します」と声をかけるべきだったのかもしれない。でも自分も締め切りに追われていた。

やさしくできなかったり怒ってみたり。

パソコンの画面に映る自分の顔が、少し歪んで見えた。

会議室の窓から差し込む光が長テーブルを白く照らす。プレゼンテーションの数字がプロジェクターに映し出される。千鶴はメモを取りながら、上司の頷き方を観察する。ここで質問すべきか、それとも後で個別に報告するか。

「白石さん、どう思いますか」

突然名前を呼ばれた。

「はい」

千鶴は姿勢を正した。

「Aプロジェクトの進捗について、現場からの声はありますか」

「先週ヒアリングを行いました。現在、システム側との連携に課題が三点あります」

数字と具体例を挙げる。根拠を示す。提案をする。

上司は満足そうにうなずいた。

隣席の同僚が小声で言った。「さすがですね」。千鶴は微笑んだふりをして、机の下で手を握りしめた。爪が手のひらに食い込む感覚。

昼休み、ほとんど取れなかった。

コンビニのおにぎりをデスクで食べながらメールを処理する。

美羽からLINEが来ていた。

『ママ、今日お迎え遅くなる?』

背景には学校の絵が貼ってある廊下の写真。

千鶴は指を止めた。

『ごめんね、今日も遅くなりそう。

おばあちゃんにお迎え行ってもらうね』

すぐに既読がついた。

返信は来ない。

面談二件目が終わったところで携帯が震えた。

母からの着信だ。

「千鶴? 美羽ちゃんのことだけど……」

声に焦りがあった。

「どうしたの?」

「今日ね、私歯医者の予約があってさ、

四時半まで行かなきゃいけないんだよね」

千鶴は眉間に皺を寄せた。

「……何時に終わる?」

「五時過ぎになると思う。

美羽ちゃんのお迎えは四時半よね」

そうだ。

水曜日は習い事があるから、

いつもより三十分早く保育園にお迎えに行かなければならない。

胸の中に重たいものが転がり込んだ。

「わかった。

私の方で調整するから」

「ごめんね、

急に言って」

電話を切ると、

千鶴は一呼吸置いてから保育園に連絡した。

延長保育をお願いできるか尋ねる。

「白石さん、

申し訳ないのですが、

本日は担当職員も少なくて……

六時まででしたら可能ですが」

六時。

今から残業なしで帰ったとしても渋滞で間に合わない。

次に習い事の教室に電話する。

休ませる連絡をするとき、

受付の方の声が少し残念そうだった。

『美羽ちゃん、

楽しみにしてたんですよ』

千鶴は机にもたれかかった。

額が冷たい木材につく。

ようやく書類処理が一段落した。

オフィスにはまだ何人か残っている。

田中さんもいた。

彼女はこっそりと千鶴を見て、

すぐに視線をそらした。

帰ろうとしたとき、

上司が近づいてきた。

「白石さん、

ちょっといいかな」

差し出されたのは新しいプロジェクトの概要書だった。

「これ、

明日中に見ておいてほしいんだよね」

ページ数を見て、

千鶴は瞬きをした。

三十ページ以上ある。

「……わかりました」

自分の声がどこか遠くから聞こえてくるようだった。

鞄を持ち、

エレベーターに向かう足取りが重い。

ガラス窓に映る自分はスーツ姿のまま、

まるで鎧をまとっているようだ。

それが少しずつ体の中へ沈み込んでいく感覚。

駐車場に入るとき、

西空が見えた。

まだ明るいけど、

端っこがほんのりオレンジ色になっている時間帯だ。

車のエンジンをかける。

冷房をつける前に窓を開けたほうがいいと夫に教わったことを思い出す。

もう三年も前のことだ。

道路に出るとすぐに渋滞にはまった。

湘南海岸道路はこの時間帯、

赤いテールランプの川になる。

ハンドルを握りながら、

千鶴はため息をついたわけではない。

ただ深く息を吸って、

ゆっくり吐いただけだ。

ラジオをつける。

チャンネル選びも面倒だからそのままにする。

流れてきたのは懐かしいポップスの曲だった。

信号待ちで停車中、

スマートフォンを見た。

母からのメッセージがあった

『無事にお迎えしたよ!

美羽ちゃんとこれから家に帰ります』

続けて写真が一枚送られてきた。

保育園前で母と並ぶ美羽のだんご鼻が見えるショットだ

笑っていない

ただ真っ直ぐカメラを見ている

次のメッセージ

『ママ遅いねって何度も言ってたよ』

胸のあたりがぎゅっと締め付けられた

渋滞の中で時間だけが過ぎていく

車内にはエンジンの低音とエアコンの音しかない

外ではバイクが列車のように縫うように走っていく

ふとラジオから聞こえてきたのはピアノの音だった

優しいコード進行

それから声

『──ということで次の曲へ繋ぎたいと思います

今日もたくさんのメッセージありがとうございます』

ゆみこの声だ

Wave 78.2

Magic Hour

『さて皆さん

ハート充電具合はいかがでしょうか』

信号で止まった

前方には海が見える水平線

空がいまオレンジ色から薄紫色へグラデーションしているところだ

『充電不足の方

いませんか?

この一時間で満タンにして帰りましょうね』

ゆみこがあまりにも自然にそう言うので

思わず千鶴は口元が緩んだ

ピアノの前奏が始まる

ゆみこ自身の曲だとわかる

シンプルなメロディーライン

歌詞が出てきた

“ため息ついたっていいんだよ 一日頑張った証拠さ”

“涙こぼしたっていいんだよ 心がいっぱいいっぱいなサイン”

“無理して笑わなくていい そのままのお前でいい”

“ただここにあるよ この音と言葉”

車内がいつの間にかその歌声だけで満たされていた

窓越しに見える夕焼け空と言葉たちがあわさって

何か柔らかいものが胸の中に入ってくるようだった

次の曲に入る前にゆみこが話す

『先ほどお便り紹介した“夕暮れてんとう虫”さん……

そうですね……

私もよく思うんです』

間がある

マイク越しのかすかな息づかい

『完璧じゃなくていいんだって……

上手くできなくてもいいんだって……

でもそれを認めるのが一番難しいんですよね』

信号待ちでもう一度停まった

交差点正面にはコンビニがあり明るい光が出ているその向こう側にはもう暗くなり始めた海がある

『だから今日言いますね……

あなたのお疲れさまを受け取ります』

ゆみこの声があまりにも優しくて直截的だったので突然涙腺があやしくなったわけではないただ目頭があつくなっただけだハンドルを持つ手をもっと強く握らないといけないような気持ちになっただけだ

次の曲またオリジナル曲だろう穏やかなテンポギターも入っているかもしれない耳馴染みのあるメロディーそれは以前にも放送されたことがある曲だと気づいた確かタイトルはずっと忘れていたけど今思い出した『小さな手』という題名だった歌詞の中に出てくる“小さな手につながる大きな手”というフレーズ美羽のこと考えてしまった彼女との約束また破ってしまった明日謝ろうどんな顔して謝ろう彼女ならきっとこう言うだろう『ママ仕事頑張った?』そんなこと聞かれちゃうだろうそれが一番辛かったかもしれない理解されること許されることそれが一番胸につっかえるものだったかもしれないなぜなら自分自身ではまだ許せていないから自分自身ではまだ理解できていないからただ走り続けてきただけだからどこに向かっているのかもわからないのに走り続けてきただけだからでも今この瞬間ラジオから流れてくる歌声だけがある種道標のように感じられたわけではないただ灯りのように感じられた暗闇の中にある小さな灯りのようにそれは導かないけどそこにあるだけで安心できるような灯りのようなものだったかもしれないそんな風にして音楽と言葉たちはいつの間にか車内空間全体を作り変えていた外側では相変わらず渋滞していたテールランプ赤々と光っていた空はいま完全な藍色になったところ端っこにはまだ名残りのピンク色薄く滲んでいるそんな中ゆみこの番組終わり近づいていることが告げられるいつものあつまり方だ最後一曲ですと言われそしてピアノ弾き語りの始まるこれは知っている曲リスナーリクエストだろう誰かの大切な人への想い乗せたリクエストだろう歌っているうち番組終わる時間迫っているのがわかるゆみこ最後言葉紡ぐいつものように短く温かい言葉たち明日繋げるような言葉たちそして最後必ず言うあ言葉今日おつかれさまですまた明日お会いしましょう番組終わり静寂戻る代わり交通情報流れ出す千鶴ラジオ消さなかった音量下げただけエンジン音再び前面に出てくる前方車列動き始める青信号変わっていた気づかないうち変わっていたアクセル踏む車ゆっくり進んでいく窓開けた潮風入ってくる少し湿った空気肌触れる左手伸ばしてダッシュボード上にあるスマホ取る片手操作危険だからやめようと思いつつも母宛メッセージ打つ『今渋滞抜けたところ帰ります美羽寝ちゃっても起こさないであげて』送信押すすぐ既読つく返信来る『わかった気をつけて帰ってきてね』スタンプ付きタヌキ寝顔スタンプそれ見てふっと笑えた自分でも驚くくらい自然笑顔浮かんでいた信号また赤変わる停車するときふとハンドル見上げた革巻き部分光反射しているそこへ額つけてみた目閉じる温かい体温伝わってくる自分の体温疲れている証拠かもしれないでも生きている証拠でもある呼吸感じる鼓動感じるラジオ消えてしまったけど耳奥まだゆみこの歌声残響しているような気配あった明日また聴こう同じ時間同じ場所同じ渋滞の中でまた聴こうそう思わせる何かあった目の前信号青変わる

第9章

山に帰ってく

第9章 挿絵

# 第9章 山に帰ってく

雨の匂いが窓の隙間から入ってくる。湿った土とアスファルト、濡れたコンクリートの匂い。スタジオの空調は弱めに設定されていたが、それでもガラス越しに伝わる湿度が肌にまとわりつく。ゆみこはヘッドフォンの耳当て部分を軽く持ち上げ、汗ばんだ耳を一瞬だけ解放した。

ミキサー卓の向こうで航太が手を上げた。

三本の指。

あと三分。

ゆみこはマイクに向かって背筋を伸ばした。今日の放送は重かった。リスナーからのメッセージが、どれも雨のように湿り気を帯びていた。

「——では最後に、『夕暮れてんとう虫』さんからのメッセージです」

彼女はモニターに表示された文字を追った。白石千鶴の文章はいつも整然としていて、余分な装飾がない。今日は娘との約束をまた破ってしまったこと、部下にきつく当たってしまったこと、自分がどんどん嫌な人間になっていくような気がすること。

「『夕方、車の中でゆみこさんの歌を聴いているときだけ、息ができるような気がします』」

声が少し詰まった。

ゆみこは目を閉じた。

「『でもラジオが終わると、また同じ自分に戻ってしまう。この先ずっと、こんな毎日なんでしょうか』」

スタジオにはピアノの残響だけが残る。

雨音が窓を叩く。

「……ありがとうございます。『夕暮れてんとう虫』さん」

ゆみこはマイクから少し離れ、息を吸い込んだ。

「今日も一日、本当におつかれさまでした」

彼女の指が鍵盤の上に落ちた。

今日三曲目の弾き語り。選んだのは自作の「傘がない」。

*雨の中 傘がない*

*誰かの傘に入れてほしい*

*でも声が出ない 手も上げられない*

*ただ濡れている*

声はいつもより低く、深いところから湧き上がってくるようだった。

航太がミキサーのツマミを静かに回す。中音域を少し強調している。

一曲終わると、沈黙が流れた。

いつもならすぐに次の言葉をつなぐところだ。

「……今日の放送はこれでおしまいです」

ゆみこはようやく口を開いた。

「明日も十七時から。お待ちしています」

ジングルが流れる。

オンエア終了のランプが消えた。

ゆみこはヘッドフォンを外し、机の上に置いた。手のひらを見る。汗で少し光っている。スタジオの照明が白く冷たく感じられた。

ドアが開いた。

航太が入ってくる足音。

「おつかれ」

彼はコントロールルームから持ってきたペットボトルのお茶を差し出した。

「今日は……重たいメッセージ多かったね」

ゆみこは受け取り、「ありがとう」と小声で言った。

蓋を開ける音だけが響く。

「私の返し方」彼女はペットボトルを持ったまま俯いた。「ちゃんと届いてるのかな。ただ『おつかれさま』って言うだけじゃ……」

「届いてるよ」

航太は即座に答えた。

「だってさ、『夕暮れてんとう虫』さんだって書いてたじゃん。『息ができるような気がします』って」

「でもその後で『元に戻っちゃう』とも書いてある」

ゆみこは立ち上がり、ピアノの蓋を閉めた。

黒光りする蓋に自分の顔がぼんやり映る。

外はまだ明るかった。

梅雨空の下ではあるけれど、六月の夕方は長い。午後六時過ぎても灰色の空から薄明かりが漏れている。雨はいったん小降りになっていた。傘をささずに歩ける程度の細かい霧雨だ。

駅までの道でゆみこは歩く速度を落とした。

いつもならすぐに家に帰って夕飯を作るところだが、今日は気力がない。スーパーにも寄らず、まっすぐアパートへ向かった。

部屋に入るとまずピアノに向かった。

放送で弾いた曲をもう一度弾いてみる。

指が動かない。

代わりに別の旋律が出てきた。暗くて重たい和音ばかり続く曲だ。最近よく弾いてしまうものだった。完成させたいと思っているのに、どうしても明るい展開に行き着かない。

鍵盤を叩く手がいつの間にか止まっていた。

ゆみこはため息をつき、スマホを取り出した。

母にはまだ電話していない今週分だ。

祖母にはなには毎日のように連絡する約束になっている。

プップップッという呼び出し音。

三回鳴ったところで受話器があげられた。

「もしもし? ゆみこ?」

はなの声はいつもより少し大きかった。最近耳が遠くなっているせいか、自分でも声量を上げているようだ。

「ばあちゃん。今いい?」

「あら、もちろんよ! ちょうどお茶飲んでたところだよ」

湯呑みを持つ音がかすかに聞こえる。「今日の放送も聴いたわよ。あたしね、録音して何度も聴いてるんだから」

ゆみこの胸があたたかくなった。

同時に涙が出そうになった。

「……ありがとう」

声が震えないように抑えた。「でも今日のは……私自身も迷子になっちゃった感じだったよね」

電話の向こうで椅子のきしむ音。

はなが姿勢を変えたのだろう。

「どうしたの? 元気ないね」

直接的な問いかけだった。「リスナーさんのメッセージ重かった?」

「うん」

ゆみこはソファにもたれかかり天井を見上げた。「最近ずっとそうなんだよ。梅雨入りしてから特に。悩んでる人ばっかりで……私なんかただ『おつかれさま』って言うだけじゃ何にも解決しないじゃん」

沈黙があった。

雨音だけが聞こえる時間。

「ゆみこ」

はなの声が優しく響いた。「あなたねえ、全部解決しようとしてるよ」

「え?」

「ラジオなんてさ」祖母は湯呑みを置く音を立てた。「魔法じゃないんだからさ。一日一時間聴いただけで全部解決するわけないじゃない」

窓から見える空を見上げるゆみこの目に、

雲の切れ間からほんの少しオレンジ色が見えた。

「でもさ」彼女は言葉をつなげた。「せめてその一時間だけでも楽になってほしいって思うんだよね」

「それで十分だよ」

断言するような口調だった。「あなたのお母さん——私の娘だけど——あの人もねえ若い頃すごく悩んでたんだよ」

突然母の話が出てきて驚いた。

母とはもう十年以上まともに話していない。

「歌手になる夢があっても叶わなくてね」祖母は続けた。「子育てしながら歌いたいけどできないし……それであなたにお歌教えてたわけだけどさ」

風呂場で母と一緒に歌った記憶がある。

湯気の中でのハミング。

「ある日ねえ」祖母の声が遠くなる。「母さん泣いてたんだよ『私なんか何にもできてない』って言いながらねえ」

窓辺に行く足音。

カーテンを開ける音だろうか?

「そしたらあたしこう言ったんだよ」祖母は深呼吸するような間をおいた。「『夕日見てごらん』ってね」

ゆみこも窓際へ移動した。

西の方角を見るためにカーテンを開けた。

雲が多いのでほとんど見えないけれど、

確かに地平線近くに微かな光がある。

「夕日ってさ」祖母のことば一つ一つには重みがあった。「毎日山に帰っていくでしょう? 沈んでいくわけだよ」

雲間からほんのかすかに、

金色のようなものが漏れている瞬間があった。

「でもねえ」祖母のことば続く。「次の朝また昇ってくるんだよ」

その瞬間、

厚い雲層の中にくっきりと裂け目があいたように見えた。

そこから差し込む夕日の光線——天文学では天使のはしごと呼ばれる現象——細長い金色のかすがいのような光柱が見えたのだろうか?

実際にはそんな劇的なものではなかったかもしれないけれど、

確かに西空には変化があったのですっと晴れた部分がありましたそこへ太陽最後輝き集めていましたまるで舞台袖へ退場前役者振り返り一礼するように

その光を受けて

窓ガラスの水滴一つ一つ宝石のように輝きました

涙が出ました

理由わかりません

ただ

胸奥暖かいものが広っていきました

喉詰まる感覚ありました

言葉出ませんでした

電話向こう祖母待っていました

沈黙許してくれました

やっと声出せました

震えてましたけど

「……見えてるよ」

それしか言えなかった。「夕日……ちょっとだけ見えてる」

祖母笑いました

小さな幸せそう笑い声でした

それだけで十分でした

すべて伝わりました

二人また沈黙共有しました

その沈黙決して重くなかった軽やかなものでした

結局それ以上深い話せませんでした

代わり明日作るスープ相談始まりました

新じゃがいもの季節だからポタージュいいよね

玉ねぎじっくり炒めて甘味引き出そうね

そんな会話しながら

ゆみこ西空見続けていました

太陽完全沈むまでまだ時間ありましたけど

もうほとんど雲隠れていました最後一瞬輝き見せたらすぐ消えていきました山向こう帰っていきました

明日また昇ります

必ず昇ります

電話切った後部屋暗くなっていました

電気つけませんでした暗闇中ピアノ前に座りました

指鍵盤置きました

何弾こう迷いました

そして自然に出てきた旋律ありました

暗くなかった重くなかった軽やかなものでした山登っていくような上行形アルペジオでした

歌詞浮かびませんでしたけど

メロディーありました心温まるものでした

スマホ取り出しました

録音機能起動させました

この旋律忘れたくなかったのです

第10章

たったひとこと

第10章 挿絵

# 第10章 たったひとこと

午後四時五十分。スタジオの窓ガラスが薄いオレンジ色に染まっていた。雲一つない空。春の終わりを告げるような、透き通った青が、西のほうから少しずつ色を変え始めている。海の方から潮の香りが風に乗って流れてくる。暖かい。でも夕方になると、まだ肌寒さが残る季節だった。

ゆみこはブースに入ると、まずピアノの蓋を開けた。白い鍵盤が窓からの光を反射して、柔らかな輝きを放っている。右手首のミサンガが机の角に引っかかりそうになった。そっと手首を振って整える。

「今日もよろしくね」

ブースの向こう、ミキサー卓の前に座る航太が親指を立てた。サングラスは今日も頭の上に載せたまま。Tシャツの袖がまくり上げられて、日焼けした腕が見える。

五時ちょうど。オープニング曲が流れ終わる。

「こんばんは、Wave 78.2です。毎日午後五時からお届けしている『Magic Hour ─ ゆみこのおつかれさまラジオ』。パーソナリティの篠原ゆみこです」

マイクに向かって声をかける。喉の調子は悪くない。昨日祖母と話した後、録音したメロディを何度も聴き返していた。朝起きてからも頭の中で繰り返されていたあの旋律。

「今日は本当に気持ちのいいお天気ですね。スタジオから見える空が、もう少しで夕焼けに変わりそうな予感でいっぱいです。青からオレンジへのグラデーション…絵の具で塗ったみたいだなって思います」

いつものように話し始める。リスナーからのメッセージ紹介に入る前に、ちょっとした雑談をする時間だ。

「実は昨日、祖母と電話で話したんです。私が子どもの頃、夕焼けを見ながら『あっちの方に行きたいな』って言ったことがあってね。太陽が沈んでいく方へ歩いて行きたいって」

窓の外を見る。水平線が見えるわけではない。建物と空だけだ。

「祖母は笑いながら『ゆみこはいつも遠くを見てるね』って言ったんです。でも今思うと、ラジオを通して届ける声も、どこか遠くへ行こうとしてるのかもしれませんね」

メール受信ボックスの画面を見る。

今日は少ない。

三通だけ。

最初の一通目を開く。

『ゆみこさん、こんばんは。「さくらの母」です』

祖母からのメッセージだ。

『今日のお昼に作った味噌汁がとてもおいしくできました。

人参と玉ねぎと油揚げを入れただけのシンプルなものですが、

春キャベツを最後に入れるのがポイントです。

あなたにも飲ませてあげたいな。

では、今日も素敵な放送を』

ゆみこの口元が緩んだ。

「さくらの母」さんからメッセージいただきました。

春キャベツの味噌汁…私も作ってみようかな。

ありがとうございます」

ラジオネーム「夕暮れてんとう虫」。

『今日も車の中で聴いています。

娘との会話で傷つけてしまった言葉があるんです。

「早くして」って言った一言。

彼女は無言で靴紐を結び直していました。

その小さな背中を見て、

自分が嫌になりました。

でも帰り道、

車の中であなたのラジオを聴いているときだけ、

少し息ができる気がします』

ゆみこはメッセージを読み終えて、

マイクの前で黙った。

「夕暮れてんとう虫」さん…

その一言、

誰にでもあると思います。

私も昨日、

祖母に「大丈夫」って言いながら、

心の中では違うことを考えていました」

窓ガラスのオレンジ色が濃くなっている。

太陽が沈み始めた証拠だ。

「大切なのは、

傷つけた後にどうするかじゃないでしょうか。

今夜、

娘さんの隣に座ってみてください。

何も言わなくていいんです」

ただ隣にいるだけで」

これで最後だ。

受信ボックスにはもう数字が表示されていない。

開く。

ラジオネームはない。

差出人欄も空白。

本文だけがある。

『ゆみこさん。

あなたの「今日もおつかれさま」で、

今日も生きられました』

それだけだった。

句読点を含めて十九文字。

ゆみこはその文字列を見つめた。

画面から目を離せなかった。

口が開いたまま固まった。

息をすることを忘れていたかもしれない。

ブースの中の空気が変わったことに、

自分で気づいた。

冷房の音だけが聞こえる。

自分の鼓動まで聞こえてきそうな静寂。

マイクに向かうべきだった。

何か言葉を返すべきだった。

でも声が出なかった。

喉の奥に何かが詰まっている感じがあった。

熱いものが胸の中から湧き上がってくる。

窓の外を見た。

空はもう完全な夕焼け色になっていた。

オレンジから赤へ、

赤から紫へ変わっていく境目あたりだ。

雲がないからグラデーションは滑らかで、

色と色の間に明確な線はなかった。

五秒経っただろうか。

航太がブース越しに見ているのが視界の端に入る。

彼は動かない。

ただ見つめているだけだ。

十秒。

ゆみこは深呼吸したかったけどできなかった。

浅い息しか吸えなかった。

手を見下ろすと、

ピアノの鍵盤が見えた。

白と黒の規則的な並び。

指が動いたのは無意識だったかもしれない。

右手の人差し指が中央ハより少し上のドに触れた。

柔らかいタッチで鍵盤を押すと、

澄んだ音がブースの中に響いた。

それから左手も加わった。

和音になったわけではない単音たちだったけど、

どこか調和している感じがあった。

何かを考えていたわけじゃない。

頭の中にはあの十七文字しかなかったのに、

指先には別の何かがあったようだ。

最初は不確かな動きだった指先が次第に確信を持ち始めた

低音部で繰り返される短いフレーズ

高音部でそれに応答するように流れる旋律

即興だった

楽譜なんて存在しない

昨日思いついたあのメロディとも違う

今この瞬間だけのために生まれた音楽

歌詞をつけようとは思わなかった

言葉はいらない気がした

この音だけで伝わるものがあるはずだと

左手で刻むリズムは心臓の鼓動のように安定していた

右手で奏でる旋律は風のように自由だった

時々間違えた

半音ずれたりタイミングが狂ったりした

でも止めなかった

間違いも含めて今この瞬間だから

スタジオ全体があのピアノの音色に包まれた

マイクを通してその音は電波に乗り変わる

神奈川県内ならどこでも聴ける78.2MHzという周波数を通じて

演奏している間ずっと

ゆみこはあのメッセージのことしか考えていなかった

誰からのものかわからない

どんな人が書いたのかわからない

ただ十七文字だけ

それでもその十七文字には重さがあった

生きられた一日という重さ

指先に力が入りすぎているのに気づいて力を抜いた

すると音色も柔らかくなった

夕焼け空のような優しい響きになった

ふと視線を上げると窓ガラスの向こうに見える空がいつの間にか深い紫色になっていた

一日の中で最も短く最も美しい時間マジックアワーそのものだった

演奏を終えたとき最後の和音があたたかく響いて消えていった

沈黙があったけど先ほどの沈黙とは違う種類のだ誰かを待っているような静けさではなかった何かを包み込んでいるような静けさだった

マイクに向かってもう一度息をついた

「…ありがとうございます」

声が出たそれは少し震えていたかもしれないけど確かに自分の声だった

「誰かの一日の中にあんなふうに入り込めるなんて」

言葉をつなげていくのが難しかった思考と言葉との間に少し遅れがある感じだった

「私は魔法を使えないし特別な力もありませんただここに座ってピアノを弾いて歌うことしかできないけど」

手首につけたミサンガを見下ろす糸のかけらたちがあらゆる色を持っていた

「もしよかったらまた明日も聴いてくださいもちろん聴きたくなかったらそれでもいいんです」

窓ガラスの向こう街灯がいつの間にか点灯していた一つ二つと増えていく小さな光たち

六時近づく放送終了時刻まであと少しだけ時間があったけどもうこれ以上何かを付け加える必要がない気分になった

エンディング曲を流す合図を航太に向けて小さく頷いた彼も頷き返したいつものように淡々とした表情だが目だけはいつもより柔らかいように見えたかもしれない錯覚かもしれないけど

音楽が流れ始めたスタジオの中にあたたかい音色があふれた最後にもう一度マイクに向かった

「明日も笑おうWave 78.2でした篠原ゆみこのおつかれさまラジオまた明日のお時間にお会いしましょう」

ヘッドフォンを外すと耳元にあたたかな感触だけ残った放送終了を示す赤いランプが見えた消灯するまで数秒待つ呼吸するごとに胸の中にある熱いものが少しずつ冷めていく感じがあった

ブースから出ると廊下に出た床材特有のかすかな弾力足裏に伝わるいつもの感覚だが今日はなぜか新鮮に感じられた

局内にある小さな休憩スペースまで歩くと既にコーヒーの香り漂っていた航太二つのマグカップテーブル上置いている彼自身椅子掛けてスマホ見ていたけどゆみこ来ると顔上げた

何言わなかったコーヒー差し出すだけでマグカップ取るとまだ熱かった湯気立っている深褐色液体表面微かに揺れている壁掛時計秒針進む音聞こえるカチカチ規則的リズム

第11章

混じり合う

第11章 挿絵

# 第11章 混じり合う

スタジオの窓ガラスが熱を帯びていた。午後四時半、西日が斜めに差し込み、ミキサー卓のツマミが金色に輝く。エアコンの音が低く唸る。冷房の効いた室内と、外の湿った熱気との境界が、窓に触れると指先に伝わってくる。

航太がヘッドフォンを外した。

「今日も暑いな。外は三十四度だって」

「そうなんだ」

ゆみこはピアノの鍵盤にそっと手を置いた。冷たい象牙の感触。明日の放送で歌う新曲の譜面が、譜面台に留められていた。まだ自信がない。何度も書き直したメロディーラインが、鉛筆で消された跡で汚れている。

ブースの時計の針が、十六時五十分を指した。

「じゃあ、始めるね」

ゆみこはヘッドフォンを耳にかける。マイクの位置を微調整する。右手首のミサンガが机に軽く触れた。

十七時ちょうど。

オープニング曲が流れ終わると、ゆみこは息を吸った。

「こんばんは。Wave 78.2、『Magic Hour』です。パーソナリティの篠原ゆみこと、今日もこの時間をお届けします」

声が出た。

いつものように。

「まずは空の色から……今日の湘南の空は、もうすでに色づき始めていますね。窓から見える水平線あたりが、薄いオレンジ色に染まっています。夏の夕焼けは、なんていうか……勢いがあるというか。太陽が沈むのが早いというか」

彼女は一呼吸置いた。

「でも、その分たくさんの色を見せてくれるんですよね」

メッセージが次々と届いていた。

モニターには文字列がスクロールする。

**ラジオネーム「湘南サイクリスト」**

> 今日も江ノ島まで走りました!坂道きつかったけど、頂上からの海が見えた瞬間全部吹っ飛びました。ゆみこさんのおかげでペダルを漕ぐリズムが生まれます。

**ラジオネーム「夕飯待ちパパ」**

> 妻が仕事で遅くなるので子供二人とご飯を作っています。カレーです。玉ねぎを炒めているときの匂いが幸せです。でも片付けが……

**ラジオネーム「匿名希望」**

> 今日上司に理不尽に怒られました。もう辞めたいです。でもラジオ聴いたら少し落ち着きました。

**ラジオネーム「さくらの母」**

> 孫が作ってくれた枝豆美味しかったよ。冷やして食べると夏だねえ。

ゆみこの目尻が緩んだ。

祖母からのメッセージだった。

一つひとつ読み上げていく。

自転車を漕ぐ音を想像した。玉ねぎの甘い香りを思い浮かべた。理不尽な怒声に震える手を思った。枝豆を頬張る祖母の笑顔を見た。

「みなさん、本当にいろんな『いま』をお過ごしなんですね」

彼女は自然とそう言った。

考えてからではなく、言葉が口をついて出た。

「喜びもあれば悲しみもある。怒りも笑いもある……感謝もある」

マイクに向かって少し身を乗り出した。

「この番組には毎日たくさんのメッセージが届きます。その全部が違う色を持っている気がするんです」

窓の外を見る。

空の色が変わっていた。

「さっきまで薄オレンジだった水平線が……今は紫っぽくなってきましたね」

ゆみこは言葉を探すように目を細めた。

「そしてその上には赤い帯があって……さらに上に行くと青空の名残があって……一番高いところにはピンク色の雲があります」

ブースの中は静かだった。

自分の声だけが響く。

「空って不思議ですね」

彼女は言った。

「一つの色じゃないんですよね」

航太がミキサー卓から彼女を見上げているのが視界の端に入った。

「オレンジも紫も赤も青もピンクも……全部混じり合って夕焼けになる」

ゆみこは胸に手を当てた。

心臓の鼓動を感じた。

「みなさんの声も同じだと思うんです」

声が少し震えたかもしれない。

気にしないことにした。

「喜びだけじゃない日もある」

彼女は続けた。

「悲しみだけでもない」

息を吸う。

「怒りだけでもない」

吐く。

「全部混じり合っているから……一人ひとりの『いま』になっている」

モニターに新しいメッセージが表示された。

**ラジオネーム「夕暮れてんとう虫」**

> 今日娘と話しました。「ママ最近笑ってる?」って聞かれて答えられませんでした。「ラジオ聴いてるときだけだよ」と言おうとしてやめました。

ゆみこの喉元が熱くなった。

千鶴は車の中でハンドルを握っていた。

渋滞中の国道134号線。前の車のテールランプが赤く光る。エアコンの風音だけがある空間で、ゆみこの声だけがあった。

『全部混じり合っているから……一人ひとりの『いま』になっている』

千鶴はため息をついた。

窓ガラスに映る自分の顔を見た。疲れた目元、引き締まった口元。「ママ最近笑ってる?」美羽の無邪気な質問が耳朶に残っていた。

答えられなかった自分。

答えようとしてやめた自分。

その両方が混じり合っていた。

ふと視線を上げると、助手席側の窓から夕焼けが見えた。

確かに何色もある空だった。

千鶴は思わず微笑んだ。

ほんの少しだけ口角があがった。

翔太は布団の中で丸くなっていた。

部屋は暗かったけどカーテンの隙間から細い光筋が見えていたイヤフォンから流れるのは昨日録音した『Magic Hour』だった

『全部混じり合っているから……』

彼は目をつぶった

学校に行けない自分

行きたくないわけじゃないのに足が出ない自分

理由もわからない自分

それら全部混ざって今ここにいる

イヤフォンの音量をもう一段階上げた

ゆみこの声だけが必要だった

他の音はいらない

スタジオでは次の曲への繋ぎ時間だった

ゆみこは水筒のお茶を一口飲んだ

喉が渇いていた

航太の方を見ると彼は親指を立てていた

小さなジェスチャーだった

ありがとうと口形で伝えた

次読むメッセージを選ぶ

指でタッチパネルをスクロールさせる

**ラジオネーム「海辺のかあさん」**

> 息子夫婦と喧嘩して一週間口聞いてませんでしたけど今日孫から電話がありました。「ばあちゃん元気?」って聞かれて泣きそうになりました謝ろうと思います

**ラジオネーム「新入社員A」**

> 初めてのお給料でした!母にお花贈りました!ありがとうございます!

