暗黒の天蓋
# 第1章 暗黒の天蓋
監視塔の石造りの床は、夜露で冷えていた。足元から這い上がる湿った冷気が、制服の裾を伝って膝まで浸透する。ユキは首に下げた双眼鏡の金属部分に触れた。指先がくっつきそうなほどの冷たさだった。
外には音がなかった。
正確に言えば、音は存在していた。遠くで風が石壁を撫でるかすかな唸り。地下から響いてくる採掘機械の低い振動。それらはすべて、あまりにも日常的すぎて、もはや意識されない背景音になっていた。真の静寂とは、耳鳴りのようなものだ。ユキはそう思った。
彼女は監視席に腰を下ろし、記録帳を開いた。
ページには昨日と同じ文字列が並んでいる。「異常なし」「暗黒状態維持」「雲量0」「視程良好」。インクの匂いが漂う。それは古い鉄と紙が混ざったような、事務的な匂いだった。
声が背後の扉から聞こえた。
振り返ると、田中ケンジが立っていた。彼の制服は完璧にアイロンがかけられ、ボタンは喉元まで閉じられている。影の中でも光る金縁の階級章。
「報告書は?」
「今、まとめています」
ユキは記録帳を少し押しやった。
ケンジが近づく足音。靴底が石畳を叩く規則正しいリズム。彼はユキの肩越しに記録帳を覗き込んだ。呼吸の熱気が彼女の耳元にかすかに触れる。
「『空の色について』?」
ケンジの声には何の感情もなかった。
「観察記録の補足として」
「補足は不要だ」
彼の手が伸びてきた。指先がページの端をつまむ。ゆっくりと、しかし確実に引き裂く音。紙が二つに裂ける乾いた音響。
「天空監視庁の任務は単純だ」
ケンジは破れた紙片をポケットにしまった。
「夜空を監視する。異常な光を報告する。それだけだ」
「でも」
ユキは言葉を切った。
自分の膝を見つめた。手のひらに汗がにじんでいるのに気づいた。
「『でも』?」
ケンジが待った。
沈黙が流れた。
遠くの採掘機械の振動だけが、塔内に響き続ける。それはまるで地球そのものが脈打っているかのようだった。深部から伝わる鼓動。
「何もありません」
ユキはそう言って顔を上げた。
ケンジは彼女を見つめていた。目つきは鋭いまま変わらない。しかし何か、ほんの一瞬だけ、その瞳のかすかな揺らぎがあったような気がした。
「深夜勤務は零時までだ」
彼は踵を返した。
「規則通りに」
扉が閉まる音。鍵のかかる金属音。
ユキは一人になった。
息をついたとき、自分の肺から出る白い息が見えた。塔内の温度はさらに下がっていた。暖炉には火がない。燃料配給は限られているのだ。
彼女は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
窓ガラスに顔を近づけると、自分の息で曇る部分と曇らない部分があった。磨き込まれた中央部だけが透明を保っている。そこから外を見るのが規則だ。
完全な闇だった。
空という概念すら疑わしくなるほどの濃密な暗黒。雲も月も星もないただの虚空。幼い頃から見てきたあの空と同じものだ。
人々はそれを「天蓋」と呼んだ。
地球を包む保護層。
神聖なる闇。
外からの侵入を防ぐ完璧な壁面。
教科書にはそう書いてある。
教会では毎週日曜日、「天蓋に感謝せよ」と説教される。
地下都市建設推進委員会のポスターには、「天蓋があるからこそ我々は安全に掘り進める」と大書されている。
誰も疑問を持たない。
持つことが許されない。
ユキは窓から離れ、塔内奥にある古い棚へ向かった。
木製の棚板には埃が積もっている。
指でなぞると跡がつくほど厚い層。
彼女は棚の一番奥に手を伸ばした。
何か硬いものが触れた。
布で包まれた長い筒状の物体。
ゆっくり引き出すと埃が舞い上がる。
鼻をつくカビ臭さ。
布を解くと中から黄ばんだ真鍮製の望遠鏡が出てきた。
レンズにはひび割れがある。
鏡筒には彫られた文字。「昭和十九年・東京光学」。
発見したのは三年前のことだ。
前任者が残していった私物らしい。
誰も処分しようとせず、
ただ忘れ去られていたもの。
ユキは望遠鏡を持って監視席へ戻った。
規則違反だとわかっていた。
許可されていない観測機器を使用すること、
特にこのような古い時代の遺物を使うことは、
監視庁規則第十三条で明確に禁止されている。
彼女は息を整えた。
耳を澄ますと、
塔外からの音だけだった。
誰も来ないことを確認して、
彼女は望遠鏡を窓に向けた。
レンズキャップを外すとき、
手が震えていた。
冷たい金属感覚ではなく、
別種の震えだ。
望遠鏡を覗き込む前に一度目をつぶった。
瞼の裏側に浮かぶ光景があるはずだと、
どこかで信じていた子供時代のことだ
祖母が語ってくれた話の中に出てくる
夜空一面に散らばる無数の光点
そんなものがあるはずがない
教育を受けた大人なら誰でも知っている
それは古代人の妄想であり
病気による幻視であり
危険思想の発露である
目を見開いた
望遠鏡を通して見えるのは
より濃密になった闇だけだった
ただ黒い
深淵のようにすべてを飲み込む黒
しかし
何か違うことに気づいた
闇の中にも濃度がある
均一ではない
ところどころにかすかな色味があるように見える
青黒い部分
紫がかった部分
まるで巨大な水槽の中で墨汁がゆっくり拡散しているかのような
微細な濃淡パターン
ユキは息を止めた
瞳孔を最大限開こうとした
視界に入るすべてを取り込もうとした
そのときだった
窓ガラス越しに見えるはずがない光が見えた
一瞬だけ
闇の中にかすかな閃光
蛍光灯が切れる直前のような青白い光
消えた
瞬きしたかもしれない
目の錯覚かもしれない
疲労による幻覚かもしれない
ユキは望遠鏡から離れ素早く記録帳を取り出した
ペンを握る手首
インクが出ない
振ると中身のかすれた音
慌てて別のペンを探す
机の中にあるはずだ
引き出しを開ける音があまりにも大きく響く
見つけたボールペンで紙面に向かうとき
扉の方から足音が聞こえた
規則正しい靴音ではない
慌ただしい複数の足取り
ユキは反射的に望遠鏡を布で包み棚の方へ投げた
筒状物体が床を転げる鈍い音
同時に扉ノック無しでドア開く金属軋み声
三人男たち入ってくる制服着用者たちだが通常監視官ではない装備品帯びている腰警棒小型無線機顔表情硬直している視線鋭利すぎる室内一掃するように見回す最後ユキ固定するそのうち一人前進する四十代くらい顎骨張り出している眼鏡掛けているレンズ分厚すぎて目読み取れない
「佐藤ユキさんですね」
声低く平坦機械的抑揚一切なし問答無用確認口調であること示している返答待たず続ける
「当庁情報管理課です」