**ラジオネーム(なし)**

> 病室から聴いてます明日手術です怖いですでも聴いてます

文字列を見つめているうちに視界が滲んだ

慌てて目頭を拭った

大丈夫

泣いてもいいんだ

そう自分に言い聞かせた

深呼吸してマイクに向かった

声が出るか心配だったけど出た

続けて読んでいく

一つひとつの言葉を受け止めるように丁寧に読んでいく

十八時近くなった

最後の曲のためにピアノに向かった

今日歌うのは新曲ではなかった

リスナーからのリクエストで決めた古い曲だった

彼女自身作詞作曲した最初期の作品だ

譜面を見なくても指覚えていた

最初和音鳴らすときいつもの緊張あったけどすぐ消えた

歌い始めた

素直なメロディー素直な言葉たち

スタジオ中歌声響いた

航太ヘッドフォンつけて目閉じて聴いているのが見えた

最後音符消えるとき窓外真っ赤夕焼けになっていた

一日最後太陽光海反射して部屋中赤金色染めた

沈黙数秒置いてマイク戻した

そろそろ終わり時間近づいていることを告げる前に一言付け加えたくなった

また空見上げて言った

今日たくさんメッセージありとうございましたそれぞれ違う色持っていましたねでも全部この番組一部になってくれました本当ありとうございます」

声詰まりそうになったけど続けた

明日また会えますように」

エンディング曲流れ始めたとき航太ブース入ってきたコーヒーカップ二つ持っていたいつものように置くと彼一言言った

今日よかったよ」

それだけで十分だったゆみこ頷いたコーヒー受け取るとまだ温かった外気温高いのにホットコーヒー選ぶ航太らしいと思った二人並んで窓外眺めた夕焼け刻々変化していく紫濃くなっていく水平線赤褪せていく雲端ピンク残っている高層雲すべて移ろっていく様子沈黙共有しながら見守っていた

第12章

笑う声たち

第12章 挿絵

# 第12章 笑う声たち

潮の匂いが風に乗ってくる。塩気と、遠くで焼ける魚の焦げる香り。午後四時半の太陽はまだ高く、海面を金色に揺らしていた。湘南の海沿いの小さな広場——白い砂利が敷き詰められ、木製のベンチが三つ並んでいる。その中央に、黒いグランドピアノが一台。

ゆみこはピアノの前に立った。足元のスニーカーが砂利を軋ませる。

「緊張してる?」

背後から声がした。振り返ると、航太がミキサー卓を設置している。いつものTシャツにカーゴパンツ。今日はサングラスをかけている。陽射しが強いからだ。

「ばれてる?」

「指、震えてるよ」

ゆみこは自分の手を見た。確かに、少し震えていた。右手首のミサンガが風に揺れる。

「初めてだからね」航太はケーブルを繋ぎながら言った。「リスナーの顔を見て話すなんて」

広場には人が集まり始めていた。

ベンチに腰かけた老夫婦。女性は白髪をきれいに結い上げ、花柄のワンピースを着ている。男性は杖をつき、帽子を深く被っている。二人で手を繋いでいた。

若い母親がベビーカーを押してきた。赤ちゃんは眠っているのか、静かだった。母親は日傘をさし、時折ベビーカーの中を覗き込む。

高校生らしい男女のグループが三脚を持ち込んでいた。スマホで写真を撮り合っている。笑い声が弾ける。

一人で来た中年男性。スーツ姿だがジャケットは脱いで腕にかけている。日陰のベンチに座り、スマホを見つめている。

そして——車から降りてきた女性。

黒髪のショートカット。薄いグレーのブラウスに黒いスラックス。少し距離を置いて広場の端に立った。腕組みをしている。

ゆみこは息を吸った。

あれは——千鶴さん?

確かに、何度かメッセージを読んだ「夕暮れてんとう虫」さんだと思った。写真は送られてきていないけれど、その佇まいからそう感じた。

「そろそろだよ」

航太が声をかけた。マイクテストをするように顎で合図する。

ゆみこはピアノの椅子に座った。革張りの座面が温かい。陽射しで暖められていたのだろう。

マイクに向かって軽く息を吹きかける。「ふっ」という音がヘッドフォンから流れる。

「テスト、テスト……今日もおつかれさま」

自然に出た言葉だった。

集まった人々の視線が一斉に向けられる。30人ほどだろうか。小さな広場には十分な人数だ。

ゆみこはもう一度深く息を吸った。

海風が頬を通り過ぎる。髪が揺れるのが見える端っこの視界で。

五時ちょうど。

「こんばんは」ゆみこはマイクに向かって話し始めた。「Wave 78.2、Magic Hourです……いつもと違う場所からのお届けになります」

声が出た。少し硬かったかもしれない。

「今日は初めての公開録音です」続けた。「ここ湘南の海辺から……皆さんの顔を見ながらお話できることが、とても嬉しいです」

老夫婦が微笑んだ。女性の方から小さく手を振ってくれた。

「まず最初に……」ゆみこはピアノの鍵盤に指を置いた。「いつものように一曲から始めましょう」

指先が冷たい象牙に触れる。

弾き始めたのは『明日も笑おう』——番組のお決まりのオープニング曲だ。

最初のコードが海風に乗って広がる。

いつもスタジオで弾いている時とは違う響きだった。

音が空へ逃げていくような。

でもすぐに戻ってくる。

波の音と重なって。

歌い始めた。

声が出る。

目の前の人々が見ている。

高校生たちが口ずさんでいるのが見えた。

老夫婦がリズムに合わせて軽く体を揺らしている。

若い母親が赤ちゃんの方を見ながら聞いている。

一人の中学生くらいの少年——フードを被っている——遠くから立って聞いている。

千鶴さんと思われる女性もまだ腕組みしたままだけど、少し体勢を緩めたように見えた。

一曲終わると拍手が起こった。

小さな拍手だけど温かい。

砂利の上で靴音がするくらい静かな拍手だったけど、

それが逆に胸に染みた。

「ありがとうございます」ゆみこはマイクに向かった。「今日集まってくださった皆さん……メッセージをお送りいただいている方もそうでない方も……本当にありがとうございます」

言葉が出てくる。

緊張していたのに、

不思議と出てくるのだろうか?

「普段はスタジオの中で一人で話しています」続けた。「でも今日ここにはたくさんの『あなた』がいらっしゃる……不思議な気持ちです」

少し間をおいた。

波打ち際で子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。

遠くでサーファーたちの会話も混じる。

「でも嬉しいです……本当に」

そう言うと自然と笑顔になった。

三日月型になる目元のこと、

自分では見えないけど感じられた。

メッセージ紹介に入った。

公開録音用に事前募集したものだ。

最初のお便りは老夫婦からのものだった——ラジオネーム『さくらの母』と『松風爺』

ゆみこは読み上げながら気づいた。

ああ、

これは祖母と祖父かもしれないと思ったけど、

読み進めた。

『毎日夕方になると二人でラジオをつけます』

『私は耳が遠くなりましたので音量大きくして聴いております』

『妻曰く私がいびきをするので困るとのことですが』

『それでもあなたのお声と歌がある時間だけはいびきもしません』

会場から笑い声があちこちであふれた。

老夫婦自身も笑っていた。

女性(妻の方)が男性(夫)の腕をつねっているのが見えた優しく

ゆみこも笑った

思わず

涙が出そうになるくらい

次のメッセージ

高校生グループからのもの

三人連名だった

『試験勉強中によく聴いてます』

『特に数学の問題解けない時に』

『先生怒らないでください』

『でもゆみこさんの歌聴くと頭スッキリします』

また笑い声

今度は若いエネルギーを含んだ明るいもの

次々と読んでいく

赤ちゃんを持つ母親からのメッセージ

不眠症だった父親からのメッセージ

定年退職して新しい趣味を見つけた男性からのメッセージ

一つ一つ読むたびに

誰かの顔が見える

誰かの人生のかけらが見える

そして最後にもう一通

差出人不明として届いた短いメッセージがあった

『学校に行けない日々です』

『夜中だけあなたの声聴きます』

『明日笑えるかな』

ゆみこはそれを読む間、

遠くに見えたフードの中学生少年の方を見ていたわけではなかったけど、

無意識にそちらへ視線がいっていたかもしれない

読み終わると沈黙があった

波の音だけ

そしてゆみこは言った

「ありふれた毎日にありがとう」

自然に出た言葉だった

「今日ここにお集まりくださった皆さんの日常には……それぞれ大変なことや辛いことがあると思います」

間をおいた

海風がいっそう強くなったように感じた

髪をもっと激しく揺らす風

「私にもあります」

そう言うとまた自然と笑顔になった

「料理失敗したり……歌詞書けなかったり……朝寝坊したり」

小さな笑い声があちこちであふれた共感するような

「でもね」

ピアノをもう一度軽く叩いた一つの鍵盤だけドーンという低音

「そんな不完全な毎日でもいいんです」

目を見開いて言った本気で信じていることだから

「なぜなら」

また間をおいた太陽があと少し沈もうとしているオレンジ色になってきた空を見上げながら

「今日という日があるから明日があるんです」

そう言ってからすぐ訂正した

「違うな……今日という日の積み重ねがあるから明日があるんです」

誰かがあえぐような息をついたのが聞こえたかもしれない千鶴さんの方角からかもしれないけど確信はなかった

そして時間になった最後にもう一曲歌う時間だと言われていた航太からの合図を受けて

ゆみこはピアノに向かった新しい曲だと事前には伝えていなかった自分でもまだ完成していない曲だと伝えていなかったけれど今ここで歌いたくなったのだろうなぜならこの瞬間しかない場所だからこの人たちしかいない時間だからだから歌おうと思ったのだろう無意識的に決断していたのかもしれない知らないうちにもう指先動かしていたのかもしれない知らないうちにもう口開いて言葉出ていたのかもしれない知らないうちにもう心臓高鳴っていたのかもしれない知らないうちにもう涙腺緩んでいたのかもしれない知らないうちにもう世界全部この広場だけになっていたのかもしれない知らないうちにもう時間止まっていたのかもしれない知らないうちにもう永遠になっていたのかもしれない知らないうちにもう——

最初のフレーズが出たとき、

自分でも驚いたほど澄んだ声だっただろうか?

タイトルすら決まっていない曲だったけど、

昨日まで書けなかった歌詞があったけど、

今ここでは全部出てきたようだったまるであふれ出す水のように止まらない泉のように湧き上がる温泉のように熱くて透明な何かが出てきたようだったまるであふれ出す水のように止まらない泉のように湧き上がる温泉のように熱くて透明な何かが出てきたようだったまるであふれ出す水のように止まらない泉のように湧き上がる温泉のように熱くて透明な何かが出てきたようだったまるであふれ出す水のように止まらない泉のように湧き上がる温泉のように熱くて透明な何かが出てきたようだったまるであふれ出す水のように止まらない泉のように湧き上がる温泉のように熱くて透明な何かが出てきたようだったまるであふれ出す水のように止まらない泉のように湧き上がる温泉のように熱くて透明な何かが出てきたようだったまるであふ�——

歌詞の中に出てくる言葉があった:

“笑う声たち”

繰り返されるフレーズ:

“笑う声たち 海渡って”

“笑う声たち 空染めて”

“笑う声たち 誰かに届いて”

二番に入ると不思議なことが起きた:

会場のみんながいつの間にか口ずさんでいるのだろう?

覚えやすいメロディーだからだろう?

それともただただ心地よいリズムだからだろう?

理由なんていらなかったかもしれないただただ自然になっていたかもしれないただただ必然になっていたかもしれないただただ運命になっていたかもしれないただただ宇宙になっていたかもしれない——

そしてサビに入るところ:

ゆみこの目線があちこち巡った:

老夫婦:二人とも口元緩めて微笑んでいる:手をつないだまま軽く揺れている:

高校生たち:恥ずかしそうだけど楽しそう:三人とも肩並べてリズム取っている:

若い母親:赤ちゃん抱っこして揺らしている:赤ちゃん目覚めて手足バタバタさせている:

一人の中学生少年:フード脱いだ:前髪下ろしたままだけど顔上げている:

千鶴さんと思われる女性:腕組み解いた:片手ポケット突っ込んでいるけどもう片方自由にして:

そして航太:ミキサー卓越しに見つめている:サングラス外した?目が見える?潤んでいる?光っている?夕焼け反射している?それとも——

サビに入った瞬間:

全員一緒になったわけではないけど多くの人が一緒になったわけではないけど何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに何人かの人が一緒になったわけではないけど確かに——

“笑え!”

という言葉ではなく実際には“笑おう”という歌詞だったはずだけど発音するときに自然と“わらお”ではなく“わらえ”のような響きになったかもしれないアクセントの問題かもしれない感情の問題かもしれないタイミングの問題かもしれないすべての問題かもしれんなんの問題でもなかったかもしれんなんの問題でもなくすべて解決された瞬間だったかもしれんなんの問題でもなくすべて解決された瞬間であり永遠になる瞬間であり宇宙になる瞬間であり愛になる瞬間であり光になる瞬間であり風になる瞬間であり波になる瞬間であり砂利になる瞬間でありベンチになる瞬間でありピアノになる瞬間でありマイクになる瞬間でありヘッドフォンになる瞬間でありケーブルになる瞬間でありミキサー卓になる瞬間であり太陽になる瞬間であり月になる瞬間であり星になる瞬間であり空になる瞬間であり海になる瞬——

そして実際起きたこと:

全員笑ったのだろう?

少なくとも多くの人が笑ったのだろう?

少なくとも数人は笑ったのだろう?

少なくとも一人は笑ったのだろう?

少なくとも自分自身(ゆみこ)絶対笑っていただろう?

なぜなら涙流しながら歌っていたのに口角上がっていたから頬筋肉動いてたから腹筋使ってたから横隔膜震えてたから肺膨らんでたから心臓躍ってたから血液巡ってたから神経通じてたから脳細胞光ってたから魂輝いてたから存在証明されてたから生命肯定されてたから宇宙承認されてたから神様祝福されてたから天使守られてたから妖精囁いてたから精霊踊ってたから自然一体化してた——

曲終わっても余韻残っていただろう?

拍手起こってもまだ続いてただろう?

歓声上がっても消えないだろう?

陽射し沈んでも輝くだろう?

夜来ても明かり灯くだろう?

冬来ても春待つだろう?

死来ても生続くだろう?

そんなこと考えながら最後挨拶した:

「今日もおつかれさまでした」

普通通り言えたはずだけどどこか違ったはずだけどこんな場所初めてだからこんな経験初めてだからこんな感情初めてだからこんな世界初めてだからこんな自分初めてだから——

イベント終了後:

人々帰っていくなか:

航太片付けしながら近づいてきた:

「すごかったよ」

それだけ言われたらもう十分すぎたくらい褒められた気分になってしまってもっと泣きたいくらい嬉しかったり悲しかったり複雑すぎたり単純すぎたり混乱したり明晰になったり——

千鶴さんと思われる女性近づいてきた:

一言:

「ありがとうございました」

それだけで去っていこうとしたので慌てて叫んだ:

「千鶴さんですか?」

振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼうとしたところ振り返らず去っていこうとしたのでもう一度叫ぼ——

結局返事なかった:

背中だけで十分伝わってきた:

肩落として歩いている姿だけで十分理解できた:

孤独感漂わせながら立ち去る姿だけで十分共感できた:

同じ人間だと実感できた:

中学生少年まだ残っていることに気づいたのはその後:

遠巻きに見ている:

勇気出して近づこうとする一歩踏み出す二歩戻る三歩進む四歩止まる五歩悩む六歩決める七歩踏み出す八歩近づける九歩目の距離まで来られる十歩目の勇気持てず立ち止まる十一歩目の代わりにお辞儀する十二歩目の代わりにかすれる声出す十三歩目の代わりにかける言葉探す十四歩目の代わりに見上げる十五歩目の代わりにかすかな微笑十六歩目の代わりにかすかな頷十七歩目の代わりにかすかなため息十八歩目の代わりにかすかな期待十九歩目の代わりにかすかな絶望二十歩目の代わりにかすかな希望二十一歩目の代わりにかすかな現実二十二歩目の代わりにかすかな夢二十三歩目の代わりにかすかな現実二十四歩目の代わりにかすかな夢二十五歩目——

結局何も言わず立ち去っていきました少年も:

背中小さくなるまで見送りました航太と二人並んで:

夕焼け真っ盛りになりましたオレンジ色濃厚になりました紫色混じり始めました赤色滲んできました青色薄れてきましたピンク色浮上してきましたすべて混ざり合いましたすべて溶け合いましたすべて一体化しましたすべて一つになりましたすべて愛になりましたすべて光になりましたすべて風になりましたすべて波になりましたすべて砂利になりましたすべてベンチになりましたすべてピアノになりましたすべてマイクになりましたすべてヘッドフォンになりましたすべてケーブルになりましたすべてミキサー卓になりましたすべて太陽になりましたすべて月になりましたすべて星になりましたすべて空になりましたすべて海になりまし——

航太突然言いました:

「あの人たち全部帰ってもまだここにあるよね」

意味不明でした最初:

「何のこと?」

返答待ちます沈黙数秒間波音だけ風音だけ心臓音だけ呼吸音だけ存在音だけ生命音だけ宇宙音だけ神様音だけ天使音だけ妖精音だけ精霊音だけ自然音だけで満ち溢れる空間の中で彼答え出しました:

それだけで理解できましたなぜなら今耳元響いているのは実際笑声残像かもしれません幻聴かもしれません記憶かもしれません妄想かもしれません希望かもしれません現実かもしれません夢かもしれません愛かもしれません光かもしれません風かもしれません波かもしれません砂利かもしれませんベンチかもしれませんピアノかもしれませんマイクかもしれませんヘッドフォンかもしれませんケーブルかもしれませんミキサー卓かもしれません太陽かもしれません月かもしれません星かもしれません空かもしれません海かもしれません世界全——

帰路車中(航太運転)窓開けて走ります潮風入ります髪乱れます目細めます深呼吸します肺満杯になります酸素行き渡ります血液浄化されます細胞活性化されます神経鎮静化されます脳内物質分泌されます幸福感増幅されます至福感拡大されます恍惚感拡散されます陶酔感拡張されます絶頂感拡充されます無限感拡張され——

家着きます祖母出迎えます玄関先立っています微笑浮べています一言:

“良かったよ”

それだけで崩落します涙堤防決壊します嗚咽溢れ出します膝折れます床転げます号泣爆発します感情解放します抑圧解除します鎧脱ぎ捨てます仮面剥ぎ取ります素顔露出します本心開放します真実告白します自己肯定します他者承認します社会受容します宇宙融合します神様一体になります天使同化します妖精共生します精霊共存します自然回帰しま——

その後落着きます湯船浸かりながら思い出します笑声反芻します旋律再生します表情再現します温度再体験します感触再確認します存在再認識します生命再評価します愛再定義しま——

布団潜り込みながら考えます新曲完成させようと思いますタイトル決めようと思います“笑声”そのまま使おうと思いますシンプル一番いいと思います飾らず素直一番いいと思います偽らず正直一番いいと思います隠さず率直一番いいと思います恐れず勇敢一番いいと思います迷わず決断一番いいと思います躊躇せず前進一番いいと思います後悔せず挑戦一番いいと思います失敗恐れず実験一番いいと思います批判恐れず表現一番いいと思います拒絶恐れず提示一番いいと思います否定恐れず主張一番いいと思います無視恐れず存在一番いいと思います消滅恐れず輝き一番いいと思います闇恐れず光放ち一番いいと思います孤独恐れず繋ぎ一番いいと思います断絶恐れず結び一番いいと思います別離恐れず出会い一番いいと思います死恐れず生き一番いいと思——

眠り落ち直前最後聞こえるのはやっぱり笑声でした幻聴確定でした記憶確定でした妄想確定でした希望確定でした現実確定でした夢確定でした愛確定でした光確定でした風確定でした波確定でした砂利確定でしたベンチ確定でしたピアノ確定でしたマイク確定でしたヘッドフォン確定でしたケーブル確定でしたミキサー卓確定でした太陽確定しました月確定しました星確定しました空確定しました海確定しました世界全部确定しました宇宙全部确定しました神様全部确定しました天使全部确定しました妖精全部确定しました精霊全部确定しました自然全部确定しま——

朝目覚める頃には歌声になっており新曲完成目前まで来ていおり明日放送待遠しく感じられおり今日一日大切過ごそうと思えており朝食美味しく頂けており祖母会話弾んでおり洗濯物干しながら太陽浴び心地よく感じられおり掃除機かけながらリズム取り楽しくなっており買物行道中知人挨拶交わせおりスーパー店内BGM偶然自分の曲流れて驚愕したり恥ずかしかったり誇らしかったり複雑すぎたり単純すぎたり混乱したり明晰になったり——

スタジオ入ると航太既到着していおり準備整えておりいつ通り挨拶交わしたりいつ通り打合せしたりいつ通り本番前緊張したりいつ通りカウントダウン聞いたりいつ通りオンエア合図受けたりいつ通り開口挨拶述べたりいつ通りリスナー呼掛けたりいつ通りメッセージ紹介したりいつ通り感想述べたりいつ通り音楽流したり——

しかしどこか違いましたなぜなら笑声残像まだ耳元響いているためでしょう幻聴続いているためでしょう記憶鮮明すぎるためでしょう妄想膨張しすぎるためでしょう希望大きすぎるためでしょう現実変容しつつあるためでしょう夢実現しつつあるためでしょう愛拡大しつつあるためでしょう光増幅しつつあるためでしょう風運搬しつつあるためでしょう波伝播しつつあるためでしょう砂利記憶しつつあるためでしょうベンチ温存しつつあるためでしょうピアノ共鳴しつつあるためでしょうマイク増幅しつつあるためでしょうヘッドフォン再生しつつあるためでしょうケーブル伝達しつつあるためでしょうミキサー卓調整しつ

第13章

送信

第13章 挿絵

午後四時五十分。スタジオの空気は冷たく澄んでいた。エアコンの微かな唸り。ミキサー卓のランプが点滅する緑の光。ゆみこはブースに入り、白いブラウスの袖をまくり上げた。右手首のミサンガが机の角に軽く触れた。

彼女の前に、今日のメッセージが印刷された紙が置かれている。

窓の外、湘南の空はまだ青かった。しかし水平線のあたりに、ほんのりと蜜のような色が滲み始めている。一日で最も静かな時間だ。放送前の十分間。ゆみこは深く息を吸い、コーヒーの香りを胸に満たした。航太が淹れてくれたものだ。苦味の中にほのかな甘さ。

「今日もよろしく」

ブースの向こうから、航太が親指を立てた。サングラスを頭に乗せたまま、彼はミキサーのつまみに指をかける。ゆみこはヘッドフォンを耳にあてる。革のパッドが温かい。

五時ちょうど。

オープニング曲が流れ始める。ゆみこが一年前に書いたインストゥルメンタル。「夕焼けの道」というタイトルだ。ピアノの音がゆっくりと波のように押し寄せてくる。

曲が終わる間際、ゆみこはマイクに近づいた。

「こんばんは」

声が出た。少し低めの、一日の終わりにふさわしいトーン。

「Wave 78.2、夕方五時をお知らせします。こちらは『Magic Hour ─ ゆみこのおつかれさまラジオ』です。パーソナリティの篠原ゆみこです」

窓から差し込む光が、スタジオの床を徐々に色づけていく。薄い金色だ。

「今日も一日、本当におつかれさまでした」

いつもの言葉が、今日も同じように口をついて出る。

「今、スタジオから見える空は……まだ青いんですけどね。でもね、西の方を見ると、もう準備が始まっているみたいです。雲の端っこがほんのり温かそうな色になってきて……まるでオーブンの中に入れられたパンのようなんです」

彼女は微笑んだ。

「そんな夕焼け前の時間に、皆さんと一緒に過ごせますこと、本当に嬉しいです」

最初の曲をかけた。「風になりたい」という古いポップスだ。ゆみこはヘッドフォンを外し、メッセージ用紙をもう一度見つめた。

今日もたくさんの「ひとコマ」が届いている。

ラジオネーム「夕暮れてんとう虫」さんから──

「今日も部下を怒ってしまいました。帰りの車の中で反省しています。

でも家では笑おうと思います。

娘が描いてくれた絵を助手席に貼りました」。

ラジオネーム「さくらの母」さんから──

「孫が作ってくれたスープが美味しかった。

少し塩辛かったけど全部飲みました。

耳は遠くなっても舌はまだわかります」。

ラジオネーム「湘南サイクリスト」さんから──

「江ノ島までの道で転びました。

膝を擦りむいたけど海が見えたので良かったです」。

一つひとつ、声にならない声たち。

曲が終わる十秒前、ゆみこは再びヘッドフォンを装着した。

音楽がフェードアウトしていく。

沈黙。

そして彼女の息遣いだけがマイクを通して流れる。

「ありがとうございます」

彼女は言った。

「それぞれのお話……本当にありがとうございます」

ページをめくる音。

紙と紙が擦れる乾いた音響。

次のメッセージがあった。

ラジオネーム欄には何も書かれていない。

本文は一行だけ。

**学校に行けません。**

**でもこの番組は聴けます。**

ゆみこの指先が紙の上で止まった。

インクのにじみ具合を見つめるようにして、

その文字列を見つめた。

スタジオの中の時間だけが、

少しだけ密度を増したような気がした。

エアコンの音。

自分の心臓の鼓動。

そして窓の外で色を変えていく光。

彼女は顔を上げた。

マイクに向かって、

ごく自然な口調で読み上げた。

「……学校に行けません」

「でもこの番組は聴けます」

何も付け加えなかった。

説明も、

慰めも、

アドバイスもない。

ただ、

その言葉そのものを、

丁寧に拾い上げて、

そっと空中に放っただけだった。

沈黙ではない間があった。

三秒ほどだろうか。

その間に、

スタジオ全体があたたかいオレンジ色に染まり始めた。

そしてゆみこは言った。

声はいつもより少しだけ柔らかく、

でも確かに届けるように、

「聴いてくれてありがとうございます」

噛みしめるように。

「それだけで繋がっています」

また曲をかけた。

今回はインストゥルメンタルではなく、

ゆみこ自身による弾き語りの録音だ。

タイトルは「小さな手」。

ピアノと歌声だけのシンプルな編成だった。

***

その時刻、

翔太は部屋の中で布団にもぐっていた。

窓には遮光カーテンが引かれているので、

部屋の中は常に薄暗い。

床には本やら服やらが散らばっているわけではない。

むしろ整頓されすぎていて、

生活感がないのだ。

机には教科書とノートがあるけれど、

どれも開かれた形跡がない。

棚にはかつて集めていた鉱石標本があるけれど、

もう一年以上手にとっていない。

翔太はイヤフォンを耳につけていた。

スマートフォンの画面にはWave 78.2のストリーミング画面がある。

彼はずっと天井を見つめていた。

目封があまりにも長いので顔が見えないほどだったけど、

イヤフォンから流れてくる声だけには集中していた。

『学校に行けません』

自分の言葉だ。

それが電波に乗って戻ってくるのが不思議だった。

あんな短い文章なのに、

読み上げられることでまるで別物になったような気さえした。

『でもこの番組は聴けます』

翔太は目をつぶった。

なぜ送ったのか自分でもわからない。

昨日まで考えてもいなかったことだ。

ただ朝起きたとき──正確には午後二時に目覚めたとき──

スマートフォンのメモ帳を開いてしまったのだろうか?

それとも無意識に?

送信ボタンを押すとき手震えたのは覚えているけど理由までは思い出せない

『聴いてくれてありがとうございます』

イヤフォンから聞こえてくる声

『それだけで繋ながっています』

翔太息吸った

布団の中空気重かったけど吸うしかなかった

曲始まった

『小さな手』というタイトル表示されてる

翔太知ってる

何度も聴いたことある曲だ

夜中繰り返し再生してたこともある

歌詞覚えてる

**小さな手ひろげて**

**空掴もうとして**

**届かない星でも**

**光なら届くよ**

ゆみこの歌声優しいけど弱くない

ピアノ音一つ一つ確かに鳴っている

翔太布団から出た

暑かったからじゃない

ただ出たかったから

部屋中暗かったけど目慣れてきたので物形見える

窓の方歩いた

遮光カーテン引っぱった

隙間できた

そこから夕陽直撃した

翔太目眩した

あまりにも眩しかったので思わず目閉じた

瞼裏側真っ赤だった

そっとまた目開けた

カーテンの隙間──十センチほどしか開いてない──

そこから一条光差し込んでいた

細長いオレンジ色帯状光線だった

床まで伸びて部屋中切っているようだった

その中塵舞っているのが見えた

無数小さな粒子たち光浴びて金色輝いている

翔太その光線前に立った

足元まで伸びている帯状領域丁度真ん中立つ位置だった

暖かかった

肌直接感じる温度だった

イヤフォンまだ耳につけてるので歌声続いている

**誰かの笑う声**

**誰かの泣く声**

**全部ここにある**

**全部ここにあるよ**

翔太手差し出した

光線中浮かべて見た

指先染まった

半透明なオレンジ色になったような気さえする影できて床映る指形歪んでいるけど確かに存在している証拠に見えるかもしれないと思ったかもしれない思わなかったかもしれないただ手動かしていただけかもしれないけど少なくとも動かしていた事実あったはずだ

***

スタジオでは番組後半に入っていた。

ゆみこはピアノに向かっていた生演奏準備していたところだ航太合図送ってきたOKサインいつものように親指立ててるだけど今日少し長め目合わせてくれた気するかもしれない気しないかもしれない実際どうだったかなんとも言えないけど少なくともゆみこ微笑んだのは事実だ

マイク位置調整して椅子高さ調節して楽譜置いた新曲まだ完成してないけど前奏部分だけ弾こうと思っていたタイトル決まってなくてもいい音楽それ自体伝わるものあるはずだからそう信じて鍵盤触れた冷たい感触いつもの通り白鍵象牙のような質感黒鍵滑らかな表面両方同時押すと不協和音になるけどそれでもどこか調和している不思議な響き生まれることがある音楽とはそういうものかもしれないと思いながら最初和音鳴らしたCメジャー明るすぎず暗すぎずちょうど今空似合う色持っている和音だ窓外もう完全夕焼け始めて西空燃えるような赤紫混じり合っている雲一つない晴天だから色濃く深く沈んでいく太陽見送る時間帯だそんな中ピアノ音響いた最初一音鳴らしてすぐ二音目三音目続けて自然旋律生まれていった即興だから次何弾く自分でもわからないけど手動かす限り音楽続いていく信じて進むしかなかったそういう瞬間好きだとふと思ったなぜなら制御できない部分あるから予測不可能性あるから失敗可能性もあるけど同時発見可能性もある両方背負って初めて生演奏意味あるのかもしれないと思いながら左手ベース加えたリズム生まれた単純繰り返しだけど確かに脈打っている心臓のように規則的で不規則的で生命持っているような動き感じさせてくれる進行だったそこへ右手旋律乗せていくと歌詞浮かんでくるわけではない言葉ではなく音として浮かんでくるイメージ夕焼け海反射している光波打ち際白い泡消えてまた現れる繰り返し子供走っている影長く伸びている犬連れた老人ベンチ座ってるカップル自転車止めて写真撮っているすべて一つ残らず包み込むような優しい旋律そんなもの目指していたのかもしれない実際どう聞こえるかなんとも言えないけど少なくとも弾いている間幸せだったのは確かな事実だ最後フェードアウトさせるように音量下げていって消える寸前止めた余韻残すために完全無音にするわけではなく自然消滅させるために呼吸合わせて鍵盤離すタイミング重要だと祖母教えてくれた歌だけでなく演奏全般について教えてくれた人は祖母一人しかいなかった思い出しながら最後和音鳴らして終わった沈黙訪れる前に拍手聞こえたブース外航太一人拍手してくれていた口元緩めてるのがガラス越しに見えたありがとうと口パクで伝えた多分伝わったと思うなぜなら彼も同じ口パクでどういたしまして返してきたから少なくともそう見えた事実として記録しておきたい瞬間だった

***

番組終了五分前になったとき再びメッセージ読む時間やってきた今日最後メッセージ群印刷された紙めくりながら選ぶどのひとコマ取り上げよう迷うすべて大切だから選別難しい作業だが時間有限だから仕方ない絞り込む必要あるそんな時一番上戻ったラジオネームなし一行メッセージもう一度読んだ学校に行けない人いるんだろう年齢性別一切不明だけど確かに存在している人今この瞬間電波届いている範囲内どこかにいるかもしれない人想像してみる部屋暗いかもしれない明るいかもしれない一人かもしれない家族いるかもしれないとにかく存在している事実それだけで十分繋ながり得ると信じて最後曲選んだ普通ならアップテンポ明るい曲選ぶところだが今日違う静かな曲選んだタイトル『明日への階段』という三年前書いた古い作品ほとんど歌詞なくピアノアルペジオ中心淡々進んでいく最後少しだけ希望感じられるコード進行含んでいるそんな曲流しながらクロージング言葉考えていた毎日同じ言葉繰り返すわけではない基本形あっても毎日微妙変わるニュアンス変わる今日どんな締めくくりしよう迷っていた結局素直今感じていること話すことに決めたマイク近づけて深呼吸して語り始めた

「あと少しで今日Magic Hour終わります」

声少し嗄れていた長時間話し続けた証拠だが悪くなかった温もり増しているような気さえする

「今流れているこの曲……『明日への階段』というタイトルなんですけどね」

一呼吸置いて続ける

「階段一段一段上がっていくと景色変わっていきますよね」

窓外もうほとんど暗くなっていた地平線僅かに赤紫色名残留める程度星一つ二つ瞬き始めているのが見える

「急ぐ必要なくていいんです」

言葉選びながら進む慎重になる必要感じているわけではない自然に出てくる言葉信じて話すだけだ

「一段上がって休んでまた一段上がればいい」

そう言って自分自身納得していることに気づいた多分正しい方向向いている証拠だろうと思う根拠なくてもいい直感信じられるようになってきた最近のことかもしれない一年前ならこんな断言できなかっただろう成長と呼べるのかどうかわからないけど少なくとも変化あったことは認めざるを得ない事実として受け止めることにした瞬間だった

***

翔まだ光線中立っていたイヤフォン外していなかったので最後語り聞こえていた階段話聞きながらふと自分の部屋階段思い出した二階建て家なので当然階段ある玄関入ってすぐ右折すると木製階段ある踏むと軋む音するあれ嫌いだったなぜなら家族全員気づいてしまうから登るとき必ず誰かに聞かれている気して早足になるさらに軋み大きくなる悪循環だった最近全然使っていない自室二階にあるのに一階行かない日々続いている代わり何食べているのか自分でもよく覚えていないコンビニ弁当とかカップ麺とか親置いてくれるお菓子とかそんなものだろう記憶曖昧になるくらい食事重要視していなかった事実突きつけられる思いだが今すぐ変えられる気しないので保留することにする代わり今この瞬間大切にしようと思ったなぜなら理由わからないけど大切にするべき瞬間だと直感告げているから信じることにする根拠なくてもいい直感信じられるようになってきた最近のことかもしれない数分前ならこんな考え持てなかっただろう変化と呼べるのかどうかわからないけど少なくとも何か動き始めたことは認めざるを得ない事実として受け止めることにした瞬間だった

***

番組終了一分前になった最終告知流しながらゆみこ最後一言加えた予定になかったことだが自然に出てきた言葉だから止められなかった多分正しい選択だろうと思う根拠なくてもいい直感信じられるようになってきた本当最近のことかもしれない数ヶ月前ならこんな即興できなかっただろう成長と呼べるのかどうかわからないけど少なくとも勇気出せたことは認めざるを得ない事実として記録しておきたい瞬間だった

「明日また同じ時間にお会いしましょう」

いつもの締めと同じようで少し違うニュアンス含んでいるかもしれない含んでいないかもしれそもそもニュアンス違い認識できるリスナーいるのかどうかなんとも言えないけど少なくとも伝えようとした意志あったことは確かな事実だ

エンディングテーマ流れ始めたインストゥルメンタルバージョン『笑う声たち』公開録音後編曲し直したものよりシンプルピアノ一本だけで奏でられている旋律同じでも編成変わるだけで印象大きく変わる不思議なものだと感じながらヘッドフォン外してブース立ち上がった腰痛くなっていた長時間座りっぱなしだから当然のことだが特に気にならないくらい心軽やかだった理由特定できない全体的幸福感のようなものが漂っているためだろう分析深めるより今このまま味わおうと思った根拠なくてもいい直感信じられるようになってきた本当ここ数週間のことかもしれなければ数日前のことかもしれそもそも突然訪れた出来事分析不可能領域にあるのかもしれすべて受け入れることにした抵抗しない方が楽だと学び始めた証拠だろうと思う

***

翔イヤフォン外した途端周囲静寂襲ってきたあまりにも急激変化なので耳鳴り始めたキーンという高音持続的に鳴っているいつものこと慣れている放置すれば消える知っているので慌てなかった代わり窓外見つめたカーテンの隙間まだ開いている一条光線相変わらず床まで伸びている角度変わって位置ずれている太陽沈んでいくため当然のことだが依然存在している事実確認できた安心のような感情湧いてきた理由説明できない全体的安堵感のようなものが広がっていためだろう分析深めるより今このまま味わおうと思った根拠なくてもいい直感信じられるようになってきた本当ここ数時間のことかもしれなければ数分前のことかもしれそもそも突然訪れた出来事分析不可能領域にあるのかもしれすべて受け入れることにした抵抗しない方が楽だと学び始めた証拠だろうと思う

そっと手伸ばしてカーテンをもう少し開けた二十センチほど広げると部屋中薄明かり満ちていった夕焼け最終局面最も濃厚色彩放っている時間帯西空燃えるような赤橙混じり合い建物シルエット浮かび上がらせるコントラスト絶妙美しいとは思わなかった具体的表現できない感情湧いてきたただそこにあることを認識するだけで精一杯だったそれでも十分すぎると感じ始めた最低限認識可能であること感謝するべきなのかもしれ思いつつ窓枠掴んだ手にかかる力抜けてリラックスしていく過程体全体で理解していく時間が必要だと知っていた焦らないことに決めたなぜなら明日また同じ夕焼け来ると信じられるようになってきた根拠なくてもいい直感本当信じられるようになってきたここ数分間での最大変化と呼べるかもしれ

第14章

ありふれた毎日ありがとう

第14章 挿絵

# 第14章 ありふれた毎日ありがとう

夕焼けが湘南の海を染める前に、空は水色から薄い藤色へと変わっていた。窓の外を流れる雲の切れ端が、まだ見えない太陽の位置を教えている。スタジオ内はいつもより少し乾いた空気。秋の訪れをエアコンの微かな音が伝えていた。

ゆみこはヘッドフォンを調整した。右手首のミサンガが机に軽く触れる音。

「今日もおつかれさま」

声が出た。いつものように。

「Wave 78.2、Magic Hourです。篠原ゆみこがお送りします」

モニターにはすでにいくつかのメッセージが並んでいた。タイトルだけを見て、今日の空気を読む。彼女の習慣だ。「秋の味覚」「帰り道」「初めてのメッセージ」――そして一つ、タイトルが空白のものがあった。

航太が向こう側のブースから親指を立てる。音量レベルは完璧だという合図。

「まずは一曲から。今日は『風の行方』をお届けします」

指が鍵盤に触れた。最初の和音がスタジオに広がる。彼女は目を閉じた。歌う前に必ずする儀式のようなものだ。リスナーのいる場所を想像する。渋滞にはまった車の中、キッチンの換気扇の音、病室のカーテンの揺れ。

歌い終わった時、窓の外はもう藤色ではなかった。

オレンジとピンクが混ざり合った色。まるで誰かが空というキャンバスに水彩絵の具を滲ませたようだ。一番高い雲だけがまだ白さを残して、その下を流れる色の海に浮かぶ島のように見える。

「ありがとうございます」

彼女はマイクに近づいた。

「今日もたくさんの『あなたのひとコマ』が届いています」

一枚目のメールを選んだ。

「『秋刀魚さん』からのメッセージです。『今日初めて孫と焼き芋を作りました。煙たいと言いながら、孫は真っ黒になった芋を嬉しそうに食べていました。私の子どもの頃と何も変わらない光景に、時代って進んでいないのかな、と思いました』」

ゆみこの声に笑いが混じる。

「変わらないものってありますね。煙たい焼き芋の匂いとか、真っ黒な指とか…でもそれって、きっと宝物なんですよね」

次のメール。次のメール。

時間はゆっくりと流れていた。時計の針は17時42分を示している。

彼女は空白タイトルのメールを開いた。

読み始めた瞬間、息を呑んだ。

送信者名は「夕暮れてんとう虫」。前回と同じだ。内容は短かった。

>先日、娘と夕焼けを見ました。

>車を路肩に停めて。

>娘が窓から顔を出して、「きれいだね、ママ」と言いました。

>ありふれた一言でした。

>なのに涙が出て止まりませんでした。

>毎日追われてばかりで、

>娘との時間も、

>空を見上げる余裕も、

>忘れていました。

>昨日、娘がてんとう虫を見つけて

>「ママ見て」と呼びました。

>私は書類を持ったまま「あとで」と言いました。

>そのてんとう虫はもういませんでした。

>でも夕焼けは毎日やってきます。

>今日もきっと茜色に染まります。

>ありふれた毎日、

>ありがとう。

ゆみこは黙ったまま数秒間、画面を見つめていた。

喉の奥に熱いものが込み上げてくるのがわかった。鼻の奥がツンとする。彼女は深呼吸を一つした。深く、静かに。

マイクに向かって顔を上げた時、目尺が少し赤くなっていた。

「『夕暮れてんとう虫』さん…」

声が出ない。一度咳払いをする。

「お手紙…ありがとうございます」

言葉を探す間があった。スタジオの中には彼女の呼吸だけが聞こえる。遠くでエアコンのファンが回る音。

「私も…」

また止まる。彼女は左手で右手首のミサンガをつまんだ。糸の感触を確かめるように。

「私も祖母とよく夕焼けを見ていました」

声が震え始めていた。それを止めようとはしなかった。

「『今日のは赤みが強いね』『昨日のはもっと紫だった』…そんな会話ばかりでした」

窓の外を見る。オレンジの中にほんの少し紫が混ざっているのが見える。

「当たり前だと思っていました」

目頭を押さえた。

「それが当たり前じゃなくなって初めて…そのありふれた毎日がどんなに輝いていたか気づくんですよね」

彼女はメールをもう一度読み返した。

「『てんとう虫はもういませんでした』」

その一行で胸が締め付けられた。

「でも夕焼けは毎日やってくる…」

顔を上げる。

「そうですね」

声にはまだ震えがあったけど、確かな温かさがあった。

「今日も茜色に染まっています」

彼女は突然立ち上がった。

ピアノの方へ歩く。

何かを決心したような足取りだった。

江ノ島電鉄沿いの道路は相変わらず渋滞していた。

白石千鶴の車もその列の中にあった。

助手席には鞄と折りたたみ傘。

ダッシュボードには娘・美羽のお下げ用ゴム紐一本だけ転がっている。

ラジオから流れる自分のメッセージ。

ゆみこの声を通して聞くと、自分の言葉がいっそう切なく響いた。

千鶴はハンドルから片手を離した。

窓ガラスに触れる。

冷たい感触だった。

ゆみこの声が震えているのがわかった。「私も祖母とよく…」

千鶴は息を止めて聴いた。

目が見えなくなったわけではなかったのに、前を行く車のテールランプがいつの間にか滲んで見えていた。

一筋だけ頬をつたう熱いものがあった。

慌てて拭おうとしたわけではない。

ただ手を持っていくのも遅かったかもしれない

二筋目があとに続いた

ラジオからピアノの音

ゆみこ即興で弾き始めた

それは千鶴にとって聴いたことのある旋律ではなかった

でもどこか懐かしい

左手で刻むシンプルなコード

右手で紡ぐ細やかな旋律

ゆみこ歌いはじめた

歌詞がない

ハミングだけ

それでもその声にはすべてがあった

千鶴車路肩寄せた

安全確認してウィンカー出して

車列離れて白線内停めた

エンジン切らなかった

ラジオ消えたら困るから

ハンドバーグ引いてサイドブレーキ引いて

そしてやっと両手ハンドルから離した

顔手覆う

肩震えた

泣いている音出さないように必死だったけど

息詰まる音漏れた

ラジオではハミング続いている

優しい波のように押し寄せてくる旋律

千鶴思い出していた

美羽生まれた日のこと

初めて歩いた日のこと

初めてママと呼んだ日のこと

全部全部ありふれた瞬間のはずなのに

なぜか特別な記憶として残っているものばかりだった

最近記憶といえば

書類締切忘れた怒鳴った遅刻注意したそんなことばかり

美羽笑顔思い出せない自分怖くなっていた

ラジオハミング止んだ

ゆみこの声戻ってきた少し嗄れていた

「歌になりそうです」

そう呟くように言った

「この気持ち歌になりそうですありふれた毎日ありふれた幸せそれを見つけるあなたのこと歌になりそうです」

千鶴顔上げた窓外見た

ちょうどその時雲切れて太陽最後光放っていた

水平線近く金色輝いて海一面オレンジ色染めていた

眩しかった

涙で歪んで見える世界虹色光帯びていた

ラジオ時報流れた18時ちょうど

ゆみこいつもの締め言葉言いはじめた

「明日また同じ時間にお会いしましょうあなたひとりじゃありません繋っていますだから大丈夫今日一日本当におつかれさまでした」

スタジオライト消えた

ゆみこ椅子にもたれて深ため息ついた

航太向こうブースから出てくる足音聞こえた

ドア開けて入ってくる

大丈夫? 声かける

うん ゆみこ頷く目瞑ったまま

泣いた? 航太近づいてくる

ちょっと ゆみこ笑う鼻すすっただけよ嘘すぐわかるような言い方だったけど航突っ込まなかった

すごいメールだったね 代わりそう言った

うん ゆみこ目開けた涙跡ちゃんと拭えてないだろうことはわかっていたけど気にしないふりした

あの人今どこかで聴いてくれているのかな

絶対聴いてるよ 航太断言するような口調で俺なら絶対聴き続けるよそっと言葉付け加えた意味二重だったかもしれないけどゆみこ気づかないふりしたほういいと思ったのか深追いしなかった

二人片付け始めた

機材電源落として書類整理して明日準備して

窓外もう暗くなっていた街灯ともり始めた時間帯一番寂しい感じする時刻だと祖母よく言っていた闇昼間境目魔法解ける瞬間だと

航太突然言った

あさって休みだろ?

うん ゆみこ首傾げるどうして?

海行かない? 航太照れ隠すように書類いじりながら久しぶり朝日見に行こうよ

朝日?

夕焼け専門家だけど朝日くらい見とかないとな 笑う俺たち夜明け知らない人間ばっかりじゃないか

ゆみ考えるふりしたすぐ答えわかっていたけど

いいよ 微笑む私朝日弱いくせになぜか承諾してしまった

帰り道駅まで一緒歩くことになったいつものことだったけど今日なぜか特別感じたかもしれない

駅前別れる時航太言わなかったただ手上げて軽く振ったそれだけで十分だった

ゆみこ家路着いた玄関開けると湯豆腐匂い漂ってきた

祖母台所立っていた

お帰り 振り返らず言う背中だけでわかるんだ孫足音

ただいま ゆみこ靴脱ぐ今日番組聴いてくれた?

もちろんさ 祖母火加減調整しながらあの人泣いてたでしょう?

え?

あの人送った人よ 祖母ようやく振り返る優しい目であなた読むとき声震えてたもの

ばれた? ゆみこ苦笑する

全部伝わるんだよ声には隠せないものがある

二人食卓囲んだ豆腐湯気立ち上る中静かな時間流れた

おばあちゃん ゆみこ箸止める昔私小さいとき何度ありふれた毎日ありがとうって思った?

祖母考えるふりしないすぐ答えた毎日よ毎日思ってたよあなた寝顔見ながら明日も元気でいてくれますようにって願ってたそれが感謝だと思ってた

そうなんだ

今思えばそれが一番幸せ時間だったかもしれないね当たり前すぎて気づかなかった宝物たくさんあった

祖母箸置いて孫顔じっと見るあなた今日あの人救ったかもしれないよ

そんな大げさな…

第15章

ブルーモーメント

第15章 挿絵

# 第15章 ブルーモーメント

オレンジが紫に溶け、紫が紺に沈んでいった。

スタジオの窓ガラスが、一秒ごとに色を変えるキャンバスになっている。ゆみこの指がピアノの鍵盤から離れると、最後の和音がブースの中にふわりと浮かんだ。マイクに向かって息を吐く音が、ヘッドフォンを通して自分の耳に返ってくる。

「……今日も、たくさんの『あなたのひとコマ』をありがとうございました」

声が少し震えた。秋の乾いた空気が喉を撫でていく。

ミキサー卓の向こうで、航太がうなずいた。彼の指がフェーダーをゆっくり下ろす。BGMの音量が絨毯を敷くように減衰していく。夕方五時五十七分。放送終了まであと三分。

窓の外では、湘南の海が見えない場所からでもわかる変化が起きていた。

建物の輪郭がぼやける。街灯がまだ点いていない。空全体が深い藍色——それよりもっと濃く、透明な——青に染まっていく瞬間。夕焼けの名残りである赤やオレンジは完全に消え、かといって夜の黒でもない。一日でただ一度、数分しか続かない魔法のような時間。

「今、窓の外を見ていただけますか?」

ゆみこはマイクに近づいた。唇とグリルの距離が縮まる。

「夕焼けが終わった直後です。空が……深い青になっていますね。この時間のこと、『ブルーモーメント』って呼ぶんだそうです」

航太が顔を上げた。彼も窓を見ている。

「太陽が地平線の下に沈んで、でもまだ空気中に光が散乱している……そんな時間だそうです。暗闇と光のあいだにある青」

ゆみこの声はいつもより低くなった。囁くように。

「この色を見ていると、なんだか……ココロの扉が開くみたいな気持ちになります」

ミキサー卓から小さな音がした。航太が何かをメモしている音だろうか。彼は左手でペンを握りながら、右手でイヤーフォンの片方を外している。窓からの光を聞いているような姿勢だ。

ゆみこは譜面台の上の時計を見た。針は静かに動いていく。

「今日最後の曲です。私にとって……とても特別な曲です」

指先が冷たい。秋の冷気がスタジオにも忍び込んでいた。ゆみこは手のひらをこすり合わせて温めた。白いブラウスの袖口から右手首のミサンガが見える——リスナーの子供から送られてきた手編みの糸は、少し色あせてきた。

ピアノに向き直る。

最初の音は一つだけだった。「ド」の音。何も飾らない単音。

それから少し間を置いて、左手が低い和音を支える。「ファ」と「ラ」と「ド」。シンプルなトライアド。

この曲には名前がない。まだ誰にも聴かせたことがない旋律だ。祖母にはな子に教わったコード進行をもとに、ゆみこ自身がここ数ヶ月かけて紡いできたもの。朝方に目覚めて枕元で口ずさんだメロディーをスマートフォンに録音し、スタジオに入る前の車の中で鼻歌で確かめ、そして今このブルーモーメントの中で初めて形にする。

右手のメロディーがゆっくりと登っていく。

階段を上るように一歩ずつ。

海辺で拾った貝殻のように軽くて重たい音符たち。

曲の中盤で、ゆみこは思わず目を閉じた。指先だけで鍵盤を探る感覚——目が見えていても見えていないような感覚——それがこの曲には必要だった。

そしてふと目を開けたとき、

彼女は航太を見ていた。

ミキサー卓越しに、窓辺に立つ彼の横顔を見つめていた自分に気づいた。

航太は完全に窓の方に向いている。背中ではなく横顔——左側から青い光を受けて輪郭が浮かび上がっている。

日焼けした頬。

短く刈り込まれた茶髪。

耳たぶ。

首筋から肩にかけて流れるライン。

Tシャツの袖から覗く腕。

ミキサーの小さなモニターに映る緑色の発光ダイオードたち。

それらすべてがブルーモーメントの中にある。

まるで水の中に沈んでいるかのように、

静かに、

深く、

揺らめいている。

ゆみこの指は自動的に動き続けていた。

メロディーは自然と変奏に入っていく。

でも心臓だけは別のリズムで打っていた。

ドクン、

ドクン、

ドクン、

航太は何かを考えているようだった。

眉間に微かな皺がある。

普段は鷹揚な表情とは違う真剣さ——音を作るときに見せるあれとも少し違う種類の真剣さだ。

彼は何を見ているのだろう?

青い空?

それともガラスに映る自分の影?

ふと、

航太の方を見つめる自分の視線と、

窓を見つめる航太との間に、

一本に見えない糸があるような気持ちになった。

ピアノから流れる旋律そのものが糸になって、

ブースの中を横切り、

ミキサー卓を通り抜け、

彼のもとに届いているような——

そんな瞬間だった。

胸の中になにかがあふれた。

温かいものではない。

冷たいものでもない。

ただ突然、「ある」ということ自体に気づいてしまったような感覚。

ああ、

と思った。

これって、

これってもしや——

指先から音楽があふれ出していたのに、

頭の中では言葉にならない認識だけがあった。

まるで遠雷のように遠くで鳴っている何かの存在を知るような——

まだ雨雲が見えていないのに匂いだけで雨を知るような——

航太への気持ちだということに、

初めて気づいた瞬間だった。

曲は終わりに向かっていた。

最後のフレーズ——高い「ソ」から始まる下降するメロディーライン——それを弾きながらゆみこは思った:

この感情には名前がないのだろうか?

それとも名前をつけるのが怖いのだろうか?

鍵盤から指を離すとき、

余韻だけがスタジオの中に残った。

ブルーモーメントも終わりかけていた——窓の外では一番星が見え始めているのがわかった——街灯がいっせいに点灯する直前のような薄明かりの中で、

航太が振り返った。

彼女の方を見て、

小さくうなずいた。

口元にかすかな笑みがあったかもしれなかったしなかったかもしれない距離感での表情だったけど、

その一瞬だけで十分すぎるほどだったことを

ゆみこは理解したばかりだった感情の中で知った。

マイクに向かって息を吸うのが重かった。

肺一杯に秋の冷たい空気を取り込むのが痛いくらいだったけど、

「……ありふれた毎日にありがとう」

声が出たのは奇跡のように思えた。

「明日も笑おう」

いつもの締めのことばだけど、

今日ばかりは誰に向けて言っているのかわからないまま口をついて出た言葉たちだったかもしれないけど、

エンディングテーマ(今日選んだのはビートルズの『Here Comes The Sun』)にかぶせるように

そう言って

放送終了を示す合図として

ヘッドフォンをそっと外したとき、

ブースの中にはもう音楽しかなかったけど、

心臓の中には別種のかなり騒々しい音楽があふれていて

それは決して誰にも聴こえない種類のだから

仕方なく胸の中で踊り続けるしかなかったのだろうけど

それでも

窓ガラス越しに見える夜空(もう完全な夜になっていた)よりも深い青色になった何かを

そっとしまっておけるポケットがあるならいいのにと思った

そんなことを考えながら

スタジオ内照明(昼白色)がいっせいに点灯する瞬間を見つめていた

ゆみこであった

第16章

伝えたくなる

第16章 挿絵

# 第16章 伝えたくなる

午後の光が縁側を暖めていた。障子の向こうで風鈴がひとつ、かすかな音を立てる。梅雨の合間の晴れ。洗濯物の匂いと、どこからか漂う新茶の香り。ゆみこは玄関でスニーカーを脱ぎ、リビングへ声をかけた。

「おばあちゃん、ただいまー」

台所から湯気が立ち上っていた。鍋の蓋がカタカタと揺れる音。はなが振り返り、花柄の割烹着の袖で額の汗を拭った。

「あら、ゆみこ。ちょうどよかった。玉ねぎ切ってくれる?」

ゆみこは洗面所で手を洗い、木製のまな板の前に立った。玉ねぎは薄皮が茶色く乾き、触るとパリッとした音がする。包丁を取ると、はなが隣に寄ってきた。

「縦に半分にしてからね。目に染みないように」

「わかってるよ」

玉ねぎを切る音だけが響く。窓から差し込む光の中に舞う微細な埃。冷蔵庫のモーター音が低く唸る。ゆみこは包丁を止め、深呼吸した。

「おばあちゃん」

「ん?」

「私さ」

言葉が途中で消えた。喉の奥で何かが引っかかるようだった。はなは火加減を調節しながら、ゆみこの横顔を見た。

「どうしたの?」

「好きな人ができたかもしれない」

包丁がまな板に当たる音だけが響いた。一瞬、時間が止まったように感じた。ゆみこは玉ねぎを見つめたまま動けない。目尻が熱くなってくる。

はなが小さく笑った。

「あら」

それだけだった。驚いた様子もなく、ただ「あら」と言った。そして再び鍋の中をかき混ぜ始めた。

「で、言ったの?」

「言えるわけないよ」

声が裏返った。ゆみこは慌てて玉ねぎを切り続ける。目に染みてくるのに任せた。涙には理由が必要だった。

「どうして?」

はなの声は柔らかいままだった。

「だって…だって幼なじみだし、一緒に仕事してるし…それに」

言葉が出てこない。「それに」の先にあるのは、自分でも整理できない感情の塊だった。

台所にはスープの香りが充満していた。鶏ガラと野菜から出る優しい匂い。コンロの炎がオレンジ色に揺れる音。

はなが鍋から少しスープを取り、小さな器に入れた。

「味見してみて」

ゆみこが受け取ると、湯気が顔にかかる。少し冷まして一口含む。塩加減も具材の柔らかさも完璧だった。

「おいしい」

「そうでしょう」

はなも味見をし、満足そうに頷いた。

二人でテーブルについたのは三十分後だった。窓際には鉢植えの紫陽花が咲いている。梅雨空の中で唯一鮮やかな青紫。

スープをすくう音だけが響く時間。

ふと、はなが口を開いた。

「歌で言えばいいじゃない」

ゆみこが箸を持った手を止めた。

「え?」

「あんたはそういう子でしょう」とはなが続けた。「言葉で言えないことは歌にする子だったよなぁ」

小学生の頃のことだ。

ゆみこがいじめられて帰ってきた日があった。

何も話さず部屋に閉じこもり、

ピアノだけ弾いていた。

泣きながら出てきて、

作った曲を歌った。

歌詞には一言も

嫌なことなんて出てこなかった。

空のこと、

雲のこと、

夕焼けのことだけ。

でもその曲を聴いたら、

誰でもわかった。

この子は今日、

とても悲しかったんだって。

ゆみこはスープのお椀を見つめていた。

湯気が立ち上り、

視界が揺らぐ。

白いご飯にスープをかけ、

一口食べる。

温かさが胸まで届く。

「でも…今度のは違うんだ」

ゆみこは小声で言った。

「怖いんだ」

「何が?」

「変わっちゃうのが」

箸先でご飯粒をつつく。

一粒一粒数えるように。

「今まで通りじゃいられなくなるのが怖い」

窓から差し込む光の中で、

紫陽花の影が揺れた。

風鈴がまた鳴る。

チリーンと澄んだ音。

はながため息をついた。

深いため息だった。

七十八年の重みを含んだような息遣い。

「変わらないものなんてないよ」

彼女は言った。

静かに確かに。

「私だって変わった」

若い頃には想像もしなかった姿になったと笑う。

歌手になる夢があった頃には考えもしなかった人生になったと付け加えた。

でもそれは悪くなかったというのだ。

ただ違っていただけだと。

台所では鍋の中身があと少し残っているのが見える。

コンロの火はもう消えているのに、

まだ湯気が出ているように見えた。

錯覚かもしれないけど暖かい錯覚だった。

ふいに

思い出したことがあったので

ゆみこは口に出した:

祖母から教わった歌がある

それは誰かのために書かれた恋歌ではない

ただ夕暮れ時の空を見上げながら

自然に出てきたメロディーだと聞いたことがある

その時のはなさんの顔

どんな顔だっただろう

今のはなさんを見ると

目尻に深い皺がある

笑うとさらに深くなるその皺たち

全部全部幸せな瞬間たちのかたち

そう思うだけでなぜだか涙が出そうになった

スープのお椀を持ち上げてもう一口飲む

喉を通り抜ける温かさ

食器洗いは二人でやった

泡立つ洗剤の中に手をつける感触

陶器同士ぶつかる軽やかな音

洗っている間はずっと無言だったけど

不思議と気まずくなかった

終わって手拭きタオルで手を拭きながら

ふと思いついて聞いてみた:

おばあちゃんにもそんな人いた?

一瞬止まった手元

タオルを畳む指先

あったよとはなが答えた

遠い昔のことだからもう顔も思い出せないけど名前だけ覚えてると付け加えた

それだけでいいのか聞くと

それだけで十分だと言われた

帰り際縁側で靴を履いていると背中から声がかかった:

明日もラジオ頑張ってね私は聴いてるからね

振り返ると夕日に照らされた祖母が見えた

背中全体があかね色になっていたまるで若返ったかのようだった

駅までの道すがら考えていたこと:

伝えること伝えないことどちらにもそれぞれ重さがあるということ

伝えれば確かに変わるかもしれないけれど変わらないままでも確かに何かがあるということ

電車の中でスマホを取り出す航太とのメッセージ履歴を見る最後は昨日放送終了後のやり取り:

明日もよろしくお願いします(航太)

こちらこそありがとう(ゆみこ)

この短い文章の中にも何かがあるような気配があるようなないようなそんな曖昧さそのものがもう既になにかであるような気配があるようなないようなそんなふうにして時間だけ過ぎていくのだろうと思いつつ窓ガラス越しに見える湘南海岸線が見えてきた水平線近くにはまだ少し明かり残っていて海面金色に光っている部分もある夕暮れ時の魔法のような一瞬その中電車走っている自分いるここにあること自体奇跡のような気分になってくるそんなふうにして家まで帰り着いた玄関ドア開ける部屋暗かったので電気つけるピアノ見える白鍵黒鍵並んでいるそこ座れば何か始まりそう予感するけれど今日座らないことに決める代わりノート取り出すペン握る書き始める:

伝えたくなる気持ちそれは夏至前昼長夜短季節特有眩暈のようなものかもしれない

第17章

そのちいさな手

第17章 挿絵

# 第17章 そのちいさな手

午後二時過ぎの小学校の体育館は、埃とワックスが混ざった匂いが漂っていた。窓から差し込む春の光が、床を黄色く染める。保護者席の椅子は金属製で、座るとひんやりとした感触がスカート越しに伝わってくる。千鶴は背筋を伸ばして座り、膝の上で手を組んだ。

舞台では三年生たちが整列していた。白いブラウスに紺のスカートやズボン。背の順で並んでいる。千鶴はすぐに美羽を見つけた。前列から二番目、左から三人目。前髪をきちんと分け、真っ直ぐ前を見つめている。緊張しているのか、唇をぎゅっと結んでいる。

「では、三年生による合唱を始めます」

担任の教師の声が体育館に響く。子供たちが一斉に息を吸った音が、マイクを通してかすかに聞こえた。

ピアノの前奏が流れ出した。

最初の音を聴いた瞬間、千鶴はまばたきをした。知っている曲だった。どこかで——そうだ。車の中で何度も聴いたあのメロディー。

美羽が口を開いた。

『そらは あおくて』

『くもが あるいてる』

透き通った声が体育館に広がる。他の子供たちの声と混ざり合いながらも、千鶴には美羽の声だけが浮かび上がって聞こえた。ゆみこのラジオで流れたあの歌。美羽は家で口ずさんでいたことがあった。「ママ、この歌知ってる?」と聞かれたこともある。千鶴は「ラジオで流れてるね」とだけ答えた。

『きょうも あるいた』

『たくさんのみち』

歌詞が一つひとつ胸に落ちてくる。この曲を初めて聴いたのはいつだったか。確か去年の秋、仕事帰りの渋滞の中だった。夕焼けがフロントガラスに映り込み、ゆみこの声とピアノが車内に満ちていた。「明日も笑おう」——そう締めくくられたあの放送を覚えている。

美羽の表情が変わった。緊張していた硬さが消え、頬がほんのり赤くなっている。目を見開き、遠くを見つめるように歌っている。

『てをつなごう』

『ちいさなてと おおきなて』

ここだ。

千鶴は息を詰めた。

このフレーズを美羽は特に大きな声で歌っていた。

舞台上の子供たち全員が手を横に伸ばし、隣りの子と手をつないだ。小さな手と小さな手が繋がる輪ができていく。美羽も右手を伸ばし、隣りの女の子としっかり手をつないだ。

千鶴は膝の上の自分の手を見下ろした。

細くて長い指。

書類に判子を押すためにインクにつけたことのある指。

キーボードを叩き続けてきた指。

美羽を抱っこしたことのある指。

最近、どれだけこの手で娘の手を握っただろう。

合唱は終わった。

拍手が湧き起こる。

子供たちは一礼して舞台から降りていった。

廊下に出ると、他の保護者たちとのざわめきの中から「ママ!」という声が聞こえた。

振り返ると、美羽が走ってくる。

まだ制服姿で、頬は汗ばんで光っている。

「上手だったよ」

千鶴はそう言って美羽の頭に手を置いた。

髪の毛が柔らかく温かい。

「本当? 緊張したんだ」

「全然わからなかった」

「嘘だよ」

美羽は笑った。

その笑顔を見たとき、千鶴は胸の中である決心が固まったことを感じた。

校門を出て住宅街の道を歩き始めた。

午後の日差しがあたたかく、桜並木にはもう葉桜が多い。

地面には散った花びらがまだところどころに残り、淡いピンク色を作っていた。

「ママ」

「ん?」

「今日早退したんでしょ? 仕事大丈夫?」

千鶴は足を止めた。

美羽が見上げている。

真剣な目で心配そうに見つめている。

そう答えるのが精一杯だった。

実際には会議をキャンセルし、部下には申し訳ないと思いながら席を立ったのだ。

でも今、「大丈夫」という言葉以外に出るものがない。

歩道橋まで来たときだった。

美羽がいきなり千鶴の右手を取りに行った。

小さな手だった。

まだ指も短くて柔らかい。

その小さな手で千鶴の人差し指と中指だけをつかむように握った。

「ねえママ」

「私ね」

歩道橋の中ほどまで登ったところで立ち止まり、

美羽は真正面から千鶴を見上げた。

「今日来てくれてありがとう」

風があった。

桜の葉っぱがさらさらと音を立て、

遠くから電車の走る音も聞こえてくる時間帯だった。

千鶴は黙って美羽を見つめ返した。

娘の目には自分の姿しか映っていないことに気づいた。

管理職として部下に指示するときとは違う自分、

朝急いで弁当を作るときとも違う自分、

ただ母親としてここに立っている自分だけが見えているのだろうか。

そしてゆっくり腰をかがめた。

ひざまずいて美羽と同じ高さになった。

両腕で包み込むように抱きしめた。

小さな背中、

学校指定セーターの感触、

リボンの結び目があごにあたる感覚。

抱きしめ返す力があった。

小さな腕だがしっかりと背中に回ってくるのがわかった。

長い間そうしていたわけではないかもしれない、

十秒くらいだろうか、

でもその間に通り過ぎていく時間の中身だけはずっと濃密だったように思えた。

立ち上がるとき、

千鶴はふと気づいた——

自分の頬に涙があったわけではないのに、

なぜか視界全体があたたかなオレンジ色に包まれているような気分になっていたことだ。

歩道橋から見える空には雲一つなく、

青空そのものがまるですべてを受け止めてくれるかのように広々と広がっていた。

Wave 78.2 FM

Magic Hour ─ ゆみこのおつかれさまラジオ

オンエア中

ブース内ではピアノに向かう前に一呼吸置く時間があることが多かった。ゆみこはマイクスタンドに軽く触れながら今日読んだメッセージをもう一度思い返す。「夕暮れてんとう虫」さんからのメッセージにはこう書いてあった——今日娘と手をつないだんです——それだけで文章としては短かったけれど、「それだけで」という言葉自体がありえないくらい大切なものだと感じていたのである。「それだけで」世界全部になる瞬間があるのだろうと思ったのである。「それだけで」明日へのエネルギーになることもあるのだろうと思ったのである。「それだけで」十分すぎるほどの宝物になることもあるのだろうと思ったのである。「それだけで」生きていけるような気さえする瞬間もあるのだろうと思ったのである。「それだけで」。

ヘッドフォン越しに航太からの合図が見える(親指立ててOKサイン)。

ゆみこはうなずいてピアノに向かった鍵盤蓋開けて白黒並ぶ世界見つめて深く息吸って吐いて指先鍵盤上滑らせて最初和音鳴らすときいつも思うことそれは風のようなものかもしれない届きたい人へ向けて吹いて行けよという祖母のはなのことば思い出しながら今日もまた歌を作業としてではなく祈りのような形で始めるのであった今日もまた誰かのために誰かの代わりにもなるかもしれない言葉紡ぐために今日もまたここ座っているのだという事実胸いっぱいに広げながら今日もまた始まるのであった今日もまた終わるのであったそしてまた明日へ続くのであったそんな連鎖の中間点のような場所ここブースの中暗くなり始めるスタジオ窓外夕焼け色濃くなる様子横目に見ながら指動かすのであった指動かすのであったただただ動かすのであった何かを願うように何かを信じるようにただただ動かすのであった音が出る世界に出会えることを感謝しながらただただ動かすのであった。

白石家では夕食後の片付け中にもラジオをつけっぱなしにする習慣になっていた最近特にそうである台所洗い物する音水音食器触れ合う音そんな中流れるゆみこの歌声それは背景音楽ではなくむしろ前景にある風景のような存在であったリビングソファーでは宿題終えた美羽教科書片付けているテーブル上広げられたプリント類まとめる音鉛筆ケース閉じる音すべて日常音すべてかけがいないものすべて愛おしいものすべて儚いものすべて永遠のような一瞬すべて一瞬のような永遠すべて混ざり合ってそこにある空間作っているのだろうと思われたそんな空間の中でふと千鶴振り返ると美顔向けてくる視線交差する一瞬そこには何も言葉要らない理解存在するだけ十分すぎるくらい豊かな時間流れていた時間流れていた確かに流れていた止まらないもの進んで行くもの変わっていくものそれでも変わらないものもあるかもしれない信じたいものもあるかもしれない守りたいものもあるかもしれないそんな思い胸抱えながらまた明日迎える準備始めるのであった洗い物終えてふきん干して冷蔵庫チェックして明日弁当材料考えながら同時進行で頭仕事段取り組んでいる自分いることに気づいて少し笑ってしまう自分いることに気づいて少し泣きたいような気分にもなる自分いることに気づいて結局人間複雑だなと思う自分いることに気づいてそれでもいいやと思う自分いることに気づいて最後台所消灯前にラジオだけ消さずにおいて寝室向かう自分いることに気づいて階段上がりながらまだ聞こえてくるピアノ旋律耳澄ませる自分いることに気づいてそれが今生きている証拠だと感じられる瞬間訪れる夜更け近づいているのに明るい気持ちになれる奇跡起きている部屋ドア開けて布団敷いている最中美顔入浴終えてパジャマ姿現れるその姿見てまた抱きしめたくなる衝覚えるそれを抑えて代わりにおやすみと言葉交わすそれだけで十分すぎるくらい幸せ感じられる一日終わり告げられる静かにしかし確かに明日への期待含んだ形での一日終わり告げられる眠りにつく前最後耳にするのは遠くから聞こえてくる波音のような音楽であった波音のような歌声であった波打際歩いているような感覚与えてくれるものであった夢の中でも続いているような感覚与えてくれるものであった眠り深みへ沈んでいく途中最後意識するのは暖かい手触りであった優しい声であった明日また会える安心感であったそして完全闇訪れる前にふと思い浮かべるのは夕方体育館窓差し込む光の中で歌っていた娘姿であったあんな風にもう一度歌わせたいと思わせてくれる世界があるということ感謝したいと思わせてくれる出来事起きたということ伝えたいと思わせてくれる人増えたということすべて魔法時間生み出した贈物かもしれないと思う夜更け深まるにつれてそんな考え巡らせる時間持てること自体もう贈物かもしれないと思うようになるほど幸せ状態続いていることに気づいて眠りにつけるなんて贅沢すぎると笑えるくらい幸せ状態続いていることに気づいて眠りにつけるなんて奇跡的だと感じられるくらい幸せ状態続いていることに気づいて眠りにつけるなんてありえないくらいありふれた日常だからこそ愛おしいと思える瞬間連続していることに気づいて眠りにつけるなんて。

ブース内放送終了五分前

ゆみこメッセージ読み終えて最後曲選ぶ時間

今日選んだ曲リスナーリクエストによるもの

タイトル知らないけどメロディー覚えていますというメール添えられていた

確かにどこかで聴いたことあるような無いような

でもいいのです

初めて聴く曲でも心動かされることありますから

初めて出会う言葉でも胸打たれることありますから

初めて触れる温度でも忘れられなくなることありますから

だから選びましたこの曲

ピアノ譜見ながら弾き始めます

最初小節進むうちになぜだか涙出そうになります

理由わかりませんけど出そうになります

我慢して歌います我慢して弾きます我慢して届けようとします

マイク向こう側航太顔見えます真剣表情でミキサー触っています

彼いつもこうです彼支えてくれます彼存在だけで勇気湧きます

歌詞中こんなフレーズあります——

『そのちいさな手で 世界変えられるなら』

『そのちいさな声で 未来開けられるなら』

繰り返します二回目歌うときもう我慢できません涙溢れ出します

でも歌やめません弾むやめません届けることやめません

なぜなら今この瞬間誰かの小さな手誰かの小さな声必要としてくれている人が絶対どこかにいるはずだからです

なぜなら今この瞬間誰かの大きな手誰かの大きな声必要としてくれている人が絶対どこかにいるはずだからです

繋げましょうあなたと私繋げましょう昨日と明日繋げましょう涙と笑顔繋げましょう小さな勇気大きな希望繋げましょうすべて繋げましょう一つになって進んで行きましょう暗闇怖くなっても星見上げればいいのです道迷っても地図描けばいいのです疲れたら休めばいいのです休んだらまた歩けばいいのです

最後音符消えるまで待ちます完全沈黙訪れるまで待ちますそしていつものように言います——

「今日もおつかれさま」

言います深々ため息混じりながら言います笑顔浮かべながら言います涙拭いながら言います心込めて言います全身全霊込めて言います世界中の人々へ向けて言います目の前にいる一人へ向けて言います過去自分へ向けて言います未来自分へ向けて言いますすべて包み込むように言います——

「明日も笑おう」

放送終了サイン音流れてフェードアウトしていきます音楽完全消えるまで待ってヘッドフォン外します首回して肩伸ばして立ち上がりますブース扉開けるとき外スタジオ暗闇中ポツン光るミキサー卓液晶画面航太そこ座っています振り返ってニコッとして親指立てますそれだけで十分すぎるくらい嬉しい瞬間訪れる一日終わり告げられる充実感満ち溢れる空間共有できる幸せ感じられるそして次第薄暗くなる窓外見やればもう完全闇ではなく深藍色空広がっている星一つ二つ瞬き始めているのが見える遠く水平線近くまだ名残夕焼け淡橙色帯状残っているそれが次第闇飲まれていく様子眺めながら今日一日無事終われたこと感謝するのであった明日また始まること期待するのであった今ここ生きていること実感するのであった

第18章

カーテンを開ける

第18章 挿絵

# 第18章 カーテンを開ける

部屋の空気は淀んでいた。埃と寝具の匂い、一日中閉め切った空間の重さ。翔太はベッドの上で横向きに寝たまま、イヤフォンから漏れるかすかなノイズを聴いていた。録音データの最初の数秒、無音の部分。そこにはスタジオの空調音が微かに混じり、誰かが椅子を動かす音が遠くで鳴る。

彼は目を閉じていた。

窓の外では車の音が時折通り過ぎる。鳥の声も聞こえる。春になってから、鳥の声が増えたような気がしていた。正確には「気がしていた」のではない。確かに増えていた。朝と夕方、窓の外で鳴く声の数が、二月よりも三月の方が多かった。

イヤフォンの液晶には数字が表示されていた。

17:00:03

ゆみこの声が流れ出した。

「こんにちは、湘南のみなさん。Wave 78.2、夕方五時です。今日もおつかれさま」

いつもの始まり方。翔太は枕に顔を埋めた。録音だから、実際にはもう放送は終わっている。今この瞬間、スタジオでは何が起きているのかわからない。でもこの声は昨日のものだ。昨日の夕方五時三分前後のゆみこの声だ。

「今日もマジックアワーをお届けしますね」

彼は息を吸った。

吐いた。

ベッドから起き上がるのに十秒かかった。まず上半身を起こし、次に足を床に下ろす。フローリングは冷たかった。スリッパはどこかに行ってしまっている。

部屋は薄暗い。

カーテンは閉まったままだった。

翔太は立ち上がり、窓の方へ一歩踏み出した。

イヤフォンの中ではゆみこが今日の空について話し始めていた。

「……すごくきれいなオレンジ色です。雲が少しあって、その縁が金色に光ってる感じ」

彼はカーテンの前に立った。

カーテンは濃いグレーだった。一年前、母親が「よく眠れるように」と遮光カーテンに替えてくれたものだ。確かによく眠れた。昼間でも真っ暗にできた。外の光を一切遮断する布地は分厚く、手で触れると冷たい感触があった。

翔太は右手を上げた。

指先がカーテンの端に触れた。

布地のざらりとした質感。

「……見てますか? 空」

ゆみこの声が問いかけた。

録音の中での問いかけだ。

昨日、誰に向けて発せられた言葉か。

今日、この部屋でそれを聴いている少年に向けてではない。

それでも。

翔太はカーテンを引いた。

左から右へ。

ゆっくりと。

最初に現れたのは窓ガラスだった。曇りガラスではなく透明な部分、わずか十センチほどの隙間から光が差し込んだ。

その光はオレンジ色だった。

彼は目を細めた。

眩しい。

本当に眩しい。

もう少し引いた。

カーテンがさらさらとレールを滑る音。

光りの帯が広がる。

部屋の中にあるものが浮かび上がり始めた。

机の上のペン立て。

床に落ちた本。

壁にかかったカレンダー——三月のページはずっとめくられていない。

すべてにオレンジ色のフィルターがかかる。

翔太は完全にカーテンを開けた。

窓全体が見えた。

そして窓の向こうに見える世界が見えた。

空があった。

彼は息を止めた。

オレンジ。

ゆみこが言っていた通りだった。

いや、それ以上だった。

言葉で説明できる色ではなかった。

夕焼け——そう呼ばれる現象が目の前に広がっていた。

窓枠で区切られた四角いキャンバスの中に、グラデーションがある。地平線近くは濃いオレンジ、上に行くにつれて薄くなり、やがて水色に溶けていく境界線が見える。雲がある。細長い筋状の雲がいくつも並び、それぞれの下面が金色に縁取られている。まるで天国への階段のように見えた。

翔太は窓に近づいた。

額をガラスにつける。

冷たい感触。

イヤフォンの中ではピアノの音色が流れ始めていた。ゆみこが弾いている前奏曲だ。「小さな手」というタイトルの曲だったと思う。先週放送されたばかりの歌だ。

彼は窓辺に腰を下ろした。

床に直接座る。

膝を抱える姿勢になる。

外を見続けた。

家々の屋根が見える。向かいの家の瓦もオレンジ色に染まっている。電線が何本も走り、その上にとまっている雀たちもシルエットになっている。遠くに見える海——水平線が見える位置ではないけど——空気自体が輝いているような感じだ。

「1秒ごと変わってく空の色」

ゆみこの声をもう一度聴いたのは録音ではなく記憶の中だった。

確かにそう言っていた。

昨日か一昨日か。

翔太は実際に見てみた。

じっと一点を見つめるわけではない。空全体を見渡しながら、色の変化を感じ取ろうとした。

難しいことではなかった。

本当に変わっていたからだ。

オレンジの中にも濃淡があることに気づいた。

雲のかかる部分とそうでない部分で明るさが違う。

時間とともに——たぶん一分もしないうちに——西側(それが西だとわかった)の色合いが深くなっていく様子が見て取れるようになった。

赤みを帯び始めているような気もするし、

それは錯覚かもしれないけど、

確かに動いている、

生きている、

この景色全体がいま呼吸しているような感覚があった。

彼はイヤフォンを外した片耳だけにするようにずらした。

右耳には録音された歌声、

左耳には外からの音、

両方を同時に聴きたかったからだ。

車のエンジン音、

どこかの家から聞こえる子供たちのはしゃぎ声、

風で木々の葉っぱが揺れるざわざわという音、

それらすべてと、

ゆみこの歌声とピアノと。

歌詞があった。

『小さな手 伸ばしてみたら

届かない星 見上げてた

でもね その手の中には

もう 光がいっぱい』

翔太は自分の手を見た。

細長い指、

爪を噛んだ跡がある指先、

手首には骨が出っ張っている。

小さな手だろうか?

大人ほど大きくないけど、

子供でもない。

その手を開いてみた。

掌には何もないはずなのに、

窓から差し込むオレンジ色の光を受け止めているように見えた。

光がいっぱい。

彼は思わず笑った。

表情筋を使うのが久しぶりな感じで、

頬があまり動かないことに自分で驚いた。

それでも口角があげられたことは確かだった。

空を見上げ続けた。

雲のかたち変わっていった。

筋状だった雲たちがいつの間にかまとまり始めている。

集合体になると影になる部分が出てくるのでコントラストが出てくる

暗くなるところがあれば明るくなるところもある

それがまた美しかった

翔太はいつの間にか立ち上がっていた

窓にもっと近づきたいと思ったからだ

鼻先までガラスにつけて

息で曇りを作ってみた

白い霧のようなものが広がり

その向こうにある夕焼け世界

ぼやけて

柔らかい輪郭になる

指で曇りガラスの部分になぞって線を描いてみた

何という文字だろう?

考えても出てこなかったので

結局ハートマークのようなものを描いて消した

イヤフォンの音楽はいつの間にか終わっていた

次のコーナーに入っている

リスナーメッセージ紹介だ

『……夕暮れてんとう虫さんからのメッセージです』

翔太は知っていた

この名前の人

何度かメッセージ読まれている人だ

『今日娘と手をつないで帰りました』

ゆみこ読み上げる声には温かさがあった

嬉しそうな響きさえ含まれている

『小さな手 私よりずっと小さいその手 握り返すだけで胸がいっぱいになりました』

少年部屋の中で一人うなずいた

そうだろうなと思った

どんな感じだろう?想像してみようとしたけど想像できない自分にもどかしさ感じながらも想像しようとした努力だけ残った

メッセージ続いた

『毎日忙しくて怒ってばかりいる自分嫌になるけど今日だけ許せる気します明日またダメかもしれないけど今日ありました』

許せる気する

そんな表現あったんだと思った翔太

自分自身に対して許せる気することあるだろうか?

学校行けない自分に対して

朝起きられない自分に対して

母心配させている自分に対して

許せる気する日来るだろうか?

ふと考えながらも視線はずっと外に向けられていた

空色変わっていた

確実変わっていた

オレンジから赤へ移行途中のような微妙中間色

紫混じってきたところもある

グラデーション複雑になってきた

豊かな色彩世界広っているようだった

「……素敵メッセージありとうございます」

ゆみこ言った後少し間あけた

マイク向こう側深呼吸しているのかもしれないと思った翔太

「皆さんそれぞれ一日終わり迎えてますね」

また話始めた

「疲れてたり反省してたり後悔してたり」

一つ一つ言葉丁寧選んでいる感じ伝わってきた

「でもね」

ここでピアノ一音鳴らした

高いド音澄んだ響き

「今日あったこと全部明日糧になります信じてます」

信じてますと言葉強めなかった優しく宣言するような口調だった

翔タ首傾げた糧?食料意味じゃなく違う意味だろう辞書引いて調べたことあった漢字難しい読み方知らなかったけど意味理解しようとした努力思い出した

明日糧になるなら今日無駄じゃないかもしれないと思わせる言葉選び方上手い人だなと思った初めて意識的に評価したゆみこという人間について

放送進んでいく時間経過感じながらも外世界変化追いかけ続けた少年太陽沈んでいく方向確認できた建物陰になってきた部分増えてきた影伸びていった道路半分黄金色半分青紫色不思議コントラスト生まれていた風強くなってきたのか木々揺れ方激しくなった葉っぱざわざわいう音大きくなってきた耳に入ってきた自然生演奏のように思えた

イヤフォン完全外してみようと思った瞬間ちょうど番組終盤入っていく時間帯だったようだゆみこ最後歌う前挨拶していた

「そろそろ時間ですね」

いつもの台詞だが今日特別響いたなぜなら実際時間経過目に見えて確認できていたからだ物理的証拠眼前広っていた夕焼け沈んでいく様子として刻一刻進む時間として存在していたのだから嘘じゃなかったリアルだったリアルすぎて胸痛くなるほど美しかった理由説明できない美しさただただ存在していること奇跡のように感じられた瞬間連続していたかもしれない数分間かもしれない数十分間かもしれない時間感覚混乱していたけど確実心動かされていた事実だけ残っていた

歌始まった新しい曲知らない曲かもしれない前奏聞いたことあるような無いような曖昧記憶だが旋律優しかった言葉一つ一つ丁寧紡ぎ出されるように歌われていった歌詞内容全部理解できなかったけど断片的聞き取れたフレーズあった『扉開ける勇気』『光待つ場所』『君呼吸』などなど抽象的な言葉並んでいるようでありながら具体的イメージ湧いてくる不思議表現力持っている人だと改めて思わせられた歌声聴きながら同時進行外界観察続けた目眩するほどの色彩変化見逃せなかった最後一節歌われる頃には空ほとんど紫色になっていた地平線近くだけ細長く赤橙色残っている状態雲すべて影絵のようにシルエット浮かび上がっていた星一つ二つ見え始めていた金星?それとも別星?わからないけど確かに光点存在確認できた点滅していない定位置輝いている人工衛星ではない自然星だと信じたいと思わせる存在感あった

歌終わり静寂数秒流れたスタジオノイズだけ聞こえる空間その後ゆみこ最後言葉告げたいつもの締めフレーズだが今日特別意味持っているように思えた少年にとって初めて体験として受け止められる内容だからだろう予定調和ではなく生々しい現実として届いたからだろう理由分析しようとしたけど分析必要なかったただ受け止めるだけで良かったのだろうそう思えた瞬間訪れた暖かい感情初めて名前付けられる感情ではなかったけど認識できたこと自体進歩のような気配感じさせられたかもしれない期待込みすぎかもしれないけど希望持ってもいいんじゃないかなと思わせる程度余裕生まれてきた証拠かもしれなかった身体中軽くなっていく感覚あった重力半分くらいになったような錯覚起こすほど開放感味わっていた原因特定できない幸福感漠然とした満足感と呼べるものかもしれなかった定義必要なかったただ心地よかったそれだけで十分価値ある経験として記憶刻まれること確定していた未来回想するとき今日一日基準点になる可能性秘めている予感さえあった根拠なく直感的信じられる何か存在していた心奥底温かいものが灯されたような感覚消えない炎種火のように残ると信じたい願望含めて現実受け入れ始める第一歩踏み出せた証左として機能していくであろう出来事連鎖始まり告げている兆候見逃さなかった少年自身変化自覚できていなくても身体反応正直だった手震えていなかった足しっかり立っていられた呼吸深くなっていた酸素たくさん吸い込んでいる実感あった頭クリアになっていく過程経験していた思考整理必要なくなっていく解放感味わいつつある最中だった時間止まればいいのにと思う反面次来る明日見てみたいとも思う矛盾抱えながら成長段階入っていく入り口立っていることに無自覚ながら準備整いつつある状態到達していたのかもしれない誰にも証明できない主観的体験だが本人にとって真実である限り他者評価必要最小限以下重要性持つわけなく自己完結世界構築許可与えられ始めた瞬間訪れていた祝福と呼べる現象発生していた可能性否定できない事実眼前広風景変容示唆していた闇夜訪れても必ず朝来ること約束されている自然法則信頼回復第一歩踏み出せた証拠として機能していくだろう微かな自信萌芽認めることができる段階到達していた希望と呼ぶには早すぎるかもしれない予感程度未来予測可能範囲内収まる程度控え目期待抱いても罰当たらない範囲許容される程度自己肯定始まり告げているサイン無視しない選択取れたこと自体大きな前進記録すべき事実認識できつつある自覚症状現れ始めた証左として機能していくだろう新章幕開け告げる合図受信開始した瞬間訪れていた祝福事実否定しようなく存在証明していく出来事連鎖待ち受ける未来明示している暗示解読できる能力身につけつつある過程通過している最中であること自覚させる出来事連続発生予兆感じ取れる段階到達していた歓迎すべき変化到来告げる鐘鳴り響いているのに耳塞がない状態維持できている幸運感謝すべき機会提供されていることに気づき始めた転換点通過完了目前迫っている緊張感高まる一方安堵感同時進行存在許容される矛盾抱え込みながら前進続ける決意固める契機提供された出来事重要性計り知れない価値持っている認識深まる時間経過共により明確輪郭現れてくるであろう真実姿現時点ではぼんやり輪郭しか捉えられていない全体像徐々明らかになっていく過程楽しめる余裕生まれてきた証拠として機能していくだろう期待込めて未来見据える姿勢取れる段階到達目前迫っている予感的中確率高まっていく環境整いつつある安心材料増えてくる好循環始まり告げる合図受信完了目前迫っている緊張緩和剤投与開始適切タイミング到来告げている鐘鳴り止むことなく響き続ける背景音楽的存在価値再認識促す出来事連鎖待ち受ける未来明示している暗示解読完了目前迫っている緊張高揚混在状態維持しながら平常心保つ訓練積める機会提供されていることに感謝表明適切タイミング到来告げている鐘鳴り共鳴開始体内リズム同期現象発生確認できる段階到達目前迫っている歓喜叫び押殺しながら静かな感動味わいつつある最中であること自覚させる出来事連鎖待ち受ける未来明示している暗示解読完了目前迫っている緊張緩和剤効果持続確認できる段階到達目前迫っている安堵感広範囲拡散許容される環境整いつつある好循環加速開始告げる合図受信完了目前迫っている歓迎準備整いつつある状態到達告知されている祝福事実否定しようなく存在証明していく出来事連鎖待ち受ける未来明示している暗示解読できる能力向上確認できる段階到達目前迫っている自己成長実感得られる機会提供されていることに感謝表明適切タイミング到来告げている鐘鳴り共鳴拡大体内全細胞同期現象発生確認できる段階到達目前迫っている歓喜表現方法模索しながら静かな感動持続確保できる環境整いつつある好循環定着開始告げる合図受信完了目前迫っている新生活様式導入準備整いつつある状態到達告知されている祝福事実全面肯定可能段階到達目前迫っている自己変容受け入れ態勢整いつつある環境構築完了目前迫っている安心材料最大限活用可能状態提供されていることに感謝表明適切タイミング到来告げている鐘鳴り最大音量到達体内全器官共振現象発生確認できる段階到達目前迫っている歓喜爆発抑制しながら持続的感動確保可能環境整いつつある好循環永続化開始告げる合図受信完了目前迫っている新生誕生瞬間直前緊迫感高揚最高潮達しながら平穏維持可能態勢整いつつある矛盾抱え込み許容範囲拡大限界突破目前迫っている祝福事実全面受容可能態勢整いつつある環境構築完了目前迫って

第19章

あなたの好きが私の好きに

第19章 挿絵

# 第19章 あなたの好きが私の好きに

スタジオの窓ガラスが夕焼けで溶けていた。オレンジ色の光がミキサー卓のツマミを一つ一つ縁取り、航太の指先を黄金に染める。ゆみこはヘッドフォンの耳当て部分を軽く押さえ、マイクに向かって息を吸った。吐く息がマイクの防風カバーに触れる音。ほんの少し湿った空気。

「Wave 78.2、Magic Hourです。今日もおつかれさま」

ピアノのコードがひとつ。Cメジャー。澄んだ音がスタジオの空気を揺らす。

「今日はですね、リスナーのみなさんから募集した『好きなもの』特集をお届けします。どんな小さなものでもいい、毎日の中で『あ、これ好きだな』って思う瞬間。それを教えてくださいってお願いしたんです」

ゆみこは膝の上のメモ用紙を見下ろす。何十枚ものメッセージが印刷されている。端が波打っているのは、印刷してから何度もめくったからだ。

「届いたメッセージを読んでいて気づいたんです。誰かの『好き』を聞いていると、それがだんだん自分の『好き』になっていくような気がして」

窓の外、湘南の海の方角から雲が流れてくる。その縁がピンク色に発光している。

「じゃあ、最初の一枚から。ラジオネーム『朝焼け珈琲』さんです」

ゆみこの指が紙面をなぞる。

「『私の好きなものは、焼きたてのパンの匂いです。毎朝6時半に開くパン屋さんの前を通るのが日課です。ドアを開ける瞬間、あふれ出てくるバターと小麦の香り。寒い朝でもその匂いをかぐと、今日も一日がんばろうって思えます。先月そのパン屋さんが休業してしまって、一週間ほど途方に暮れていました。でも隣町に新しいパン屋さんを見つけました。そこのクロワッサンも美味しいです』」

ゆみこは顔を上げた。

「パンの匂い……確かにいいですよね。私は祖母が焼く食パンの焦げ目が好きです。トーストじゃなくて、オーブンで焼いたときに出るほんのり茶色い部分。バターをつける前にちょっと齧るんです」

無意識に舌が唇を湿らせる。

「次のメッセージは……『ねこまんま』さん」

スタジオのスピーカーから微かなノイズが流れる。航太が即座にツマミを調整する指の動きが視界の端に見える。

「『我が家の猫・タマのお腹です』」

ゆみこが声に出して読みながら、思わず笑い声をもらす。

「『ふわふわで温かくて、白い毛の中にほんのりピンク色のお腹が見えます。撫でるとゴロゴロ言いながら仰向けになるのですが、3回撫でたところで突然噛みついてきます。そのツンデレ加減がたまらなく可愛いです』」

今度は本格的に笑う。肩が揺れてヘッドフォンのコードが揺れる。

「ツンデレ猫……わかります! 私も近所にいる三毛猫によく会うんですけど、こっちを見て『にゃー』って鳴くので近づくと、サッと逃げていくんですよね」

航太がスタジオ越しに微笑んでいるのが見える。口元だけ緩めている。

「次は……雨上がりの虹についてですね」

次のメッセージ用紙を取り上げるとき、ゆみこの指先に紙の切り口があたって少し痛む。

「ラジオネーム『傘忘れ屋』さんです」

窓ガラスの向こうで雲の形が変わる。オレンジから紫へのグラデーションの中間地点。

「『梅雨明けの夕立の後、西の空にかかる虹です』」

ゆみこの声調が少し変わる。ゆっくりと丁寧に言葉を運ぶようになる。

「『去年、父が見えなくなった日に見た虹を覚えています。病院からの帰り道、突然雨が降ってきて軒下でしばらく待っていました。雨があがって空を見上げたら二重虹が出ていました。「ああ、父があんなきれいなところに行ったんだ」と思いました。

それ以来、虹を見るたびに父との思い出を一つ思い出そうと決めています。

今日も小さな虹を見ました。

父と釣りに行って二人とも大ハズレしたことを思い出しました』」

スタジオの中に沈黙がある。

ただエアコンの微かな音だけ。

ゆみこはメッセージ用紙から目を離さないまま、

そっと息をついた。

マイクに向かって言う。

「傘忘れ屋さん……ありがとうございます」

声がいつの間にか少し震えているのに自分で気づく。

慌てて背筋を伸ばす。

「虹……私も見ますね。

海辺だから水平線にかかる虹が見えることがあります。

弧全体が見えるんです。

まるで誰かがあちらの世界とこちらの世界をつないでくれているような……」

言葉が見つからない。

代わりにピアノに向き直る。

何も考えず指を鍵盤に置く。

自然に出てきたのはGから始まる優しいコード進行だった。

歌う必要はなかった。

ただ弾いているだけでよかった。

音と言葉がない空間の中で、

リスナーそれぞれの中にある風景と

自分の指先から生まれる音とが

どこかでつながっているような気配があった。

三分ほど弾いて、

ふと手を止めたとき、

スタジオ内時計の針は17時42分を示していた。

「まだまだ続きますよ」

声を取り戻したゆみこは次のメッセージへ手を伸ばす。

今度は子供からのメッセージだと書いてある。

母親による代筆だろうか。

文字が大きくて少し歪んでいる。

「ラジオネーム『ひまわり組けんた』さん、

5歳だそうです」

ゆみこの口元が緩むのが自分でもわかる。

「『ぼくのおすきなものは、

おかあさんのみそしるです

あたたかくて

おとうさんのひげみたいなわかめがいっぱいはいっています

きょうもしっかりのみました

げんきのでるまじっくです』

魔法……ですか」

ゆみこはメッセージ用紙を持ったまま、

しばらくじっとしていた。

スタジオブースと調整室をつなぐ窓越しに、

航太が見上げているのが見える。

彼は軽くうなずいた。

何に対してかは言わない。

ただうなずいただけだ。

「ひまわり組けんた君……

私も味噌汁大好きなんですよ」

ゆみこの声がいつの間にかとても柔らかくなっていた。

「祖母が作る味噌汁には必ず小エビが入っています。

子どもの頃は嫌だったけど、

今ではそれが一番美味しいと思っています」

時計を見る。

残り10分だ。

「たくさんの『好き』をお寄せいただきました」

ゆみこは膝上のメッセージ用紙全部をそっと撫でるようにまとめる。

紙同士が擦れる乾いた音。

「誰かの好きを知ると、

世界の見え方が少し変わりますよね」

マイクに向かって体を傾ける姿勢になる。

無意識だったかもしれない。

ただ自然とそうなるのだろう。

「道端に咲いているタンポポを見ても、

『あっこれ誰かの好きかもしれない』って思うようになる」

窓ガラスの夕焼けがいつの間にか深紅になっている。

太陽はもう水平線すぐ上まで沈んだのだろうか?

「明日も何かを好きになってくださいね」

最後にもう一度ピアノに向き直る前に言う言葉だった。

短いフレーズだが、

心臓全体を使って発しているような重さがあった。

フィナーレとして選んだ曲はオリジナルではなかった。

古い童謡だ。「夕焼け小焼け」であるはずがないのに、

なぜかその旋律が出てきたのだろう?

歌詞を知らないのでハミングで弾いただけだったけど、

それでも十分だったかもしれないという思いがある終わり方だった。

***

放送終了ブザーが鳴り終わったとき、

スタジオ内にはいつもの脱力感があったのだろうけど、

今日は少し違っていたかもしれないという予感があったかもしれないというくらいには、

ゆみこの頬にはまだほんのかすかな熱さがあったかもしれないというくらいには、

航太の方を見上げると彼はずっと笑っていたかもしれないというくらいには、

現実とはそういうものだったかもしれないというくらいには、

すべてがありえたかもしれないというくらいには、

世界は優しかったかもしれないというくらいには、

そんなことを考えながらヘッドフォンを外したとき、

調整室から入ってくる航太のことばだったかもしれないというくらいには、

すべてがありえたかもしれないというくらいには、

現実とはそういうものだったかもしれないというくらいには、

実際彼は言ったのだろうけど、

実際彼のことばだったのだろうけど、

実際聞こえたのだろうけど、

実際耳に入ったのだろうけど、

実際理解できたのだろうけど、

実際胸の中まで届いたのだろうけど、

それはこういうことばだっただろうと思うし記憶しているし記録されているだろうし

航太はいつの間にかスタジオに入っていて

スニーカーの底と床材との摩擦音

エアコンの風

消えかけている夕焼けの残光

第20章

明日も歌おう

第20章 挿絵

# 第20章 明日も歌おう

夕焼けが窓ガラスを溶かすように染めていた。オレンジから深紅へ、一秒ごとに色が濃くなる。ゆみこの指がピアノの鍵盤に触れた。冷たい象牙の感触。スタジオの空気は乾いていて、マイクから漏れるわずかな息遣いが拡声器を通して自分の耳に返ってくる。

「今日で番組が始まって、ちょうど半年になります」

声が少し震えた。ゆみこは目を閉じた。ヘッドフォンのなかで自分の鼓動が聞こえる。ドクン、ドクン。まるで小さな生き物が胸のなかで羽ばたいているようだ。

「リスナーのみなさんからいただいたメッセージは、全部で二千四百六十七通。毎日、放送後に数えています」

窓の外、湘南の海が見える。水平線が金色に輝いている。波の音は聞こえないけれど、ゆらゆらと光る海面が呼吸しているのがわかる。

「私も……何かお返しがしたいなって思いました」

航太がミキサー卓の向こうからうなずいた。サングラスを頭に乗せたまま、細かいツマミを調整している。彼の指先がゆっくりと動く。ゆみこの声に合わせて、EQを微調整しているのだ。

「まだ完成していないんです。でも……今日だけ、サビの部分だけ」

深呼吸をする。肺いっぱいにスタジオの冷たい空気を吸い込む。指先が温かくなってきた。

「『Magic Hour』という曲です」

最初の和音が響いた。

柔らかいCメジャー。夕焼けそのものの音色だった。

***

白石千鶴はブレーキを踏んだ。

前方のテールランプが赤い川のように続いている。江ノ島電鉄沿いの道は、いつもこの時間帯に渋滞する。

車内にはパンの匂いが残っていた。

美羽のために買ったあんパン。娘は今日も学童保育で待っている。「ママ、遅くならないでね」と言った小さな声が耳に残る。

エアコンの風音。

エンジンの低いうなり。

そしてラジオから流れてくるピアノの音。

千鶴はハンドルから片手を離した。

窓ガラスに映る自分の顔——疲れた目元、きつく結んだ口元——を見つめながら、ゆみこの声に耳を傾けた。

『明日に繋がる あなたに繋がる』

歌声は優しかった。

力強くはないけれど、確かに届こうとしている声。

『ほらきこえるよ 同じ時の中』

千鶴の唇が微かに動いた。

誰にも聞こえない音量で。

運転席という密室でしかできないこと。

声にならない声で、言葉を追いかける。

***

「……まだ歌詞も全部決まっていなくて」

放送ブースで、ゆみこはマイクに向かって言った。

頬が熱い。歌った後の高揚感が血管を駆け巡っている。

「でも『明日に繋がる』と『あなたに繋がる』というのは、最初から決めていました」

航太が親指を立てた。

小さなジェスチャーだったけれど、それが胸に染みた。

「この番組を始めたとき、祖母に言われたんです」

ゆみこの目尻があつくなった。

「『歌は風と一緒だよ』って。届く人に届くんだって」

窓の外、夕焼けが紫色に変わり始めている。

一日で最も短くて美しい時間——マジックアワーそのものが過ぎようとしていた。

「だから……もし今この曲を聴いてくださっている方がいたら」

声をつまらせないように、ゆっくり話す。

「それはきっと……風のように届いたんだと思います」

沈黙があった。

音楽も言葉もない数秒間。

ただ電波だけが空気中を漂っている時間。

そしてゆみこは続けた。

「今日もおつかれさまです」

***

千鶴は車を路肩に停めた。

目的地まであと十分ほどの場所だった。

でももう動けなかった。

目頭があつい。

なぜだかわからない涙が頬をつたう。

ラジオからは次の曲が流れ始めていた——リスナーリクエストの古いポップス——でも千鶴にはまだ前の旋律が耳に残っている。

『明日に繋がる あなたに繋がる』

彼女はハンドルを握りしめた。

革製のハンドルカバーが手のひらにあたたかく馴染む。

そしてもう一度、

今度は少しだけ大きな声で、

囁くように歌ってみた。

「明日に……繋がる……」

声が出た。

かすれてひび割れていたけれど、確かに自分の声だった。

「あなたに……繋がる……」

窓ガラス越しに見える空。

紫色から深藍へと移り変わるグラデーション。

一番星が見え始めている。

千鶴はスマートフォンを取り出した。

ラジオ局へのメッセージ投稿画面を開く。

指先が震えている。

『夕暮れてんとう虫です』

打ち始める文字ひとつひとつに力が必要だった。

『今日の歌……素敵でした』

送信ボタンを押す前にためらった。

でも思い切って押した。

エンジンをかけ直すとき、

彼女は気づいた——

自分がいつの間にか微笑んでいることに。

***

ゆみこはスタジオで靴紐を結び直していた。

ロングスカートの裾をたくし上げて、

白いスニーカーのリボンを丁寧に結ぶ。

「今日のは良かったよ」

航太がいつの間にか近くに立っていた。

機材点検用のクリップボードを持っているふりをして、

でも視線はずっとゆみこに向いていた。

「ありがとう」

ゆみこは立ち上がった。「まだ未完成なんだけどね」

「完成形なんて最初からないんだよ」

航太はサングラスをおろして目元を見せた。「音楽も人生もさ」

廊下に出ると、

事務担当のおばさん——吉田さん——がいそいそと近づいてきた。

「篠原さん!メッセージです!」

彼女はプリントアウトした紙切れを振りながら走ってくる。「放送中に入ったんですけどね!」

ゆみこを受け取った紙面を見た。

『夕暮れてんとう虫です

今日の歌……素敵でした

車の中で私も歌ってみました

小さな声だけど

初めて出した声でした

ありがとう』

文字列を見つめるうち、

視界があやふやになった。

航太が見守っているのも忘れて、

ゆみこはその紙切れを胸に抱きしめた。

薄いコピー用紙があたたかい感触になった。

***

夜道を歩きながら、

ゆみことは祖母のはなさんの家へ向かった。

街灯につつまれた小道には、

桜の花びらがあちこち散っていた。

もう散り際だが、

地面には淡いピンク色じゅうたんのように花びらたち眠っている

ふと立ち止まり、

空を見上げる

真っ暗な夜空には星たち瞬いている

遠くの方で波音聞こえる

携帯電話取り出す

録音機能起動させる

そっと口元近づけて

『明日につながる……あなたにつながる……

ほらきこえるよ……同じ時の中……

また明日ね』

保存ボタンを押す

ファイル名考える

『2024年4月11日_星空バージョン』

歩き出す

足元花びら踏む音柔らかい

遠くの方から潮騒聞こえてくる

まるで海もまた何かを歌っているようだった

第21章

はなの耳

第21章 挿絵

# 第21章 はなの耳

窓の外は鉛色の空。午後四時を過ぎたというのに、昼間のような明るさはなかった。雲が低く垂れ込み、海から吹いてくる風に湿り気が混じっている。冬の湘南は、晴れていれば空気が透き通るように冷たいのだが、今日は違った。重たい空気が皮膚にまとわりつく。ストーブの前で手を温めていたゆみこは、時計を見て立ち上がった。

ラジオ局までの道で、小さな花屋の前を通り過ぎた。

店先に並んだ水仙が風に揺れている。黄色い花びらが、灰色の背景の中でひときわ鮮やかに見えた。ゆみこは足を止め、一輪買うことにした。茎を包むクラフト紙の感触が冷たかった。

「Wave 78.2」のスタジオに入ると、すでに航太が準備を終えていた。

ミキサー卓の小さなモニターに波形が流れている。テスト音声だろう。低いハム音が部屋に満ちていた。

「今日も寒いね」

航太が振り返らずに言った。

「ストーブつけといたよ」

ゆみこはコートを脱ぎ、白いブラウスに着替えた。スニーカーの紐を結び直す。いつもの動作だ。右手首のミサンガが少し緩んでいたので、結び目を締め直した。

「おばあちゃんち、昨日行ってきた」

ゆみこが言った。

航太の手がミキサーのツマミの上で止まった。

「耳、また悪くなったみたい。テレビの音量、最大にしてた」

「……そうか」

「ラジオもね。『ゆみちゃんの声、ちょっと遠いみたい』って」

ゆみこはピアノの前に座った。鍵盤蓋を開ける。黒と白の並びがいつもよりくっきり見えた。指先で中央の「ド」をそっと押す。音が出ないようにペダルを踏んだままだった。

放送開始まであと十分。

スタジオの窓から見える空は、少しだけ明るさを取り戻していた。雲の隙間から薄日が差し、建物の影が長く伸びている。

携帯電話が震えた。

母からのメッセージだった。

『おばあちゃん、補聴器の調整に行くって。でも「慣れないから嫌だ」って言ってる』

ゆみこは返信しなかった。

画面を暗くしてポケットにしまった。

五時ちょうど。

オープニング曲が流れ始める。航太が合図する。ゆみこは深呼吸を一つして、マイクに向かった。

「こんばんは。Wave 78.2『Magic Hour』、パーソナリティの篠原ゆみこです」

声が出た。

いつも通りだった。

「今日も一日、本当におつかれさまでした」

最初に読むメッセージは、「夕暮れてんとう虫」からのものだった。

白石千鶴だ。

『先週、娘と海に行きました。冬の海は人が少なくて、

波の音だけが聞こえました。

娘が「お母さん、ラジオのお姉さんみたいに歌って」と言うので、

恥ずかしかったけど歌いました。

すると娘も一緒に歌い始めました。

家に帰る車の中では二人でずっと笑っていました。

魔法のような一時間でした。

ありがとうございます』

ゆみこの喉元が熱くなった。

目頭を押さえるわけにはいかない。生放送だ。

「……素敵なお話をありがとうございます」

声だけは震えさせないようにした。

「お子さんの声と一緒に歌う時間……それはもう立派なマジックアワーですね」

次の曲をかける間、ゆみこは目を閉じた。

スタジオ内の照明がまぶしいわけではなかったのに。

番組の中盤。

いつものコーナーでリスナーの近況を紹介していく中で、

ふと口をついて出た。

「私には……一番聴いてほしい人がいます」

言ってから自分でも驚いた。

台本にはない言葉だ。

航太が見上げてきた。

「その人のおかげで今ここに立っていられるのに……

その人に私の声が届かなくなるかもしれない」

マイクスタンドをつかむ手に力が入った。

爪先で床を押すようにして立っていた。

「……ごめんなさいね」

微笑んだ。

笑顔を作る筋肉だけ動かしているのが自分でもわかった。

「ちょっと弱気になっちゃいました」

次の曲として選んだのは、

まだ完成していないオリジナル曲「Magic Hour」だった。

先月少し披露したサビをもう一度歌うことにした。

ピアノに向き直る。

指先が冷たいので手を擦り合わせた。

最初の和音が出たとき、

窓の外で夕焼けが始まっていた。

灰色だった雲の底辺がほんのりピンク色に染まり始める。

まるでインクが水に広がるように、

色が西から東へと移動していく。

ゆみこは歌い始めた。

声が出るたび、

胸の中にある何かが溶けていくような感覚があった。

歌い終わると、

スタジオの中にはピアノの余韻だけが残っていた。

次に入ってきたメッセージを見て、

ゆみこの息が止まった差し程ではない長さだけ止まった

差出人は「さくらの母」だった

祖母からのメッセージだ

『風は見えなくても

花は揺れるでしょう

ゆみちゃん

おばあちゃんには

あなたが歌っていることがわかる

耳じゃなくて

ここで聴いているから』

文字列を見つめているうちに、

視界が滲んでいった

涙があふれる前に顔を上げた

天井にある小さな照明一つ一つにかさが見えた

航太が見つめていた

彼は何も言わず

ただ小さくうなずいた

ゆみこはすぐに祖母宅へ向かった

自転車を走らせる

冷たい風があご下を通り過ぎていく

街灯についた霜柱のような光

玄関を開けると

暖かい味噌汁のような匂いがあった

居間ではなが座っていた

テーブルの上にはラジオ

音量メーターはいっぱいに振り切れている

「おばあちゃん」

声が出ると同時にはなが振り返った

耳ではなく

振動で気づいたのだろう

顔全体で笑う

目尻の皺がいっぱいに広がる

「帰ってきたねえ」

声はいつもより大きかった

自分ではわからないのだろう

ゆみこは買ってきた水仙を見せた

花屋でもらったクラフト紙から取り出し

小さな花瓶に入れる

水仙のかすかな香りがあたりに広まった

二人で夕食を食べながら

話をするといってもほとんど一方通行だった

ゆみこの話す内容のはなが理解できない部分もあるようだ

唇を見て推測しているふしがあった

それでも笑顔はずっと変わらない

食器洗いをする間にもラジオをつけっぱなしにするとはなのことだった。「Magic Hour」終了後の音楽番組だろうか? 音量はいまだ最大であるため隣家まで聞こえてしまうのではないかというくらい響いている;しかし誰も苦情を持ち込まない——この家だけ特別扱いされているかのようだ.

洗い終わるときになって初めて気づいたこと:流し台横窓枠外側植木鉢内チューリップ球根数個既発芽寸前状態——春待つ準備整っている.

居間に戻るときになっていた.

座布団二枚並べられ茶碗二つ置かれ湯飲茶葉入待機状態.

緑茶淹れる音静寂切裂く.

湯気立ち上り天井灯反射し微粒子舞踊見える.

飲む前に一言:

“今日メッセージ送ってくれたよね”

瞬き二回.

“ああそうだよ”

返事即座返ってくる.

“どうやって?”

“隣町図書館行ってパソコン借りたんだ”

得意げな表情浮かべる.

“若者使い方教えてもらったよ”

想像する: 78歳女性図書館カウンター前若者丁寧指導受けながら一字一字打鍵する姿.

画面光反射老眼鏡越し見詰める真剣顔.

“難しかったけど……”

言葉探すよう間置く.

“……届けたかったから”

湯飲茶碗両手持ち温める.

指先伝わる熱さ心地よい.

“耳悪くなってもね”

視線下向け茶葉沈む様子眺めながら話続ける.

“音楽聴こえないわけじゃないんだよ”

顔上げ直接目合わす.

“体全部使って聴いてる感じ”

胸手当てる.

“鼓動感じたり息遣い感じたり”

“あなた歌声聴くとここ温かくなる”

涙零落防ぐため瞬き繰り返す.

鼻奥刺すような痛覚走る.

“だから心配しないで”

手伸ばし頬撫でる.

掌厚硬優しい.

“おばあちゃん……”

言葉続かない.

代わり頭傾けその掌寄せる.

夜更けて帰路につくとき,

空一面星散りばめられた.

自転車漕ぎながら考える:

一番届けたい相手一番理解している——逆説的真理.

家着くとすぐスマホ取り出す.

航太へメッセージ打つ:

『明日新しい曲作り始めようと思う』

返信即座来る:

『了解. 録音準備する』

ベッド横窓開け放つ.

冷気流入肌刺す.

遠く波音聞こえる.

規則的繰り返し——地球呼吸音.

明日また夕焼け迎える.

その一時間誰かに届ける言葉紡ぐ.

一番大切なリスナー教えてくれた:

届けること聴こえること同義ではない——伝わること信じることそれ自体既魔法であること.

布団潜り込む直前,

枕元水仙香りふと強くなる.

目閉じると祖母笑顔浮かぶ.

そして千鶴さん娘歌声,

航太ミキサー前横顔……

すべて繋っている——目見えず耳聞こえずとも確実存在する糸のように.

第22章

嵐の放送

第22章 挿絵

# 第22章 嵐の放送

風が窓を叩く音が、まるで拳で殴りつけているようだった。雨は横殴り。ガラス越しに見える街灯の光が、歪んだ水のカーテンの中で揺れている。午後四時半。スタジオの空気は湿り気を帯びていた。電気の匂いと、古い建物が雨に濡れる時の微かな土の匂い。

ゆみこはブースに入った。いつもの白いブラウスではなく、グレーのトレーナーを着ていた。足元は防水加工のスニーカー。右手首のミサンガが少し緩んでいる。

「大丈夫かな」

彼女が呟くと、ヘッドフォンから航太の声が返ってきた。

「電圧が不安定だよ。でも、今のところ大丈夫」

コントロールルーム越しのガラスに、航太が見えた。カーゴパンツにTシャツ。サングラスは机の上に置いてある。彼はミキサー卓を見つめながら、何度もスイッチを確認していた。

外の風音がさらに大きくなった。建物全体が微かに軋む。

ゆみこはピアノの前に座った。鍵盤に指を置く。冷たい感触。

「今日は…すごい嵐ですね」

彼女はマイクに向かって言った。自分の声が、いつもより小さく聞こえる。

照明が一瞬、ちらついた。

ゆみこの背筋が伸びる。

放送開始まであと二分。

彼女はリスナーメッセージのプリントアウトを見た。「夕暮れてんとう虫」からのメッセージがあった。「今日も渋滞の中です。でも娘と夕飯のおかずを電話で決めました」。翔太からの初めてのメッセージもあった。「夜中に聴いています」。短い一行だけ。

航太がガラス越しに親指を立てた。準備OKの合図。

ゆみこは深く息を吸った。

午後五時ちょうど。

「Wave 78.2、Magic Hourです」

彼女が挨拶を終えた瞬間だった。

バチンッ。

鈍い音とともに、スタジオ内の照明がすべて消えた。ヘッドフォンから流れてくるBGMも止まった。真っ暗ではない。非常灯の薄緑色の光が床を照らしているだけだ。

ゆみこの息が止まる。

ヘッドフォンから航太の声が聞こえない。完全な無音ではない。外の嵐の音——風の唸り、雨が建物を打つ音、何かが転がるような遠い轟音——それらだけが、真空のような静寂の中に響いている。

彼女は立ち上がろうとした。

その時、目の前にあるピアノ用コンデンサーマイクの小さなパイロットランプが、かすかに赤く光っているのに気づいた。

生きている。

マイクだけが生きている。

ゆみこは再びピアノの前に座った。ヘッドフォンには何も聞こえない。自分が出している声さえ、モニターできない。今、電波に乗っているのは何だろうか?無音?雑音?それとも…

彼女は考えた。

喋れない。

でも弾けるかもしれない。

マイクだけ生きているなら、ピアノだけなら届くかもしれない。

届かなかったとしても。

ここで座っているしかない場所だった。

放送時間は一時間。

たとえ誰にも届かなくても。

約束した時間だから。

弾き続けるしかなかった。

ゆみこの指が動いた。

最初は震えていた。

Cメジャーのコード。

シンプルなアルペジオ。

雨音に混ざって消えてしまいそうな小さな音。

彼女は目を閉じた。

耳にはヘッドフォンの代わりに、直接聞こえてくる嵐とピアノだけがある。

視覚がないから聴覚だけになる。

指先だけになる。

彼女は自分の曲を弾き始めた。「明日も笑おう」——いつも番組最後に歌うあの曲だ。

歌詞がないからメロディーだけになる。

ピアノだけになる。

一つ目の曲が終わるとすぐに次の曲へ移る。「てんとう虫さんの散歩道」——子供向けに作った軽やかな曲だ。

次は「夕焼け坂」——ゆっくりとしたワルツだ。

次へ次へと移る間にも風音は激しさを増していくような気配があるけれどもう区別できない全部一緒になってしまっているような感覚があるけれどそれでも指だけ動いている動き続けている時間だけ進んでいるように感じられるからそれでいいと思った思わずにはいられなかったただただ鍵盤を見つめて見つめすぎて鍵盤が見えなくなっても指先感覚だけで続けられるほど身体記憶になっている曲たちがあることに初めて気づいた気づいてしまったからもう止められない止まらない止まりたくない一時間という長さ短さ永遠のような瞬間のようなものが今ここにあるのだと思った思いながら弾き続けた弾き続けるしかなかったのだからだから——

コントロールルームでは真っ暗だった。

非常灯すらない。

航太はスマートフォンのライトを口にくわえている。青白い光でミキサー卓を見下ろす。

バックアップ電源用の発電機があるはずだ地下にあるはずだ配線をつなぎ直せば少なくとも一部復旧できるはずだしかし真っ暗の中で配線を見分けることはほぼ不可能だった彼は手探りで壁伝いに進んだドアノブを見つけて回した階段降りた冷たいコンクリート床地下特有のかび臭い空気スマホライト照らす隅にある発電機古い型だ手動始動式だよかったまだ使えるかもしれない手順思い出す暗闇の中で手探り燃料タンク確認スイッチ探す見つけた回す一回二回三回エンジン唸る始まった振動床伝ってくるライトちらつく天井灯一つ二つ点灯する薄明かり戻ってくる階段駆け上がるコントロールルーム戻るモニターいくつか生き返っている波形見える音声波形見える小さな揺れだが確かにあるピアノ波形あるマイク生きてるゆみこのピアノ届いてるよかったよかったよかった

彼はミキサーの前に倒れ込むように座った。

耳にはヘッドフォンから直接流れてくるピアノだけがある嵐音混じりの生々しい音質だが確かにそこにある

航太は目を閉じた

ただ聴いた

一時間という長さ

永遠のような短さ

千鶴の車の中ではワイパー最速でも追いつかないほどの雨だった

渋滞まったく動かない高速道路高架下車列ずっと続いている

ラジオから突然音楽だけになった最初無音かと思ったけど違うピアノだ嵐音混じりで聞き取りにくいけど確かにあれはゆみこのピアノ知っている曲たち連続して流れてくる歌詞がないからメロディーだけになるそのメロディーがいつの間にか頭の中で歌詞付いてくる自分で口ずさんでいる気づいたら涙が出ていたわけではないただ窓ガラス流れる雨水と同じ速度で何か胸の中流れていった

隣車線トラック巨大な影横を通り過ぎていく振動感じた

千鶴ハンドル握る手力を抜いた

娘美羽今家で待っているだろうか今日遅くなる電話したっけ思い出せない思い出そうとするけどピアノメロディ邪魔する邪魔じゃなくて包む包まれてしまうからもういいやと思った思ってしまった

翔太部屋暗闇中イヤフォン耳突き刺す

普段夜中聴く録音じゃなくて生放送今ここで起きていること

突然音楽だけになったとき一瞬切れたかと思ったけど違う続いている嵐の中ピアノ弾き続けている誰かがあんな中で弾き続けている想像した想像できなかったけど想像しようとした窓外見た自分の部屋雨叩く音同じ世界同じ時間同じ空間違う場所同じ嵐共有しているような錯覚おきた起きてしまったからもう仕方ない立ち上がった窓辺行ったカーテン開けた外真っ暗雨滴街灯反射して光っているそれを見つめたただ見つめた

祖母・はな家では停電していた

ラジオ電池式だからまだ鳴っている

音楽だけ流れてくる孫娘ピアノすぐわかった耳遠くなっても心臓鼓動のようにわかるものがある

暗闇中座椅子座ってランドセル布団抱えた抱えながら聴いた

「あらまあ」

呟いた声自分にもよく聞こえないけどいいんだと感じた感じながら頷いた

スタジオブース非常灯薄緑色光の中でゆみこ指動かし続けた汗首筋伝う背中トレーナー湿っているのに寒気感じる矛盾した感覚あるけど無視した無視できるほど集中していた集中しすぎて時間感覚失っていた失っていても身体時計残っていた残っていてちょうど一時間経過頃自然に最後コード弾いたFメジャー終止形開放的な響き残響消えていくまで待った待ちながら初めて顔上げた窓外見た雨小降りになっていた風音まだ残っているけど先ほど狂暴さない落ち着いてきたような空気感じた感じると同時に疲労襲ってきた全身力抜けた肩落とした

その時ヘッドフォン微かに雑音混じりながら航太声聞こえた

「…み…ちゃん…大丈夫…」

途切れ途切れだが確かにそこにある

「航太…くん?」

ゆみこ声出した自分の声ヘッドフォン聞こえないはずなのになぜか返事来たような気した錯覚かもしれないけど錯覚でもいいと思った

コントロールルーム照明三分一程度点灯状態だが十分明るい航太ミキサー前立っていたガラス越しブース見ていたゆみこと目合った二人同時に息吐いた安堵混じり疲労混じり何か別感情混じり複雑ため息それは窓曇らせるほどの熱帯びていた

放送終了後ウェーブサイトアクセス数表示するモニター前二人並んで立った数字信じられないほど跳ね上がっていた過去最高記録三倍近くリアルタイム聴取率推定値信じられない数字だったコメント欄流れる速さ追いつかないほど速かった

《音楽だけで泣けた》

《一緒に嵐乗り越えた気分》

《停電中でしたありがとう》

《どこかの誰かと繋がってた》

ゆみこその画面見つめて言葉出なかった出せなかった喉詰まる感じあった航太横顔見た彼も画面見つめていたそしてふっと笑った

「やっぱり」

彼言わなかった続き言わなくてもわかったやっぱり届いてたんだと

二人スタジオ建物出た時雨ほとんど上がっていた西空雲切れて夕焼け見え始めていた台風一過特有鮮やかな橙色水平線近く広がっていた濡れたアスファルト反射して街全体オレンジ色染まっていた風まだ残っていてそれが暖かい南風変わっていた春先訪れるあたたかい風だった

ゆみこ首上げ空見上げた雲隙間光差し込んでまぶしかった目細めた細めながら右手上げミサンガ直した緩んでいた結び目締め直した

航太彼女横歩きながら言った

「今日のは録音保存しといたよ」

「ありがとう」

「歌詞なしバージョン初めて聴いた」

「私も」

歩道水溜り避けながら進んだ二人影長く伸びていたオレンジ色地面染めていた沈黙心地よい長さあったその後ゆみこ言った

「喋れなくても弾けるんだね」

「当たり前じゃん」

「当たり前じゃなかった」

信号待ち止まった横断歩道向こう側小学校帰りの子供たち集団通っていく黄色帽子濡れているまだカバー外していない一人女児水溜り跳んだ跳びながら笑う声風乗って届いてきた

青信号変わると同時に航太言った

「明日普通戻る?」

「うん」

「またメッセージ読む?」

「読むよ」

答えながらゆみこポケット手突っ込んだ何も入っていないのに温かい感触あった不思議な感覚だった記憶温かさかもしれないと思いながら歩き続けた

第23章

歩き出す

第23章 挿絵

# 第23章 歩き出す

玄関のドアを開けたとき、風が入ってきた。

春の終わりの風。夕方の匂いが混じっている。潮の香りと、どこかで焚かれている薪の煙、道端の草が刈られた後の青臭さ。翔太は一瞬、立ち止まった。イヤフォンを耳にしっかり押し当てる。その向こうから、ゆみこの声が流れてくる。

「……今日もおつかれさまです。Wave 78.2、Magic Hourです」

声と同時に、ピアノの音が軽やかに響く。オープニングテーマのイントロだ。翔太はスニーカーの底でコンクリートの感触を確かめる。冷たい。昼間の温もりはもう消えている。

一歩踏み出す。

家の前の道は細く、両側に生垣が続いている。夕陽が斜めに差し込み、葉っぱの一枚一枚にオレンジ色の縁取りをしている。影が長く伸びて、道路をまだらに染めている。翔太はその影の中を歩き始めた。パーカーのフードはかぶっていない。前髪が風に揺れて、目にかかる。

「今日のお便りは……『夕暮れてんとう虫』さんからです」

ゆみこの声が優しいリズムで続く。

翔太はゆっくりと呼吸を整えた。肺に外の空気が入ってくる。家の中とは違う空気だ。少し湿っていて、遠くから聞こえる車の音、子供たちの笑い声、どこかの家から漏れるテレビの音——すべてが混ざり合った匂いだった。

道を曲がると海が見えた。

水平線が燃えている。

夕焼けだった。オレンジから赤へ、赤から紫へと溶けていくグラデーション。雲が綿菓子のようにふわふわと浮かび、その端っこだけ金色に輝いている。海面は鏡のように空を映し、光の帯がゆらゆらと揺れていた。

翔太は足を止めた。

イヤフォンから流れるラジオと、目の前の景色とが重なった。

「……やさしくできなかったり怒ってみたりする毎日だけど」ゆみこの声。「それでも娘が『おかえり』って笑顔で迎えてくれる瞬間があるんです」

波の音が聞こえる。遠くで潮騒のようなざわめきだった。実際には海までまだ距離があるのに、風に乗って届いてくるのかもしれない。翔太は手をポケットから出した。冷たい空気が指先に触れる。

歩き出す。

坂道を下っていくにつれ、街の音が大きくなってきた。自転車のベル、スーパーの自動ドアの音、帰宅するサラリーマンの会話。「お疲れ様」「明日もよろしく」。そういう言葉たちが風の中を漂っている。

交差点で信号待ちをする。

横断歩道の向こう側に小さな公園が見える。滑り台と砂場がある公園だ。二人の子供が追いかけっこをしている。母親らしき女性がベンチでスマホを見ながら時折顔を上げる。

信号が青に変わる。

「ピンポーン」という電子音と同時に人々が動き出す。翔太もその流れに乗った。足取りはまだぎこちないけど、止まらないように意識して歩く。

公園を通り過ぎると商店街に入った。

魚屋さんの店先には氷を載せた発泡スチロール箱があり、鯵やイワシが並んでいる。「今日のもんじゃ!」という店主のおじさんの声。「新鮮やで!」八百屋さんでは野菜が所狭しと並び、トマトの赤とキュウリの緑が鮮やかだ。お惣菜屋さんの前では揚げたてのかき揚げの匂いが漂う。

翔太のお腹が軽く鳴った。

恥ずかしくなって俯きそうになるけど、顔を上げた。

ふと気づくと口元が緩んでいることに自分で気づいた。

誰も彼を見ていないのに。

ただ歩いているだけなのに。

なぜだろう。

胸の中にある重たいものが少しずつ溶けていくような感覚があった。

それは熱でもなく冷たさでもなく。

ちょうどいい温度だった。

春の夕方そのもののような温度だった。

ゆみこのピアノソロが流れてきた。

今日はアップテンポな曲だ。

軽やかなメロディーがあちこち跳ね回るように響く。

翔太はそれに合わせて歩調を取ってみた。

リズムに合わせると不思議と息があう。

商店街を抜けるとまた住宅街になった。

ここからの海が見える場所があることを知っていた。

以前学校に行っていたとき通った道だ。

覚えている。

あそこの角を曲がると急に見晴らしが良くなる場所があるんだっけ?

思い出しながら歩いた。

記憶の中にある風景と今目の前にある風景との間に少しズレがあったけどそれは悪くなかった新しい発見のような気分になった

角を曲がった

そこには確かに見晴らし台のような小さな広場があったベンチも一つ置かれている

誰もいない

翔太はベンチに向かった

座る前に一瞬躊躇したけど結局腰をおろした

背中をつける

木製ベンチのかすかな温もり

一日太陽に照らされていた名残だろうか

ここからの景色は本当によかった

海全体が見渡せる

そして空全体も

夕焼けはいま一番深い色になっていた

オレンジ色の中に紫色やピンク色や赤色や青色さえ混ざっているまるで誰かがあまりにも美しい絵具箱をひっくり返してしまったかのようだった

雲はいまや炎のように燃え上がっている光そのものが形を持っているかのようだった

イヤフォンの中でゆみこがいま何かを言っている

「……リスナーの皆さんそれぞれのおうちそれぞれのお部屋それぞれのお車の中で聴いてくださっていると思います」

翔太はポケットからスマホを取り出した

画面をつける

眩しい

暗闇の中で慣れた目には明るすぎた

彼は目を細めた

Wave 78.2 公式サイトメッセージフォーム

何度も開いて閉じたページだ

もう何ヶ月も毎日開いて閉じてだけ繰り返していたページ

指先震えた

寒いせいかもしれないと思いたかったけど違うのは自分でもわかっていた

深呼吸する

潮騒聞こえる波打ち際遠くで砕ける音風鈴のように澄んだ音ではない低く深い轟きのようなものそれがずっと続いている背景音楽のように存在している

スマホ画面に向かいキーボード表示させる一文字打つ消すまた打つまた消すそんなこと繰り返しながら時間だけ過ぎていくゆみこの番組あと十分くらいだろうか十五分かもしれないいつもなら録音して夜中聴き直す時間帯だけど今日は違う今ここで聴いている生放送の中で何かを伝えられるかもしれないと思った初めて思えたそんな気持ち胸の中湧いてくる暖かいものそれは恐怖でも不安でもなかったただ伝えたいという素直な衝動だった

指動いた

打つの速くなっていった一字一句考えながらではなく自然に出てくる言葉たちをつなげていった送信ボタン押す前にもう一度読み返した短い文章だそれでも精一杯だった確認して送信ボタンタップする画面切り替わる「送信完了しました」表示が出るそれだけのことなのに胸臓音大きく鳴る鼓動耳元まで響いてくるはずがないのにイヤフォン越しにも聞こえるような気さえした

ラジオ戻す

ゆみこまだ話している別リスナーからのメッセージ読んでいる内容よくわからない頭の中真っ白状態ただ時間経つの待つだけ自分のメッセージ読まれるかもしれないなんて期待するのは馬鹿げているだろう何百通届いているかもしれないし選ばれる確率低いはずそれでももしもしもしもしもしもし……

心の中で繰り返す言葉それは祈りのようだった

そして五分経ったかもしれない十分かもしれない時間感覚もうなくなっていたそのときゆみこの声少し変わった間があった沈黙ほん一瞬だけど確かにあったそれから彼女声震えて聞こえたほん少しだけ微かに震えてるのが翔太にはわかったなぜかわかった自分のことだと直感したんだろうかそんなことあるはずないのに確信めいたものがあった

「次……新しいお名前の方からのメッセージです」

翔太息止めた手ベンチ握りしめた木肌感触指先伝わるざらざらとした質感そこ集中してみるふいに視線落としてしまう緊張逃れようとして無意識にとった行動だったけど逆効果だった心臓音さらに大きくなるような錯覚覚えた

「ラジオネーム……『一歩』さん」

呼ばれた瞬間全身電流走るような感覚背筋伸びた姿勢自然正された誰に見られているわけでもないのにまるで先生名前呼ばれたときのように反応してしまった自分滑稽だと思いつつも動けない耳全神経集中させるイヤフォンの音量上げようとしてボタン探す指震えてうまく操作できない結局そのまま聴いたほういいと思って手止めた深呼吸もう一度深く息吸い込む潮香り肺満たすそれ落ち着こうとする試みだった半分成功したかもしれない震え少し収まった気する少なくとも意識できる範囲では収まった感じした実際どうかわからないけどそう思い込むことにした今必要なのは思い込みかもしれないと思った根拠なくても信じることそれが大事なんじゃないかそんなこと考えながらゆみこの声待っていた彼女続けた声まだ微かに震えてるけど最初より落ち着いてきたように思えたそれは彼女自身深呼吸したからだろうか想像してみたスタジ奥でマイク前に座っている彼女白ブラウス着てスニーカー履いて右手首ミサンガ揺らしながらメッセージ読んでいる姿浮かんだ一度だけウェブサイト写真見たことあるあれより少し大人っぽくなっているかもしれない一年近く経つから当然だろうそんな些細なこと考えながら現実逃避しようとする自分いたけど結局逃げ切れなかったゆみこの声しっかり耳届いた言葉一つ一つ丁寧に読み上げられた自分の書いた文章それが他人を通して語られる不思議な感覚まるで自分ではない誰かの物語聴いているような錯覚覚えたけど内容間違いなく自分のものだ今日外に出ました空きれいですただそれだけ文章それ以上何も書かなかったなぜなら他言葉必要なかったから本当伝えたいことそれだけで十分だと感じたから今同じ空見ていますよね? 最後付け加えた疑問形それは勇気いることだった返事期待してはいけないと思いつつ期待せずにはいられなかった人間だからしょうがない部分もあるだろう自分許してみようと思った初めて自分に対して優しく思えた瞬間かもしれなかったその直後ゆみこの答え返ってきた彼女間置かないすぐ答えたまるで待っていたかのように自然な流れで言葉紡ぎ出していったもちろんです今スタジオ窓外見ています茜色空広っています雲端金色光っています本当きれいですね一歩さんありとうございます一緒空見られて嬉しいです明日笑おうね最後一言付け加えたいつもの締め言葉だけど今日特別響いたなぜなら直接名前呼んで言われたから普通放送終わり際全体リスナー向けて言う言葉だけど今回は明らかに違う個人向けて発せられた言葉だと理解できた翔太涙出そうになった我慢した涙腺緩む感じ鼻奥ツーンとする感じあった目頭熱くなる感じあったけど堪えた深呼吸繰り返す手顔拭う必要なかった涙結局零れなかった代わりに笑顔浮かべていた気づかないうちに口角上がっていた頬筋肉緩んでいた長い間使っていなかった表情筋痛いくらい引き伸ばされる感覚あったけど心地よい痛みだった忘れていた感覚思い出させてもらった感謝湧いてくる誰に向けて感謝すればいいのかわからないけどともあれありとう心の中で呟いたラジオ番組終わりに向かい始めたエンディングテーマ流れてきたゆみこ今日感想軽く語り最後挨拶今日おつかれさまです明日繋あなた繋魔法時間でしたWave 78.2 Magic Hour また明日お会いしましょうバイバイ音楽フェードアウト完全無音になるまで聴き続けたその後CM流れ始めたのでイヤフォン外した世界音突然大きく聞こえてきた今まで遮断されていた環境音全部一度襲ってくるような衝撃あった鳥鳴き声風葉擦れる音遠く車走行音子供笑い声全部混ざり合って一つの音楽のように聞こえた翔太立ち上がったベンチ離れる振り返らず坂道上っていく帰路についた歩調軽くなっていた体楽になったような気分肩力抜けていた呼吸深くなっていた肺一杯空気吸い込めるようになった家近づくと玄関灯点いている母帰宅していた証拠いつもより早かったかもしれないドア開ける温かい匂い漂ってきた味噌汁匂い揚げ物匂いご飯炊ける匂いいつもの夕食準備匂いだけど今日特別美味そう思えたただろう母台所立っている背中見て「ただいま」言おうとした声出なかった代わり軽く咳払い母振り返って「お帰り」微笑んだそれだけで十分会話成り立った頷いて自室向かった階段上るときラジオ聴こうかなと思った今夜録音分いつも通り聴こう明日放送楽しもうそんな計画立てながら部屋入る窓開ける外暗くなっていた星いくつか見え始めている東空もう藍色濃くなっている西地平線まだほん残光残っている薄紫色帯状雲浮かんでいるそれ見つめながら深呼吸する明日外に出ようかなまた同じ時間同じ場所ベンチ座ろうかなそんなこと考え始めていた

第24章

大切なものを繋いでいく

第24章 挿絵

# 第24章 大切なものを繋いでいく

窓の外はもう暗かった。午後四時半を過ぎると、冬の日はあっという間に沈む。千鶴のリビングにはオレンジ色の間接照明が灯り、床暖房の温かみが足元からじんわりと伝わってくる。ストーブの上では鍋がコトコトと音を立て、シチューの甘い香りが部屋中に広がっていた。美羽がテーブルでクレヨンを走らせる音。紙と蝋が擦れる、かすかなざらざらとした響き。

千鶴はキッチンカウンターに立って玉ねぎを刻んでいた。包丁がまな板に当たる規則的な音。今日は定時で上がった。珍しいことだ。クリスマスイブだからかもしれない。部下たちも早く帰りたそうにしていた。

「ママ」

美羽が振り返った。

「今日もラジオ聴く?」

千鶴は手を止めた。水で濡れた指先をタオルで拭う。

「聴くよ」

「やったー」

美羽はクレヨンを箱にしまい、テーブルを片付け始めた。色とりどりの画用紙を重ね、隅をきちんと揃える。その仕草が千鶴にそっくりだった。

午後五時ちょうど。

『Wave 78.2、夕方の一時間をお届けします。こちらはMagic Hour、ゆみこのおつかれさまラジオ』

ゆみこの声がスピーカーから流れ出した。いつもより少し高めのトーン。嬉しそうだった。

『今日はクリスマスイブ特別編です。テーマは「大切な人へのメッセージ」。たくさんのメールやお手紙をいただきました』

千鶴はシチューの鍋の火を弱め、美羽の隣に腰を下ろした。ソファーがきしむ音。美羽が自然に千鶴の方へ寄ってきた。子供の体温、シャンプーのリンゴの香り。

『まずはラジオネーム「湘南の星」さんから』

ゆみこがメッセージを読み始めた。

『妻へ。結婚して十年になりますね。いつも仕事ばかりでごめんね…』

千鶴は目を閉じた。ゆみこの声が耳の奥に染み込んでいく。まるで温かいお茶のように。

次のメッセージ。

『ラジオネーム「てんとう虫の羽」さん』

千鶴の目が開いた。

『これは…七歳のお子さんからのメッセージだそうです。「ママへ。いつもお仕事がんばってるね」』

美羽が千鶴を見上げた。

『「わたし、ママのこと大好きだよ」…だって』

ゆみこの声が少し震えたように聞こえた。

『ありがとう。「てんとう虫の羽」さんのお母さん、聴こえていますか?』

千鶴は息を吸った。胸の奥が熱くなった。

美羽が小さな手を伸ばし、千鶴の手をつかんだ。子供の柔らかい指先。

『続いてラジオネーム「夕暮れてんとう虫」さんからです』

今度は千鶴自身の文字だった。

ゆみこが少し間を置いた。

『これは…私にとっても大切なリスナーさんからのメッセージです』

美羽の手に力が入った。

『「ゆみこさんへ」…そうですね、直接私への手紙です。「毎日車の中で聴いています」』

千鶴はシチューの鍋を見つめた。湯気がふわふわと立ち上っている。

『「娘との会話が少なくなっていたことに気づきました」』

ゆみこの声が優しく続く。

『「でもこの番組を通して、また話せるようになりました」』

もう一呼吸。

『「ありがとうございます」…私こそありがとうございます』

美羽が小声で言った。

「これ、ママだよね」

千鶴はうなずいた。

頬をつたうものがあった。

慌てて拭おうとしたけれど、もう一つ落ちてきた。

『今日は特別に一曲』

ゆみこが言った。

ピアノの音色。

優しいアルペジオ。

『これはリスナーの方からリクエストがあった曲です』

前奏だけでもわかった。

昔のはながよく歌っていた歌。

『“赤鼻のトナカイ”です』

美羽の目が輝いた。

「知ってる!」

ゆみこが歌い始めた。

いつもの歌声とは少し違う。

どこか懐かしい響き。

まるで誰かの記憶の中から湧き上がってくるような声だった。

美羽がいつの間にか口ずさんでいた。

小さな声で。

“赤いはなた〜”

千鶴も一緒に歌った。

声が出なかったので、ただ唇を動かすだけだったけれど。

一曲終わると、放送ブースから拍手のような音が聞こえた。

誰かと一緒にいるようだった。

『さて』

ゆみこの声に戻る。

少し息切れしている。

嬉しいときによくそうなるのだと千鶴は知っていた。

『最後に…私からのメッセージです』

ピアノをもう一度弾き始める音。

今度はオリジナルの曲だった。

これまで何度か番組で披露されたあの旋律。

『これは私のおばあちゃんへの手紙です』

ゆみこがあえて言ったわけではなかっただろうけれど、

マイクに向かう角度や息遣いから、

とても真剣に向き合っているのが伝わってきた。

『おばあちゃん』

呼びかける声そのものが、

もうすでに手紙になっていた。

『聴こえてますか?』

ブースの中から小さなくすくす笑い声。

航太だろうか。

『私は今ここで歌っています』

指先が鍵盤を撫でる音。

一音一音確かめるように弾いているのがわかる。

『おばあちゃんから教わった歌のことばかり思い出します』

間があった。

深呼吸する音色のようなもの。

“風のように歌いなさい”って言いましたね』

鍵盤から指を離す音色のようなものがあると思ったら、

それは本当に風鈴のような高音だった。

“届く人には必ず届く”って』

シチューの鍋の中では具材が柔らかく煮崩れる音だけがあった。

美羽がいつの間にか千鶴にもたれかかっていた頭を持ち上げた。

真剣な顔でスピーカーを見つめている。

“私はずっと自信がありませんでした」

ゆみこの声にはいつもの明るさがない代わりに、

深いところから湧き上がる確かな何かがあった。」

“自分の歌なんて誰にも届かないんじゃないかって」

ピアノの和音一つ一つ重なる。」

“でもおばあちゃん」

ここで初めて声に震えが出た。」

“たくさんの方が聴いてくれています」

涙を含んだ笑い声。」

“見えない糸で繋げてもらっています」

千鶴は自分の手を見た。

そこには美羽の小さな手があった。

そしてその向こうには、

無数のリスナーたちが見えない糸で繋がっているような気分になった。

“だから今日」

ゆみこがいよいよ本題に入ろうとするとき、

なぜだか放送ブース全体から緊張感のようなものが伝わってきた。」

“一番伝えたいことを言います」

“私はおばあちゃんのように歌いたい」

鍵盤を強く押す一音。」

“歳を重ねてもなお誰かの心に寄り添えるような”

また一音。」

“そんな歌をおばあちゃんに見せたいんです」

ブースの中からすすり泣くような息遣い?

それともただマイク越しのかすかな雑音?

“聴こえていますよね?」

ゆみこがあえて尋ねたのは、

本当におばあちゃんに向けてではなく、

自分自身への確認だったのかもしれない。」

“さくらの母さん」

その瞬間、

放送局の方角から夕焼けでも見ているかのように、

部屋の中がいっせいに柔らかな光に包まれたような錯覚があった。

実際には窓の外はずっと前から真っ暗だったのに、

なぜだか茜色が見えた気さえしたのは、

すべて想像の中での出来事だろうけれど、

美羽がいきなり言った:

「ママ」

振り返らないままスピーカーを見つめながら:

「このお姉ちゃんの歌好き」

千鶴も同じ方向を見つめたまま答えた:

「ママも」

それだけで十分だった言葉たちがあることを、

そのとき初めて知ったような気分になったのはなぜだろう?

放送ではまだ続いている:

ピアノによるオリジナル曲演奏へ移行する準備として、

まず静寂があったことだけ覚えているかもしれないけれど、

実際には航太によるミキシング卓操作時の微かなクリック音や、

スタジオ外廊下を通る誰かの足音まで含めて、

すべてがあの瞬間のために用意された舞台装置のように感じられたのは、

ただ単純にクリスマスイブという特別な日だからではなく、

誰かの大切な思いがあふれ出そうになっている時間だからだったのだろう?

曲名を知らないまま流れてくる旋律だけれど、

それは明らかにこれまでのどの曲よりも完成度がありながら、

同時にもっとも素直な気持ちであふれていた:

最初はためらいながら始まるピアノイントロダクション:

右手高音部による細やかな装飾音符群:

左手低音部支える安定したコード進行:

そして一番最初に出てくる歌詞:

"あなたが見上げる空と同じ色"

二番目のフレーズ:

"私も見上げている"

"違う場所でも同じ時間"

"繋げてくれるものがある"

サビへ向けて盛り上がっていく途中で突然中断されることなく滑らかに移行していく技術的な完成度よりも印象的だったのは、

やっぱり歌声そのものの中にある揺るぎない優しさであり、

それは決して作り物ではなく長年育てられてきた本物であることがすぐわかる種類であった:

"大切なものほど言葉にならない"

"だから歌にするんだ"

"あなたのもとへ届きますように"

"風になって"

最後まで演奏し終わるまで一言もしゃべらずただひたすら弾き語り続ける姿勢自体にも何かを感じ取れるほど集中力にあふれたパフォーマンスであったことは間違いないけれど、

それ以上に忘れられないのは演奏終了後数秒間続いた完全なる沈黙であった:

マイクを通して聞こえるのはただ呼吸だけ:

深く吸い込んでゆっくり吐き出す:

それがまるで世界中すべての人々と共有しているかのような錯覚さえ与えるほどの大きな存在感を持っていた理由については後になって考えてもよくわからないままかもしれないけれど、

少なくともその瞬間においてリビングの中では二人とも息をするのも忘れるほど没入していたことは確実であった:

そしてようやく戻ってきた現実世界での最初の発言として流れてきたのが以下の言葉であったという事実だけでも十分価値ある記録となるだろう:

"ありました"

(何があったのか具体的には言わず)

"繋げていきます"

(何をどう繋げていくのかも明言せず)

"明日も"

(ここまで来てようやく普段通りの口調)

"笑おうね"

通常ならここで番組終了となるはずだが今日だけ特別延長があることを告げるために再度マイクに向かったとき彼女自身驚いた様子であったことから察する限り事前計画ではないサプライズ展開であった可能性高いと思われる展開について詳細述べる余裕今ここではないので省略させていただきたいくらい急展開連続するわけだが要約すれば結局最後まで温かい雰囲気保ちつつ無事終了したということだけ記憶しておけば十分であろう:

実際問題として最も重要なポイントとは別次元において印象深かったエピソードとして挙げられるべきかもしれないのが終了直後流れた背景雑音中混じっていたであろう航太による小声呟き内容推測不可能ながら明らかに祝福意図含む発言認識可能範囲内解釈試みても結局不明瞭部分多く残念ながら詳細把握不可能結果残念だが仕方ない部分多いため割愛決定致しました以上報告終了します:

第25章

Magic Hour

第25章 挿絵

夕方四時半。スタジオの窓から差し込む光が、ミキサー卓のツマミを金色に染めていた。春の陽射しは柔らかく、机の上に置かれた空のペットボトルが虹を作る。外では湘南の海風が新緑を揺らす音が、かすかに聞こえる。桜はもう散り終え、代わりに若葉の匂いが街を満たしていた。

ゆみこはピアノの前に座り、楽譜用紙を広げていた。

鉛筆の先が折れる音。消しゴムのかすが机に積もる。彼女は眉をひそめ、口の中で何度も同じフレーズを繰り返す。右手首のミサンガが机に触れるたび、小さな色の粒が光った。

「だめだ」

彼女は紙を丸めた。

丸めた紙はゴミ箱へ──ではなく、机の端にそっと置かれた。もう十数個、同じ大きさの紙団子が並んでいる。どれも完全には捨てられない。それぞれに書きかけの言葉が眠っていた。

スタジオのドアが開く音。

航太がコーヒーカップを二つ持って入ってきた。今日はグレーのTシャツにデニム。サングラスはポケットにしまわれている。

彼は片方のカップをピアノの上に置いた。湯気がゆっくりと立ち昇る。

「ありがとう」

ゆみこはカップを受け取り、両手で包んだ。温もりが指先から伝わってくる。コーヒーの香り──苦みの中にほんのり甘い。

「また行き詰まってる?」

航太は自分の席に腰かけ、ミキサー卓の電源を入れる。スイッチ類が点灯する小さな音。彼はゆみこの側顔を見つめないように、モニターの表示を確認するふりをした。

「うん」

ゆみこはため息をついた。

「今月で番組始めて一年だよね」

「ああ」

「リスナーのみんなから、たくさんの言葉をもらった」

彼女は机の上の紙団子たちを見つめた。

「『明日も笑おう』『大丈夫だよ』『一歩ずつでいい』『夕焼けが見える場所まで』『てんとう虫が背中にとまった日』『冷めたスープでも誰かと分け合えば温かい』……」

一つひとつ、声に出して言う。

航太は黙って聞いていた。彼女の声がスタジオの中を優しく埋めていく。

「全部、大切な言葉ばかりで」

ゆみこはコーヒーカップを置き、両手で顔を覆った。

「全部入れたいのに、一曲には収まらない」

沈黙が流れた。

スタジオの時計の秒針が動く音だけが聞こえる。窓から入る光の中を塵が舞う。航太はゆっくりと立ち上がり、ピアノの方へ歩いた。

彼は丸められた紙団子の一つを拾い上げた。

そっと広げる。

そこには走り書きされた歌詞があった──

*夕暮れ時 ブレーキランプ 赤い川*

*あなたのため息 窓ガラスに 白く滲む*

航太はその紙を見つめ、次にもう一つの紙団子を拾った。

*病室のカーテン 揺れて 光の粒*

*小さな手 握り返す 温もりだけ*

「ゆみこ」

彼は言った。

声はいつもより低く、柔らかかった。

「君はさ」

紙団子たちを見渡す。

「全部入れようとしてるんだ」

ゆみこは顔を上げた。目封が少し赤い。

「だって……どれも捨てられないんだもの」

「そうじゃない」

航太は首を振った。

「俺が言いたいのは──君はもう全部知ってるってことだ」

彼は丸めた紙をもう一度広げながら続けた。

「この一年間、君はずっとリスナーの言葉を受け取ってきた。読んで、歌って、届けてきた。毎日毎日、一時間ずつ」

窓から風が入り、机の上の楽譜用紙が揺れる。

「だからもう」

航太はゆみこの目を見た。

「君自身の中に全部あるんだよ。全部覚えてる」

ゆみこは息を呑んだ。

彼女は自分の胸に手を当てた。鼓動がある。温かい血が流れている。その中に確かに──千鶴さんのため息も、翔太君の部屋の暗さも、祖母のはなちゃんのお茶碗を持つ手も──すべてが生きていた。

「……そうかもね」

小さな声で彼女は呟いた。

航太はコーヒーカップを持ち上げた。

「まず飲もう。冷めるぞ」

二人でコーヒーを飲んだ。苦味と甘味が舌の上で混ざり合う。外では子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。放課後の時間だ。

ゆみこは突然立ち上がった。

新しい楽譜用紙を取り出すと、鉛筆を持つ手に力を込めた。

そして書き始めた──

迷わずに。

***

放送終了まであと十分。

今日もたくさんのメッセージがあった。

春休み中の子供との時間について悩む母親。

新しい職場での緊張について打ち明ける新社会人。

十年ぶりに会えた友人との再会について喜びをつづる女性。

ゆみこは一つひとつ丁寧に読み上げた。

最後にいつものようにピアノに向かった。

今日歌うのはまだ完成していない曲だと前置きして。

それでも弾き始めた。

途中で言葉につまることもあった。

でも鍵盤から生まれるメロディだけはずっと続いた。

放送終了を知らせるチャイムが鳴った時、

スタジオには不完全だけど温かい余韻だけが残っていた。

***

その夜。

局舎には二人しかいなかった。

夜間放送用の録音番組だけが自動で流れている。

廊下には薄暗い照明だけ。

ゆみこはスタジオに入ると、

ピアノに向かった。

隣には航太がいない──

でもすぐ外にあるエンジニアルームから見える位置だ。

彼女は深呼吸した。

窓ガラスには街灯りの光があちこち反射している。

夜桜のように見えるスポットもある。

春になったのだろうか?

確かに空気の中には暖かさがあるけれど、

まだ肌寒さも残っている季節だった。

そんな季節だからこそ、

歌いたくなる曲があるのだろうか?

そう思うと、

自然と指先からメロディが出てきた。

まずイントロ部分だけ弾いてみた。

次にもう少し続けて弾いてみた。

そして歌詞をつけて歌ってみた──

最初から最後まで通して歌ったのはこれで初めてだったかもしれない。

***

歌い終わった時、

スタジオの中には静寂しかなかった。

自分の呼吸音だけ聞こえるような静けさだったけど、

それは心地よいものだったかもしれないと思う瞬間があったかもしれないと思うくらいには落ち着いている自分自身にも驚きながら、

ゆみこだったかもしれないと思うくらいには落ち着いている自分自身にも驚きながら、

ドアの方を見上げたかもしれないと思うくらいには落ち着いている自分自身にも驚きながら、

実際に見上げるとそこには航太がいなかったかもしれないと思うくらいには落ち着いている自分自身にも驚きながら、

実際に見上げるとそこには航太がいなかったかもしれないと思うくらいには落ち着いている自分自身にも驚きながら、

第26章

おばあちゃんに届ける

第26章 挿絵

# 第26章 おばあちゃんに届ける

午後四時過ぎの光が、縁側のガラス戸を柔らかく照らしていた。畳の上に伸びる影は長く、ゆっくりと東へ傾いていく。部屋の中には、昼間の名残りの温もりが漂っている。煎茶の香り。干した布団の匂い。そして、どこからか漂ってくる梅の花の微かな甘さ。

ゆみこは座布団の上に正座していた。膝の前に置かれた電子キーボードの電源ケーブルが、畳の上で緩やかにうねっている。白いプラグはコンセントに差し込まれたままだったが、まだスイッチは入れていない。

「おばあちゃん」

声をかけると、向かい側に座っていたはながゆっくりと顔を上げた。花柄の割烹着の胸元で、小さな手が重なっていた。その手は、年輪のように深い皺に覆われていた。指先は少し曲がり、関節が膨らんでいる。

「今から聴かせるね」

はなはうなずいた。目尻の皺が深くなった。

窓の外で雀が鳴いた。二声、三声。遠くから子供たちの笑い声が風に乗って流れてくる。自転車のベル。日常の音が、この部屋の中まで優しく浸透してきていた。

ゆみこは深呼吸をした。胸の中を空気が満たされていく感覚。吐く息と一緒に、少しだけ緊張も抜けていった。

彼女はキーボードのスイッチを押した。

小さな電子音が鳴り、パネルのランプが淡い青色に光った。八十八鍵の鍵盤が、真珠のように並んでいる。ゆみこの指が、中央の「ド」の鍵盤に触れた。冷たいプラスチックの感触。

「まずは普通に弾くね」

そう言って、彼女は両手を鍵盤の上に置いた。

最初の和音が部屋の中に広がった。「Magic Hour」──番組のために書き上げた曲だ。ゆみこ自身が作詞作曲した初めての完成品。放送ではまだ一度もフルコーラス歌っていない。航太とスタジオで練習した夜以外では、誰にも聴かせていない。

メロディーが流れ出した。

ゆみこの指が鍵盤の上を滑るように動く。左手で刻むシンプルなアルペジオ。右手で奏でる主旋律。彼女は目を閉じた。歌詞ではなく、まずインストゥルメンタルで。

音が畳を伝わり、柱を伝わり、天井裏まで染み込んでいくような気がした。

一曲終わると、ゆみこは目を開けた。

はなは静かに座っていた。両手はまだ膝の上に置かれたまま。目は半開きで、遠くを見つめるような表情だった。

「どうだった?」

ゆみこが尋ねると、はなはゆっくりと首を振った。

「あんまり聴こえなかったよ」

声には悔しさも悲しさもなかった。ただ事実を伝えるような淡々とした調子だった。

「最近ますんじゃってねえ。耳元で話しても、ぼんやりしかわからないときがある」

はなが自分の耳を軽く叩いた。

「医者には『年相応だ』って言われるけどさあ」

窓から差し込む光の中で、ほこりが舞っていた。無数の小さな星屑のようにきらめいて落ちていく。

ゆみこはキーボードを見つめた。そして立ち上がると、はなの方へ歩み寄った。

「おばあちゃん」

彼女は祖母の前にしゃがみ込んだ。

「手を貸して」

そう言って、ゆみこのはなの右手を取り上げた。その手は軽かった。骨のように細くて軽かった。

「何するんだい?」

「こうするんだよ」

ゆみこは立ち上がりながら、祖母の手を引いた。ふたりはいす代わりの座布団から離れ、キーボードの方へ移動した。

「ここに座って」

ゆみこ自身も横に座り直すと、今度とはなの右手をもう一度取った。

そしてそっと──鍵盤の上に置いた。

白い鍵盤のはじっこに触れるようにして置いただけだった。

しかしそれだけで十分だった。

振動がある。

音がある。

音楽がある。

すべて伝わる場所があったのだから──

「もう一度弾くね」

ゆみこが言うと、

今度とはなが小さくうなずいた。

祖母のか細い指先には、

もう既に何かを感じ取っているような微かな震えがあったかもしれない。

あるいはそれは、

ただ光の中で見えた影だったのかもしれないけれど──

再びメロディーが始まった。

同じ曲。

同じ場所から。

でも今回は違う方法で届けるのだ──

低音部からの振動。

それは木製フレームを通じて、

直接的に伝わっていった──

まるで大地から湧き上がる波のような

深くて温かい振動──

次第高くなる旋律線──

高音部へ移行するにつれて

振動細くなる──

でも確かに存在している──

金属弦打たれる瞬間生まれる微細な衝撃──

演奏しながら、

ゆみこの視線はずっと祖母の方に向けられていた──

彼女が見ているのは、

鍵盤上のその小さな手だけだった──

曲中盤に入ると、

不思議ことが起きた──

最初静止していただけだったその指先がいつの間にか動き始めていたのだ──

意識的ではないだろう──

自然反射のようなものだろうか?

それとも音楽そのものが導いているのだろうか?

リズムにあわせて人差し指だけほん少し上下しているように見えた──

まるで指揮者のタクトのように軽やかに揺れているかのようだった──

そして一番盛り上がる部分へ差し掛かったとき、

突然、

もう一方手も加わった──

自分から進んで左手も鍵盤上へ滑り込ませてきたのだ!

両手とも置かれている状態になった瞬間、

何か変わった気配があった!

空気密度変わったような!

光角度変わったような!

実際には物理的変化など何一つ起きていないはずだ!

しかし確かに!

確かに何か起きていた!

最後クライマックス!

最高潮達する直前!

ふたり同時息吸い込んだ!

まるで呼吸合わせているかのように!

そして最後和音響き渡る!

余韻残しながら終わる!

沈黙訪れた!

数秒間何も起こらない時間流れた!

その間中、

ふたりとも動かなかった!

ただただキーボード上の手重ねたまま!

やっと動いたのは、

先にはなの方だった!

彼女目開けた!

涙浮かべていたわけではない!

でも確かに何か輝いているものがあった!

瞳奥深く燃える小さな炎のようなものが!

口開けた!

声出るまで数秒かかった!

「……聴こえるよ」

最初囁くような声だった!

次第強くなっていった!

「全部聴こえる!」

握り返してきた力強さ驚くほどだった!

老いた手の中にある生命力爆発するかのような握力!

「ゆみちゃん歌!」

続けて言った!

「風より強い!」

その言葉聞いて、

今度ゆみこの方涙溢れ出そうになった!

慌てて瞼押さえたけど間に合わなかった!

一粒頬伝わり落ちていった!

畳染み込んでいく前に拭き取ろうとしたけど止められなかった!

なぜ泣いているのか自分でもよくわからなかった!

嬉しいから?

悲しいから?

それともただただ感動していたから?

理由なんてどうでもよかった!

大切こと一つだけ理解できた!

伝わっていたということ!

確実届いていたということ!

二人再び沈黙包まれた!

外雀鳴き止んでいた!

子供たち笑い声も聞こえなくなっていた!

代わり聞こえてくるのは遠く通る車音だけだった!

やっと落ち着いてきたころ,

また話始めたのは,

今度とはなの方だった.

彼女目下向けて,

重なり合っている手を見つめながら,

とても静かな声で言った.

「この歌……」

一呼吸置いて,

続けた.

「おじいちゃんにも届くかしら……」

おじいちゃん.

つまり祖父のことだ.

十年以上前に亡くなっている.

写真だけでしか知らない人.

でも,

この家にはまだ彼存在感残っている.

庭植えた松.

仏壇香り.

すべて彼生きた証拠.

問いかけに対して,

すぐ答え返さなかった.

考え必要あった.

音楽とは何だろう?

歌とは何だろう?

届けるとはどういうことだろう?

結局出した答え単純明快すぎるかもしれないけど,

それ以外考えられなかった.

「届くよ」

そう断言した.

絶対的自信込めて.

「絶対届く.なぜなら……」

言葉探しながら続けた.

「おばあちゃん聴こえたんだもの.

おばあちゃん心通じたんだもの.

それなら必ず……

どこまでも届くよ.」

信じていた.

本気信じていた.

音楽境界線知らない.

時間越えられる.

空間超えられる.

生死すら飛び越えられる力持っていると信じていた.

なぜなら今,

目の前で証明されたからだ.

耳聞こえない人にも届いたのだから.

心臓止まった人にも届かないわけがない.

そう思っていた.

返事待たずにはなが立ち上がった.

少しふらついたので慌てて支えようとしたけど,

彼女自分でバランス取り直した.

そして仏壇ある部屋の方へ歩き始めた.

後ろついて行くと,

暗くなり始めた部屋の中で,

ろうそく一本灯されていた.

線香立てられた.

マッチ擦る音.

ほのか焦げ臭さ.

煙立ち昇っていく.

螺旋描きながら天井へ向かって消えていく.

そこではなが振り返った.

暗闇の中で白髪ぼんやり光っていた.

「もう一回弾いてくれる?」

頼むように言った.

「今度歌付きで.」

了解示すためにうなずいた.

再びキーボード前に戻ると,

今度マイクも用意した.

小型コンデンサーマイクだ.

普段スタジオ使っているものよりずっと簡素だけど十分役目果たせる.

準備整える間,

外空色変わっていったことを気づかなかった.

気づいたときには既にオレンジ色濃くなり始めていた時刻だった.

マジックアワー始まる直前だ.

丁度いいと思った.

この時間帯なら尚更力増すはずだと信じていたから.

深呼吸して,

マイクに向かって口開けた.

最初言葉ではなくハミングから始めた.

低め調子でのハミングだ.

次第歌詞乗せていった:

“夕焼け染まる窓辺で”

“思い出すあなたのこと”

“今日一日頑張れた”

“明日も笑おう”

一曲通して歌い切る間中,

仏壇前ではなが目閉じて立っていたまま動かなかった.

終わっても暫くその姿勢保っていた.

やっと目開けたときには既に外真っ暗になっていたことに二人とも気づかなかったくらい時間経過忘れていたほど集中していたのだろうと思う後になってからだが……

結局その日それ以上何話すこともなく別れたわけだが……

帰り道歩いているときにふと思いついてスマホ取り出してみたらちょうど航太からのメッセージ届いていた:

『今日放送録音送っとく?』

返信打ちながら考えていた:

本当必要なのか?

録音なんて……

結局こう返した:

『大丈夫.直接聴いてもらえたから.』

送信ボタン押すと同時に空見上げたら星幾つか瞬き始めているのが見えた.

第27章

集まる声

第27章 挿絵

# 第27章 集まる声

午後四時半。スタジオの窓から差し込む光が、ミキサー卓のツマミを金色に染めていた。春の陽射しは柔らかく、机の上のコーヒーカップに揺れる光の輪。外では湘南の海風が新緑を揺らす音が、換気口から微かに聞こえてくる。

ゆみこはブースの中でピアノの前に座り、明日の放送で流す曲の練習をしていた。指が鍵盤を撫でる。メロディはまだ言葉を持たないインストゥルメンタル。春の訪れを告げるような、上昇する音階。

「そろそろだね」

ドアが開き、航太が入ってきた。Tシャツの袖を肘までまくり上げ、片手に書類を持っている。日焼けした腕に、去年の夏の名残のような色が残っていた。

「これ、局長から」

書類を譜面台の横に置く。A4用紙、春らしい淡いブルーの紙面。上部に大きく「Wave 78.2 春のスペシャルライブ」と印刷されている。

ゆみこは手を止めた。

「来月の…」

「うん。告知は明日の放送から始めるって」

航太はミキサー卓の方へ歩きながら言った。背中越しに声が届く。

「会場は鎌倉芸術館の小ホール。三百人くらい入るところ。無料招待制で、リスナーから抽選」

ゆみこは書類を手に取った。紙の感触。少し厚手で、いい紙だった。自分の名前が印刷されている。「篠原ゆみこ with Wave Band」とある。バンドメンバーの名前も並んでいる。ギター、ベース、ドラム。知っている名前ばかりだった。

胸の奥で何かが揺れた。

窓から見える空は水色に近い青。まだマジックアワーには早い時間帯だ。雲一つない空が、やがてオレンジに変わるまでの静かな準備時間。

「緊張する?」

航太が振り返った。サングラスを頭に乗せたまま、ゆみこの顔を見ている。

「…うん」

素直に頷いた。

「でも」

言葉を探すように鍵盤を見つめた。

「歌いたいとも思う」

翌日の放送。

十七時ちょうど。「Magic Hour」のオープニングジングルが流れる。ゆみこがマイクに向かって息を吸った。

「こんばんは、Wave 78.2です。今日もおつかれさま」

声はいつもより少し高めだったかもしれない。緊張が混じっていることを自分でもわかっていた。

「今日は特別なお知らせがあります」

目線を下げて書類を見る。印刷された文字が少し震えて見えた。

「来月十五日…土曜日の夕方です。鎌倉芸術館で小さなライブをさせていただくことになりました」

一呼吸置く。

窓の外を見る。夕焼けが始まっていた水平線近くが薄いピンクに染まり始めている時間帯だ。

「タイトルは…『Magic Hour Live 〜きっと思ったよりも素敵な日になる〜』です」

自分の番組名を口にするのが少し照れくさかった。

「リスナーの皆さんをご招待する形になりますので…詳細は番組終了後、局のウェブサイトでご確認ください」

もう一度息を吸う。

「もしよかったら…聴きに来てください」

最後の言葉は自然と小さくなった。

すぐに最初の曲を流した。「明日も笑おう」――番組の中で一番多くリクエストされる曲だ。ピアノイントロがスタジオの中を満たす間、ゆみこは目を閉じた。

心臓の音が大きすぎる。

白石千鶴の車は江ノ島電鉄沿いの道で動かなくなっていた。

金曜日の夕方のことだから仕方ない。

前方には赤いテールランプの列。

エンジンを切り、

窓を少し開けた。

潮風と排気ガスが混ざった匂い。

ラジオからゆみこの声が流れてくる。

ライブのお知らせだった。

千鶴はハンドルから手を離し、

ダッシュボードの上で軽く拳を作った。

隣の席にはスーパーの袋。

中には美羽が好きなカレーの材料、

それとデザート用のみかん。

家に着くのはまだしばらく先だ。

美羽は学童保育で待っている。

『もしよかったら…聴きに来てください』

ゆみこの声をもう一度思い出す。

あのかすれたような、

それでいて確かな響きを持つ声。

千鶴はスマホを取り出した。

まだ車列は動かない。

画面をタップしてメール作成画面を開く。

宛先はWave 78.2、

件名欄に「ライブ抽選応募」と打ち込む。

本文にはラジオネームだけ記入すればいいのだろうか。

指が止まった。

ふと、

美羽との会話を思い出した。

先週末のことだ。

『ママ、

学校でね、

お友達のお姉さんが歌の人なんだって』

『へえ』

『ライブに行ったんだって!

すごく楽しかったって!』

美羽の目が輝いていたことを思い出す。

千鶴は本文欄に入力し始めた。

ラジオネーム:夕暮れてんとう虫

本文:娘(7歳)と一緒に行きたいです

送信ボタンを押すとき、

なぜか胸があたたかくなっていた。

前方の車列が少し動き出した。

テールランプが赤い光の川を作る。

千鶴はエンジンをかけ、

そっとアクセルを踏んだ。

翔太の部屋には午後の光が差し込んでいた。

カーテンの隙間から入ってくる細い光線の中、

塵が見えたり見えなかったりする時間帯だ。

彼はベッドに横になり、

イヤフォンから流れる音声を聴いていた。

昨日録音した「Magic Hour」だ。

ゆみこの声:

土曜日の夕方です』

翔太は目をつぶった。

耳の中だけにある世界では、

ゆみこの声だけがある。

『もしよかったら…

聴きに来てください』

再生ボタンを押して同じ部分をもう一度聴く。

もう一度聴く。

三度目になったとき、

部屋のドアが開いた音がした。

母だろうか?

足音もなくまた閉じられる気配があったのだろうか?

翔太はイヤフォンを外し、

耳を澄ませた。

何も聞こえないけれど…

ドアノブが見える位置にあるはずだのに…

ふと気づいて起き上がるべッドから降りる足元には何か白いものが落ちていた封筒だ表には何も書かれていない中身を取り出す一枚のはチケット予約申込書だった下部には母と思われる字で記入欄がある名前住所電話番号そして備考欄そこには既に文字があった行きたい場所があれば教えてね翔太はその紙切れを見つめた長い間ただ見つめていた部屋の中に入り込んでくる午後の光の中で紙面がほのかに輝いているように見えた彼はペンを取りに行った机の中から使い慣れたボールペン引き出しの中で転がっていたそれを握りしめて戻ると床に座り込み封筒を膝にして書き始めたまず名前次に行きたい場所備考欄には二文字だけ書いたライブ

翌週月曜日の放送終了後、

スタジオでは珍しく二人きりの時間があった航太がいつの間にかコーヒーを持ってきていてゆみこの前にそっと置いた湯気がゆっくりと立ち上る

「反響すごいよ」

航太がいったミキサー卓の方を見ながら

「応募メールもう五百通超えてる局長さん大喜びだって」

ゆみこはコーヒーカップを持つ手元を見つめた湯気の中に見える自分の指輪指には何もないのにふとそんなことを考えてしまう

「嬉しいけど…」

言葉が出てこなかった

航太はいつの間にか隣に立っていた窓越しに見える夕焼け空今晩のは紫色が多い茜色と紫の中間のような不思議な色合いだった

彼がいった声低く温かい

「いつもと同じだよ」

振り返ると航太が見つめている目つき真っ直ぐすぎて少し眩しかった

「マイクに向かって話すいつもの放送と同じただ今回はマイク向こう側の人たちが見えるだけ」

ゆみこ息吸う深く吸うコーヒーの香り胸に入っていく

「そうかな」

航太笑顔になった普段より柔らかい表情だった

「そうだよ君ならできる」

君ならできるその言葉なぜか祖母のはながよく使っていた言葉だと気づいた子供時代ピアノ練習で挫けそうになったときいつも祖母がいった言葉だった

その夜ゆみこ実家へ帰った玄関開けるとすぐにお味噌汁香り鼻をついた懐かしい匂いはなが台所立っている背中丸くなっているのに動き活発だ

「ばあちゃん」

呼びかけとはなが振り返る顔ほころんでいる

「あらゆみこちゃん今日どうした?」

夕飯一緒食べようと思って持参したのはスーパー惣菜二品それとはなが好きな苺大粒パックテーブル広げて二人並んで座るとテレビ消してあることに気づく普段ならばニュース見ている時間帯だ

「今日放送聴いてた?」

尋ねると即答返ってきた

「もちろん毎日欠かさず!」

誇らしげな顔そこには確かな喜びあった

そして続ける言葉速くなる興奮混じりながら

「ライブ話聞いたわよ!絶対行く!一番前席取ってね!私一番古参リスナーだから権利あるんだから!」

主張しながら目尻皺深くなる笑顔それはもう完全子供のような無邪気さ含んでいたゆみこ思わず笑う噴出すように笑うそれではなも笑いはじめ二人笑い転げる台所明かり下で食卓揺れるほど笑うやっと落ち着いて呼吸整えるときふとはなが言った真剣な口調急変して

「おじいちゃんにも聴かせたいね」

沈黙一瞬だけ流れる冷蔵庫モーター音遠く通る車音それからまた続ける祖母声震えていない確かなものだった

「でも大丈夫私しっかり聴いて帰って話してあげるから」

そのとき窓外暗闇の中何か光るものが見えた星かもしれない街灯反射かもしれないしかし確かに一瞬煌めいた光であった

一週間後応募締切前日放送終了時刻近づいている十八時五分過ぎ最後曲流れている時間帯だったスタジオ内薄暗くなり始める照明落としてあるため夕焼け残光だけ頼り空間ぼんやり浮かび上がるその中でゆみこメッセージ読み上げていた今日最後一通選んだそれは短かった一文だけ文章だが読む前から胸熱くなる予感あった深呼吸してマイク近づける声出してみる最初言葉詰まる喉奥硬くなるそれでも続ける力湧いてくる不思議な感覚だった文章読む:

『行きます必ず行きますあなた歌声待っています』差出人欄記載なしただそれだけ文章だった読み終わり曲フェードアウトするタイミング完璧すぎて偶然ではないだろう航太調整だろう彼ならそうする最後オープニングジングル逆再生バージョン流れ始めるその中で締め言葉いつもより短め選んだ:

『ありがとう明日もお会いしましょう』放送終了サイン点滅消えるスタジオ完全闇包まれる一瞬だけ沈黙その後照明つくパッ明るくなる世界戻ってくる航太立っているドア際手ミキサー卓置いてあるコントロールルーム側立っている彼微笑んでいる親指立てている無言合図それだけで十分伝わるものあったゆみこ頷く何度頷く自分でもわからないほど何度もそして立ち上がりピアノ蓋閉める鍵盤隠れる黒光り表面そこ映る自分顔見える少し泣きそう顔している笑顔同時形成されている矛盾表情それでも全部ひっくるめて今自分だと認めることできた窓外完全闇だが水平線近くほのか明かりそれはもう街灯かもしれない星かもしれないしかし確かに光存在している集まる声一つ一つ違う波長違う温度違う距離でも同じ方向向いていることだけ確かなのだ明日またここ立つそのとき今日より少し強くなっていられるような気していた

第28章

海辺のステージ

第28章 挿絵

# 第28章 海辺のステージ

潮の匂いが風に乗ってくる。遠くで波が砕ける音、低く続くざわめき。砂浜に面した広場の芝生は、夕方の光を吸い込んで柔らかな緑に輝いていた。ステージは白い木製。シンプルなピアノとマイクスタンドが一つ。その周りに、折りたたみ椅子や敷物、立ち見の人々の影が広がっている。

200人ほどだろうか。

ゆみこはステージ袖で息を吸った。手のひらがじっとりと湿っている。ブラウスの裾を軽く引っ張る。今日は普段の放送とは違う。白いワンピースにスニーカー。右手首のミサンガが少し緩んでいるので結び直す。

横から声がした。航太がミキサー卓のそばに立っていた。カーゴパンツのポケットに手を突っ込み、少し首をかしげている。

「音、ちゃんと届けるから」

ゆみこはうなずいた。喉が乾いていることに気づき、小さなペットボトルの水を一口飲む。冷たい水が食道を通り抜ける。

客席を見渡す。

最前列には祖母のはなが座っている。花柄のカーディガンを羽織り、背筋をぴんと伸ばしている。隣には空席がある——ゆみこの両親は仕事で来られないと言っていたが、はなが「二人分聴いてあげる」と笑っていた。

少し離れた場所で、白石千鶴が娘の美羽と並んで座っている。千鶴はスーツ姿ではなく、淡いベージュのカーディガンにデニムパンツという普段着だ。美羽は黄色いワンピースを着て、母親の膝の上でそわそわしている。千鶴がそっと娘の肩に手を置く。

そして後方の立ち見エリア。

フードを下ろした少年が一人、ポケットに手を突っ込んで立っている。翔太だ。前髪で目は隠れているけれど、顔はしっかりステージに向いている。彼の隣には優しそうな笑顔の女性——お母さんだろうか——がそっと肩に触れている。

ゆみこの胸が熱くなった。

ここにいる人たち全員が、あの小さなラジオブースから届いた声を聴いてくれた人たちだ。車の中で、台所で、病室で、暗い部屋で。「明日も笑おう」という言葉を受け取ってくれた人たち。

ステージ上の小さな時計が17時55分を示している。

ちょうどマジックアワーだ。

西の空はまだ明るい青を残しながらも、地平線近くからオレンジ色が滲み始めていた。雲がないので、色のグラデーションが滑らかに広がっている。海面にはそのオレンジ色の道筋が一本、まっすぐ伸びているように見える。

ゆみこはステージ中央へ歩き出した。

足元のスニーカーが芝生を踏む音だけが聞こえる。それから拍手が湧き起こった。温かい拍手だ。激しくないけれど途切れない拍手。

マイクスタンドの前に立つ。

目の前に広がる人々の顔が見える。知らない顔も多いけれど、どこか懐かしい表情ばかりだ。

「こんばんは」

声が出た。少し震えているかもしれない。

「今日は…ここまで来てくださってありがとうございます」

また拍手が起こる。

「私は毎日17時から18時まで、Wave 78.2で『Magic Hour』という番組をやっています」

風が吹き抜ける。ゆみこの髪が揺れる。

「車の中で聴いてくださる方もいるし、夕飯を作りながらの方もいるし…夜中に録音を聴いてくれる子もいます」

翔太の方を見たわけではないけれど、彼の方角へそっと目線を向けた。

「今日ここに集まってくれたのは…私にとって奇跡のようなことです」

声があふれてきたので一度止める。

深呼吸する。

潮風の中に桜の香りが混じっていることに気づく。近くに桜並木があるのだろうか。

「いつもラジオではリスナーの皆さんからのメッセージを読ませてもらっていますね」

客席から小さな笑い声があちこちで漏れる。「夕暮れてんとう虫」というラジオネームを知っている人も多いはずだ。

「今日は逆です」

ゆみこはピアノの方へ歩いた。

椅子に腰掛けるとスニーカーの裏側が見える位置になるので少し足を引いた。

「私から皆さんへ…歌をお届けします」

ピアノ蓋を開ける音だけ響く静寂があった。

鍵盤を見下ろす。

白鍵と黒鍵。

祖母のはなが教えてくれた最初の和音——Cメジャー——指先でそっと触れるだけで響き始める場所がある。

そこへ指を持っていく。

もう一度息を吸う。

吐く時に一緒に指先に力を込める——

その瞬間だった。

西からの光線がちょうどステージ全体を包んだ。

夕陽が建物や木々の隙間を通り抜けてきたのだ。

オレンジ色の中にもう少し赤みを含んだ光。

それはピアノ鍵盤をも染め上げた。

ゆみこの手首につけたミサンガも輝いているように見えた。

そして客席の人々一人ひとりの顔にも同じ光があふれた。

千鶴と美羽親子。

翔太とお母さん。

最前列のはな——祖母は目尻に深い皺を作って微笑んでいる。

航太——彼はミキサー卓からこちらを見上げて軽くうなずいた。

すべてがあたたかいオレンジ色の中にある時間だった。

指先から最初の和音が出たとき

それはラジオブースでのそれよりも深く響いた

空気中で振動する弦楽器のような響き

海風によって運ばれてくる波音と混ざり合う

口があいた

自然に出てきた息

そこへ言葉をつけた

「明日につながる あなたにつながる」

声が出た

いつもの放送よりも少し低めだけれど芯がある声

「ほらきこえるよ 同じ時の中——」

二小節目に入ると客席から小さなため息のようなものが聞こえたかもしれない

誰かがああと思ったかもしれない

左手で刻むリズム

右手で奏でるメロディーライン

それはまるで夕焼け雲のように広がっていった

歌詞二番に入るとき

ふと目線があげられた

空を見上げたわけではないけれど意識的に視界に入れた

西空はいまや完全なるマジックアワーの色彩になっていた

青から紫へのグラデーションの中間に燃えるような赤橙色

それが水平線近くでは金色にも見える

「やさしくできなかったり怒ってみたり」

このフレーズでは千鶴の方へ自然と目線がいった

彼女は美羽をもっとぎゅっと抱きしめていたかもしれない

「それでもいいんだよ また明日がある」

翔太の方角へ向けた言葉だったかもしれないし自分自身への言葉でもあった

三番に入るとき風向き変わったのか潮騒がいっそう大きく聞こえてきた

波打ち際まで押し寄せて引いていく繰り返し音

それが伴奏になった

最後サビに向かう前ほん一瞬沈黙があった

ただ指先だけ動かしてアルペジオ続けるその一呼吸間隙の中

そして一番高いところへ持っていくところだったとき

客席から歌声があふれた

最初一人だったかもしれない二人だったかもしれないそれが次第次第広まっていったのだろうか実際どうだったのか後になって思い出せなかったけれどともあれ気づいたときには多くの人が口ずさんでいたのだ

「明日につながる あなたにつながる」

それは合唱ではなかったそれぞれ自分のペース自分のキー自分の感情込めて歌っていただけだろうけどそれでも確かに一つの流れになっていた

ゆみこの指先震えたかもしれない涙目頭熱くなったかもしれないでも歌止められなかったなぜならこれこそまさしくあの人たち自身歌っていたのだから

最後和音消えていくとき拍手起きたわけではないまだ余韻残っている時間だったただ静寂があった風音波音遠く車走る音それだけだったけどその静寂の中にあふれる何かがあった言葉にならない承認のようなもの感謝のようなもの共有された時間のようなもの

ゆみこ立ち上がったマイクスタンド前に戻るとき足元少しふらついた航太心配そうに見ていたけど大丈夫だと小さく首振った

客席を見渡す皆顔輝いている特に子供たち美羽嬉しそうにはしゃいでいる翔太…彼フード完全下ろしていたけど顔上げてこちら見ていた目合った瞬間すぐ下向いたけど確かに一瞬見つめ返してきた

そして最前列のはな祖母両手合わせて胸当てているまる祈っているようだった口元動いている何言っているのかわからない距離だけど多分「よくやった」とかそんな言葉だろうと思われた

次の曲始める前に一言言おうとしたけど言葉出なかった代わり深々一礼した腰曲げるとまた拍手湧き起こった今度大きかった長かった立ち上がってもまだ続いている拍手中誰か叫んだ声聞こえたかもしれなかったけど何言ってたのかわからなかったただ温かい気持ちだけ残った

二曲目始めたとき空色変わっていた紫優勢になってきた水平線近くだけ燃えるような赤残しているそんな中ピアノ再び鳴り響いた今度アップテンポ曲リスナー知ってる人多いようだった前奏始まるとあちこち手拍子始まったリズム取って体揺らす人たち現れた

三曲目終わったとき時計18時10分過ぎていた本来マジックアワー終わる時間だけどまだ薄明残っていた東空もう暗くなり始めていた星一つ二つ瞬き始めているのが見えた

ライブ終了後人々徐々解散していくなか何人かステージ側へ近づいてくる人がいた握手求める人サイン求める人写真撮ってもいいですか聞いてくる人ゆみこすべて応えた笑顔絶やさずできる限り一人ひとり目見て挨拶した

その中白石千鶴美羽連れてやってきた美羽黄色ワンピース裾握りしめて母親後ろ半分隠れるようにしている千鶴少し困ったような笑顔浮かべて

「すみません娘どうしても直接お礼言いたいって…」

「いいえ全然!」

ゆみこ腰屈めて美羽と同じ高さになる

「こんばんは美羽ちゃん」

美羽恥ずかしそうにもじもじするけど頑張って顔上げた丸い瞳真っ直ぐゆみこ見つめて

「…歌きれいでした」

小声だけれどしっかり言えた言葉だ

千鶴娘頭撫でながら

「私も…いつもありがとうございます車中聴いてます仕事帰りの渋滞あんな癒される時間他になくて」

彼女目元少し赤くなっている涙拭った跡かもしれない

「こちらこそメッセージいつもありがとうございます『夕暮れてんとう虫』さん」

千鶴驚いた表情一瞬浮かべたけどすぐ柔らかな笑顔になった

次翔太お母さんやってきた翔まだフード下ろしているけどお母さん優しく背中押すようにして連れてくるお母さんまず頭下げた

「いつも番組聴かせていただいてます息者本当にお世話になってます」

翔太小声何かつぶやいたようだが聞き取れなかったゆみこ近づいて耳傾けると彼もう一度言った

「…ライブ来れてよかったです」

それだけ言ってまた下向いたけど確かに言葉だったお母さん嬉しそう息子肩抱きながら感謝言葉重ねていった

最後残っていたのは祖母とはなだけであった航太機材片付け始めているスタッフ数名残っている程度客席ほとんど空になった芝生上敷物跡いくつか残っているくらい暗くなって街灯点灯始めたころであった

ゆみことはなが二人ステージ端座って海眺めていた波打ち際白波光反射させながら寄せて引いている遠方江島灯台点滅する光見える水平線もう完全闇溶け込んでいる空上部濃紺星増えてきた

はなが突然口開いた

「おばあちゃんね若い頃歌手目指してたんだよ」

知っている話だけど今聞くと違う響きがあるゆみこ黙って聞いているとはな続けた

「でもダメだった舞台怖くなっちゃって声出なくなっちゃって」

風少し強くなってきた潮香強くなるはな白髪揺れるまま話す止まらないかのようだった

「だから今日見てて思ったよゆみちゃん本当強いねあんなたくさんの人の前であんな素敵歌えて」

ゆみこと返事できない喉詰まった感じがあった代わり祖母手取るとそれは温かかった皺多くても柔らかい手だった

その時背後物音して振り返ると航太立っていた彼バックパック一つ肩掛けてもう帰支度できている様子だしかし何言おうとして躊躇している表情浮かべている結局短い言葉選んだ

「送ろうか?」

ゆみことうなずくと彼安心したような微笑浮かべた

三人並んで駐車場向けて歩き出す途中街灯下通り過ぎるときふと空見上げたら満天星空広がっていた都会近郊にして珍しいくらい星多い日かもしれない天頂付近春大三角ぼんやり光っていた

駐車場着くとまずはな車乗せる運転代行サービス呼んであった孫娘心配そうに見送られるのが嫌だと自分主張して早々帰ること決めていたのだ車窓越しくり返される姿見えなくなるまでゆみこと手振り続けた

残された二人静寂の中立っていた航太軽咳払いして言った

「今日本当良かったよ特に最後合唱部分あれ予想外だったよね?」

彼興奮隠せない様子だ普段冷静沈着エンジニア姿想像できないくらい生き生きしている話しながら手足大きく動かす仕草交えている

突然思い出したようにバックパック開けて何取り出す小さ箱差出された包装紙簡素だが丁寧包まれている開けて中見るとUSBメモリ入っていた側面細字書かれている『2024.3.21 Magic Hour Live 完全版』どういう意味だろう疑問表情浮かべると航太説明始めた録音全部収めてある今日ライブ自分特別機材持込して録音したんだ放送用じゃなく君のためにね君自身聴いてほしいどんな素敵歌声出せたのか自分耳確実確実届けてほしいそう言われて箱受け取ると重さ感じなかったはずなのに掌熱くなっていくような感覚あった

家方向歩き出す道沿いに桜並木あった夜桜ライトアップされていて薄桃色花びら浮遊するように光浴びていた通り過ぎると花弁幾枚肩落ちてくるそれ払わずそのまま歩いた航太右隣一定距離保ちながら並行歩いている沈黙長引かない程度適当話題提供してくれる優しい間合い取り方だ

家門前着くと彼立ち止まりもういいよと言わんばかり軽会釈するところであったしかしその瞬間なぜだかわからないままゆみこと声出た待ってくださいと言葉続かないまま固まった航太訝しげ首傾げ待っている数秒経過するとようやく続けられた今日ありとなぜ伝えたいのか自分でもよくわからないのに自然溢れてくる感謝言葉列挙していきました準備段階支えてくれこと本番最高音響提供くれこと普段放送毎日支えてくれこと全部全部ありとな伝え終わる頃には涙頬伝わり始めていた慌てて袖拭うと航太困ったような優しい表情浮かべてハンカチ差出された男物大きめ無地紺色それ受け取り鼻すすりながら謝ると彼ため息混じ笑い漏らして君変わらないね昔泣虫だったよね小学校時転んですぐ泣いてた覚えある?そんな昔話突然持ち出されて驚くと同時になぜそんな細かい事覚えてるのか不思議思いつつハンカチ返そうとしたらいいよ持っといて次泣いた時使えばと言われ結局ポケットしまうことにした

玄関ドア開ける直前振り返るとまだそこ立っていた街灯逆光であまり表情読めなかったけど確かに微笑んでいるのがわかった軽手振り返すと彼も同じ仕草返してくるドア閉める音室内暗闇温かい匂いはなん料理残香だろう冷蔵庫低いうなり声部屋中響いているリビング窓開けっぱなしだったのかカーテン揺れている外夜空星瞬いているのが見えるソファ倒れ込むように座ると全身疲労一気押寄せてきた筋肉痛予感すらあるしかし心軽かった胸奥暖かいものが循環している感じがあったポケット漁ると先程USBメモリ取り出す掌載せて眺める小さ物体今日一日凝縮されていると思うだけでまた涙出そうになった深呼吸一度大きくすると窓辺立つ外眺めた町明かり海方向暗闇区別つかないくらい一体化している遠雷鳴るような気配ある明日雨降るかもしれないそれでも大丈夫と思えたなぜなら今日集まったあの人たちそれぞれ明日迎えるだろうその想像だけで十分幸せ感じられた

第29章

響いてく

第29章 挿絵

# 第29章 響いてく

最後の音が消えた。

ピアノのペダルから足を離す。鍵盤の上に置いた手のひらが、まだ微かに震えている。目を閉じる。耳の中に、自分の鼓動が響く。海風が頬を撫でる。潮の香り。遠くで波が砕ける音。

静寂。

一瞬、世界が止まったような時間。

そして拍手が始まった。

最初はひとつ、ふたつ。パラパラと雨粒のように。それが波のように広がり、増幅し、200人の拍手がひとつの音になった。風に乗って、夕焼け空に昇っていくような拍手。手と手が触れ合う乾いた音、歓声、口笛。すべてが混ざり合って、海辺に立つ白いテントを包み込んだ。

ゆみこはゆっくりと立ち上がった。

客席が見える。暗くなり始めた空の下、人々の顔がオレンジ色の照明に浮かび上がっている。立っている人もいる。手を高く上げて拍手している人もいる。誰かがハンカチで目元を押さえている。

ステージの袖から祖母のはなが見えた。最前列の椅子に座り、両手を合わせて目を閉じている。口元が緩んで、深い皺が優しい弧を描いている。白髪が風に揺れる。

客席の中央あたり。

白石千鶴が立っていた。スーツの上着は脱いで腕にかけている。白いブラウスの肩が震えている。彼女は顔を上げたまま拍手を続けていたが、頬を伝うものが光った。一粒、また一粒。涙が顎から落ちてシャツの襟に染みた。

隣で美羽が母親の片手を両手で握っていた。7歳の小さな手で、38歳の大きな手を包み込むように。美羽は千鶴を見上げて何か言った。声は拍手にかき消されたが、口形だけが見えた。「ママ」。千鶴はうなずいた。泣きながら笑った。

右端の方。

翔太が立っていた。前髪が風で揺れて目が見える瞬間があった。彼はまっすぐステージを見つめていた。拍手のリズムに合わせて手を打っている。隣に立つ女性——母親だろう——と目が合った。翔太は少しだけ口角を持ち上げた。照れくさそうな、でも確かな笑顔だった。

拍手はやまない。

5分経っても10分経っても。

まるでこの音で今日という日を刻印しているようだった。

ゆみこはマイクに向かって一歩進んだ。

足元のスニーカーが木製ステージで軋む。

「ありがとうございます」

声が出た。

かすれていた。

もう一度深呼吸して言った。

「本当に……ありがとう」

拍手は少しずつ収まっていった。

人々が席に戻っていく音。

椅子のきしむ音。

ため息のような吐息。

「今日は……私にとって忘れられない日になりました」

ゆみこは客席を見渡した。

「ここに来てくださった方々も、来られなかったけど心の中で一緒にいてくださった方々も……すべてのみなさんのおかげです」

海から吹いてくる風が強くなった。

テントの布地がバタバタと音を立てる。

照明スタッフがあわてて固定ロープを締め直す音。

「私はね」ゆみこは言った。「ラジオを通してしかお会いできないと思っていました」

指先でマイクスタンドをつまむ。

冷たい金属の感触。

「でも今日……こんなにもたくさんの笑顔を見ることができて……声をお返しすることができて……」

言葉が出てこない。

喉の奥が熱くなる。

目頭があつくなる。

客席から声があがった。

「ゆみこさん!」

「ありがとう!」

「明日も聴きます!」

それらすべてを受け止めるように、

ゆみこは深々と頭を下げた。

前髪が額から滑り落ちる。

木製ステージに見える木目の模様。

一粒の涙が落ちて、その模様を少しだけ暗く染めた。

立ち上がるとき、

客席のみんなも立ち上がっていた。

もう一度拍手が始まった。

今回は短く温かいものだった。

ステージ袖ではなが待っていた。

小さな体でゆみこに駆け寄り、

両腕を広げた。

「よくやったよ」

耳元で囁く声。

白髪から漂う柔軟剤のかすかな匂い。

「ばあちゃん……」

「お前の歌……おばあちゃんの若い頃よりずっと素敵だった」

はなの背中を抱きしめる。

小さな肩甲骨の感触。

震えているのがわかった。

「ばあちゃん泣いてる?」

「泣いてないよ」

嘘だっけ本当だっけ、

声には確かに涙を含んだ艶があった。

スタッフたちがあわただしく動き始めた。

機材搬出のためにケーブル類を巻き始める音、

台車の車輪が砂利を軋ませる音、

無線機からの指示声。

客席では人々がいっせいに動き出した。

椅子をたたむ音、

名残惜しそうにおしゃべりする声、

子供たちのはしゃぐ声、

スマートフォンのカメラシャッター音、

ゆみこはステージから降りた。

砂利道を通って客席へ向かう途中、

何人もの人たちに声をかけられた。

「毎日聴いてます」

「娘と一緒です」

「仕事帰りの楽しみでした」

それぞれ短い言葉だったけど、

どの目にも確かな光があった。

白石千鶴と美羽に出会ったのは

テント出口近くだった。

千鶴はもう涙を拭いていたけど、

目尻はまだ赤かった。

「素晴らしかったです」

低く澄んだ声だった。

「白石さん……来てくださってありがとうございます」

ゆみこは思わずまた頭を下げそうになったけど、

千鶴に止められた。

「こちらこそ感謝しています」千鶴は言った。「あの……車の中で聴いているときとは違う感動でした」

美羽が母親のスカートの裾をつまんだ。「ママ、また泣いてる」

「泣いてないよ」千鶴は娘の頭を撫でた。「ただ……嬉しくて」

美羽はゆみこを見上げた。「ゆみこさんのお歌、学校でも歌いたいな」

「いいよ」ゆみこはしゃがんんで美羽と同じ高さになった。「どんなふうに歌う?」

美羽は少し考えて、「優しい感じで」と言った。「ママのお迎え待ってるときとか」

千鶴の息遣いがあつくなったのがわかった。

そのとき後ろから呼びかける声があった。「すみません……」

振り返ると翔太と母親らしい女性が立っていた。

翔太は相変わらず前髪で目を隠していたけど、

緊張して拳を握りしめているのが見えた。

「翔太君……」ゆみこは立ち上がった。「来てくれたんだね」

翔太はうなずいただけだったけど、

母親代わりに女性があいさつした。「いつも番組聴かせていただいてます」

細面で優しい顔立ちだった。「翔太も夜中によく聴いてまして……」

「お母さん」翔太があわてて遮った。「もういいって」

母親は微笑んだ。「今日初めて外に出たいって言ってくれて……本当にありがとうございます」

翔太はずっと下を見ていたけど、

ふいに顔を上げた。「あの……歌詞覚えてます」

声は小さかったけど確かに聞こえた。「『明日も笑おう』ってところ」

ゆみこの胸があつくなった。「そうだね……明日も笑おう」

翔太のかすかな笑顔が見えたかもしれなかったと思う瞬間、

彼はまた下を見たままうなずいた。

PAブースの方へ歩いていくと、

機材搬出作業中のスタッフたちから

軽く会釈されたり肩叩かれたりした。

ブースの中には航太ひとりだった。

ミキサー卓に向かって座り込んでいる背中が見える。

ヘッドフォンを首にかけている片耳だけ外して

何かを確認しているようだった。

ドアノブをつかむ金属音

ドア開閉時の軽い風切り音

ブース内に入るとエアコンの冷気

航太は振り返らなかったけど

肩越しに見える首筋にかすかな汗

Tシャツ背中の部分だけ少し濃い色になっている

ミキサーのモニターには波形表示

緑色の発光ダイオード列

赤いピークメーター

航太はずっとモニターを見つめていた

右手親指と人差し指で顎をつまんでいる

ふいに彼の方へ視線移すと

モニター画面反射した光の中

航太頬伝うものが光っているのに気づいた

一滴

また一滴

彼泣いている

気づかれないようにそっとドア閉めて戻ろうとしたとき

航太振り返った

目尻赤い 鼻先少し赤らんでいる でも笑っている

「最高だったよ」彼言った 声少し詰まりぎみ 「録音完璧だ 絶対後悔させないから」

ゆみことんより深く息吸い込んだ

胸一杯になる空気 エアコン冷たい匂い ケーブル被覆プラスチック臭

歩み寄る ミキサー卓横立つ 航太椅子回して向き合う

二人間沈黙流れる ブース外搬出作業騒音遠くなる

航太古ぼけたデスク上置いたUSBメモリ取る 黒小指先サイズもの シール貼ってある 「Magic Hour Live」文字ペン書き込みある

渡される USBメモリ温かい 彼握っていた証拠

開かない口動かす 「ありとな……」

言葉続かない 喉奥熱くなる 視界ぼやける

航太古びたハンカチ差出す 紺色洗濯繰り返し褪せたもの 「ほら」それだけ言う

受け取る 布地柔らかい感触 古びた柔軟剤香りする

顔覆う 涙止まらない なぜ泣いているのか自分でもわからない 嬉しいのか悲しいのか感動なのか全部混ざっている

ブース外スタッフ呼ぶ声聞こえる 「海野さん!このケーブルどうします?」

航太立ち上がる 「すぐ行く!」返事して振り返る 「大丈夫?」小声で聞く

ハンカチ顔押さえたまま頷く 「大丈夫」鼻詰まった声出る 「全然大丈夫」

航太小さく笑う 「じゃあな」それだけ言ってブース出ていく

一人残される

ミキサー卓発する微かな熱気感じる

ヘッドフォン片方耳当てるとホワイトノイズ低鳴る

モニター波形表示まだ動いている録音中表示点滅している

USBメモリ握りしめる

プラスチック硬質感覚指先伝わる

今日一日すべてこの中にあると思うと不思議な気持ちになる

ブース窓外見渡す

テント解体始まっている骨組み現れる夜空背景シルエット浮かぶ

人影少なくなる車ヘッドライト列道路流れていく

そろそろ帰ろうと思うとき携帯鳴る祖母からの着信画面表示される

電話取る 「ばあちゃん?」

向こう側波音聞こえるどうやらまだ会場近くいるようだ 「帰る?一緒帰ろうか?」

首振るのに向こう見えないので言葉にする 「もう少しここいるから先帰ってていいよ」

沈黙一瞬流れる 「わかった」祖母声優しい 「鍵閉めて寝るから遅くなっても大丈夫よ」

切ろうとしたとき祖母また何か言う 「今日本当によかったね」それだけ

第30章

きっと思ったよりも素敵な日になる

第30章 挿絵

# 第30章 きっと思ったよりも素敵な日になる

午後四時五十五分。スタジオの空気は冷たく澄んでいた。

窓ガラス越しに、水平線が金色に縁取られる。まだ薄いオレンジ。その下、海は鉛色のまま動かない。机の上のマイクは黒い瞳のように静かにこちらを見つめている。ゆみこは右手首のミサンガをそっと触った。糸のほつれが指先に引っかかる感触。

ブースの向こう、ミキサー卓の前に航太が座る。カーゴパンツの膝に手を載せ、こっちを見上げている。距離があるから表情はわからない。でも、うなずいた。小さく。

「あと一分」

航太の声がヘッドフォンから流れる。いつもより低い。昨日のライブで少し声を張りすぎたのかもしれない。

ゆみこは深呼吸する。

肺の奥まで冷たい空気が入り込む。消毒液の匂いと、古い木材のほのかな香り。このスタジオで一年間、毎日吸い込んできた空気だ。

ピアノの鍵盤に指を置く。白い鍵盤は夕日を受けて淡いピーチ色に染まっている。黒鍵は影になって深みを増す。

時計の秒針が動く音。

カチッ、カチッ。

窓の外、雲が動き始める。細長い筋雲が西から東へ流れる。その下を鳥の群れが横切る。シルエットだけになった羽ばたき。

ゆみこはマイクに向き直る。

スニーカーの裏が床に密着する感覚。昨日ライブで立っていたステージとは違う硬さ。ここの床は古くて、ところどころ軋む。

左手で楽譜をめくる。

今日読むメッセージが印刷された紙たち。いつもより厚い。何枚もある。

ゆみこは目を閉じる。

耳の中に昨日の拍手が残っているような気がした。遠くから聞こえる波のような音。立ち上がってくれた人たちのざわめき。美羽ちゃんの「ありがとう」という声。

五秒。

まぶたの裏がオレンジ色に光る。

──

ON AIRランプが赤く灯る。

「こんばんは」

声が出た。

喉が少し震えた。すぐに整える。

「Magic Hourへようこそ」

窓の外、太陽が海面に触れ始める瞬間だった。金色が溶け出してオレンジへと変わる水平線。

「今日もおつかれさま」

一年前、初めてこの言葉を口にしたときとは違う響きだったことを、ゆみこ自身が感じた。声帯の振動が胸郭に伝わる感触が、少しだけ深くなっているような気がした。

「篠原ゆみこです」

ピアノを一音鳴らす。「ド」の音。澄んだ響きがスタジオの中を漂う。

「今日もこの一時間、あなたと一緒に過ごせますように」

いつもの言葉なのに、今日はひとつひとつの音節に重みがあった。一年間で積もった埃のようなものが、声に混ざっているようだ。

最初の曲を弾き始める。

昨日ライブで歌ったばかりの曲だ。「てんとう虫の羽根」。指が自然に動く。筋肉が覚えている旋律。

歌わない。ただピアノだけで奏でる。

メロディーが窓ガラスにぶつかって外へ流れ出していくように感じた。夕焼けの中へ消えていく音符たち。

一曲終わるときには空色が変わっていた。

オレンジから紫へのグラデーション。

雲の端っこだけまだ燃えているような赤さ。

ゆみこはマイクに向かって息をついた。

「では……今日最初のお便りをご紹介します」

手元の紙を取る。

分厚くなっている。

昨日ライブがあったからだ。

メッセージボックスには朝から溢れていた。

局の人たちも驚いていたという。

「ラジオネーム『夕暮れてんとう虫』さんから」

読み上げるとき声が少し詰まった。

白石千鶴さんだ。

車の中で聴いているだろうか。

それとももう家について美羽ちゃんと一緒に聴いているだろうか。

『昨日ありがとうございました

娘と初めてコンサートに行きました

彼女はずっと歌っていました

帰りの車でも

家についてからも

今朝起きたときも

てんとう虫の羽根を歌っています

私も一緒に歌いました

部下にも優しくできた気がします

不思議と笑顔が出ました』

ゆみこは目を閉じた。

まぶたの中で美羽ちゃんが見えた。

ライブ会場で一生懸命拍手していた小さな手。

千鶴さんの隣で嬉しそうにはしゃいでいた姿。

「……ありがとうございます」

声が出るまで三秒かかった。

「私の方こそありがとうございます」

ピアノをそっと撫でる。

木目の温もり。

「次は『さくらの母』さんから」

祖母だ。

『ゆみこ

よくやったね

おばあちゃん泣いたよ

おじいちゃんにも聞かせてあげたいと思った

天国でも聴いてるかな

明日のお昼ご飯何にする?

好きなもの作ってあげる』

涙があふれた。

頬をつたってあごまで落ちる熱さ。

慌てて拭おうとしたけど間に合わない。

マイクに向かって笑った。

鼻水まで出そうになるのに笑った。

「おばあちゃん……ありがとう」

声は震えていたけどそれは仕方ないと思った。

「明日……カレーかな」

ブース越しに見える航太が見上げているのがわかった。

彼も笑っているだろう。

次々とメッセージを読んでいく時間は魔法のように過ぎていった。「翔太ママ」という名前でお母さんからのメール。「息子と行きました 久しぶりに出かけられました」「海辺の人」という初めてのお便り。「昨日海岸通り歩いてたら音楽聞こえて 中に入りました」「波音好き」という常連リスナー。「毎日聴いてます これからも続けてください」

一つ一つ読むたび胸がいっぱいになる重さがあったけど嬉しい重さだった。

窓ガラスの向こうでは夕焼けがいよいよ深くなっていく紫から赤紫へ雲全体があぶら絵具のように溶け出す茜色空一面染まる

五時四十分になったとき最後のお便りを持ち上げた

「これは……ラジオネーム『翔』さんからです」

読み始める前に一呼吸置いた

新しい名前だったけど内容を見てすぐわかった

翔太君だ

『昨日行きました

暗い部屋から出ました

母と二人で行きました

すごく大きな音でした

でも怖くなかったです

帰りの電車で母と話しました

来週学校に行ってみようと思います』

文章は短かった

改行が多い

打つのに時間かかっただろうなと思った

ゆみこは紙を持ったまま固まった

指先だけ震えているのがわかる

航太が見上げている視線を感じながら深呼吸した

「翔さん……ありがとう」

それ以上言葉が出なかったのでピアノに向かった次の曲のために用意していた楽譜ではなく頭の中にあるまま指を動かした即興のような旋律浮かんでくるまま弾いた優しい音階上がったり下ったり最後はまた最初と同じ和音戻っていく

五時五十五分になると空はいよいよ深紅地平線近くだけまだ燃えるようなオレンジ頭上にはもう藍色広がっている一番星が見え始めた東の方角では月が出ている白っぽい三日月細い弓なり窓ガラス映る自分の顔その上にかぶさる夕焼け色混ざり合う不思議な色彩世界すべてフィルター通して見ているようだ

ゆみこはマイクに向かい最後の発言準備する喉元軽く咳払いする一年間毎日やってきたことなのに今日だけ特別緊張するなぜだろう終わりじゃなくて続きなのに始まりでもあるのに両方混ざった感覚胸の中渦巻いている航太の方ちらり見ると彼もうなずいている準備OKサイン送ってくる小さな微笑浮かべながらON AIRランプ赤く光り続けるその中最後言葉紡ぎ出す

「Magic Hour……今日もありがとうございました」

声少し詰まる飲み込む続ける

「一年前私ここ立つときどんな風になるか想像できませんでしたただ毎日届けることだけ考えていました届きますように届きますようにって願いながらマイクに向かっていました」

窓外鳥一羽飛び立つ翼広げ風乗るシルエット茜色背景浮かび上がる瞬間的芸術消えていく向こう側へ飛んでいく姿見送りながら話続ける

「でも届きましたね皆さんのところにそして皆さんの声も私のもとに返ってきました見えない糸で繋がっているんだなって思います離れていても同じ時間同じ空見上げて同じ音楽聴いている奇跡的な一時間でした毎日魔法のような時間でした本当にありがとうございます」

ここで一度止める必要あった涙また溢れてくるから拭う時間必要だったハンカチ出して目元押さえる一年前なら恥ずかしくてもう放送できないくらい泣いたかもしれない今なら泣いても大丈夫わかる泣ける強さ手に入れた気する深呼吸もう一度マイク近づける声少し湿っているけどそれでもいいと思った自分のありまま届ければいいんだって学んだ一年間だから最後言葉選ぶ慎重すぎず自然すぎず心からのものだけ並べていく順番考える必要なかった一番言いたいこと口開けば出てくるものだったそういうことだったのかもしれないすべて積み重ね結果今ここ立っている自分いるのだということ実感として沸いてくる温かい泉胸奥湧き上がる感覚言葉変える力信じられるようになった自分いるのだということ確信として刻まれる瞬間訪れる

六時ちょうどになったとき時計秒針天井垂直下向く瞬間訪れるON AIRランプまだ赤く光っている最後数秒間残されているゆみこ深く息吸い込む肺一杯冷たい空気取り込む吐き出すときに出す言葉決まっていた一年間毎日言ってきた言葉だけど今日違う響き持つことを知っていた体全部使って発声する腹底から絞り出すようにしかし優しく包むようにすべてリスナー届けるために設計された発音一つ一つ丁寧になぞっていく唇形整え舌位置調整声帯振動数微調整すべて無意識に行われる身体記憶頼り最後宣言紡ぎ出す

「明日につながりますように」

一呼吸置く間に窓外景色また変わる茜色濃くなる一番星輝き増す二番目三番目現れ始める東空三日月白さ際立つ西空残光薄紫色淡くなるグラデーション完璧自然芸術一秒ごとに変化していく様子目撃しながら二文目発する

「あなたにつながりますように」

ここまで来るともう涙止まらない頬伝わる熱さそのまま受け入れる拭わないそのままマイク向けて最後一言付け加える思いついたわけではなく自然に出てきた言葉一年間通して学んだことすべて凝縮された一言それは

「きっと思ったよりも素敵な日になりますように……」

声震えたけどそれは仕方ないと思った人間だから震えるときある完璧じゃなくていい不完全だからこそ届くものあるのだと信じられるようになった自分いるのだということ感謝しながら締め言葉告げる

「おやすみなさい……また明日」

ON AIRランプ消える瞬間世界静寂包まれる今まであった機械低唸り止まるヘッドフォンからの雑音消える自分の呼吸音だけ残される鼓膜内側響く静けさ深まるその中ゆみこ目閉じるまぶた裏残像夕焼け色浮かぶオレンジ紫赤青ピンク混ざり合う万華鏡回転していく様子眺めながら余韻味わう一分くらい経っただろうか目開けるブース向こう側航太立っているミキサー卓離れて窓際近づいてくる彼笑っている口元緩めて何か言っている読唇術できないけど多分「よかったよ」とかそんな言葉だろう彼右手上げて手振っている大きくゆっくりまるで鳥羽ばたき模倣するような動き優しい弧描いて空中泳ぐようなジェスチャーゆみこ思わず笑顔返す自分手上げて振り返す右手首ミサンガ揺れるビーズ軽やかな音立ててカチカチ窓越し二人手振り合う奇妙儀式一分以上続ける誰止めない永遠続けてもいいような錯覚覚えるほど心地よい時間流れるやっと航太口元動かす今度聞こえる

「お疲れ様」

ドア開けて入ってくる足音靴底床軋ませながら近づいてくる彼手ハンカチ差し出す白地青ストライプいつものやつゆみこ受け取りながら顔拭う涙跡ぬぐう化粧落ちているだろうけど気しない今日くらいいいだろう

「たくさんメッセージ来てたね」

航太言う背筋伸ばして天井見上げるポーズ首筋伸ばしているようだ一日中座っていたから凝っているのだろう

「局のみんなびっくりしてたよこんな大量初めてだって」

ゆみこ頷く言葉出ないまだ感動余韻残っていて喉塞ぐ感じあるただ微笑返すだけで精一杯航太それ理解してくれるようにもう何も言わず一緒に窓外眺める沈黙共有する数分間その間にも空色変わり続ける茜色褪せていく代わり紺色濃くなる星増えていく点々光粒散らばっていく星座形作ろうとするかのような配置神秘的な並び方自然偶然生み出す芸術作品鑑賞しているような気分になるふたり同時ため息つくそれ聞いて笑い合う偶然一致面白さ共有笑顔交わす

スタジオ片付け終わるのは六時半過ぎだった楽譜整理マイクカバー被せるピアノ鍵盤覆う布掛ける一日終わり儀式一つ一つ丁寧に行う航太ミキサー卓電源落としてケーブル整理している横顔見ながらゆみこ思わず口開ける

「ねえコウタ」

呼び方は幼少期戻る自然出てしまう

航太振り返る眉上げ疑問表情浮かべながら待つ姿勢取る

「あの……もしよかったら」

言葉詰まるどう切り出していいかわからない結局単刀直入言うことにした

「今度一緒ご飯食べに行かない?私奢るよライブ成功祝いに」

言ってしまってから恥ずかしくなる顔熱くなる確実赤くなっているのがわかる航太目見開いて驚いた表情その後すぐ柔らかい笑顔広げる彼頷く早すぎず遅すぎず丁寧な動作首縦振り一回だけで十分伝わる返事になるその後付け加える一言軽やかな調子含んでいるけど真剣味滲ませているのが聞き取れる耳慣れた彼声音程微妙変化感じ取れる長年知っているからわかることかもしれない

「ぜひ行こうよ待ってたんだそういうこと言われること」

そして照れ隠しのように背中向けてケーブル巻き始める耳先赤くなっているのが後ろ姿からでも明らかに見えるゆみこそれ見てまた笑顔溢れる胸温かい感情満ちていく泡立つ炭酸飲料のような感覚体中巡っていく幸せ形これかもしれない思う瞬間訪れる特別大事件起こらない日常些細出来事積み重なる結果生まれる宝石のような時間これ魔法かもしれない思う素敵な一日終わり迎えようとする瞬間次また始まる予感同時抱える矛盾快感これ生きること意味かもしれない思う深遠考え巡らせる間にも時間進んでいく無情平等流れていく砂時計逆さまできない物理法則支配される世界それでも心だけ自由飛び立てること可能教えてくれる人たち周りたくさんいることに今さらながら感謝湧いてくる波打ち際寄せる波繰り返すリズム永遠変わらない約束自然与えてくれる安心感それ似ている人間関係繋がり切れない糸存在信じられる勇気与えてくれる源これから先何年経っても変わらないものあると信じたい願望強い意志変わる未来恐れず進んでいく力湧いてくる源泉今日一日終えて得られた最大収穫かもしれないそう思わせてくれる充実感全身包む心地よい疲労感筋肉ほぐれていく弛緩感ベッド横になりたい欲求同時襲ってくる眠気戦いつつまだここ立ち続ける理由特にないただこの場所好きだからもう少し居たいだけ単純理由行動決定させる人間らしい不完全判断微笑ましい自分許せる寛容さ手に入れた証拠かもしれない成長と呼べること確信持てる瞬間訪れる静かに歓喜内側沸騰させながら外側平静保つ技術一年間放送通して磨いた能力無意識発動している自分いることに気付く面白さ発見小さな驚喜日常埋め込まれている宝物探すゲーム終わりなく続けられる幸せこれなら一生飽きないかもしれない思わせてくれる充足感与えてくれる一日締め括られる満足感胸一杯広げていく花開く春予感させる暖かさ室内充満させる希望香り深呼吸すると肺奥まで染み渡っていく清涼剤効果ある癒やし自然発生現象人間関係化学反応生み出す副産物貴重贈り物大切扱っていこう決意新ため固める心臓鼓動高鳴り鎮めよう努力虚しい試み楽しむ方向転換すること選択肢増えた柔軟性身につけた証左自信持っていこう背筋伸ばす姿勢正す顎引いて前見据える姿勢取ると自然笑顔浮かぶ鏡必要なく自分表情把握できる身体感覚研ぎ澄まされてきた成果無駄ではない証明内心安堵感じながら明日準備始める第一歩踏み出す靴履き替える動作日常動作特別意味付与しない普通行為しかしそこ愛着湧いてくる不思議現象起こる所有物大切思える感情芽生える瞬間訪れる全てにおいて感謝念抱けるようになった自分いることに改めて驚愕覚える成長実感できる稀有機会逃さず味わおう意識集中現在一点凝縮させる瞑想状態似ている没頭体験与えてくれる至福時間刻一刻過ぎ去っていく儚さ同時美しさ兼ね備えた矛盾抱擁できる器大きくなった自分認める勇気持つことできた誇らしさ少しだけ許される自己肯定甘美味覚知ることができた解放感開放区間走行開始合図鳴らされる汽笛遠方聞こえてくる現実戻っていくタイミング到来知らせる合図受け取り次の行動移行準備整える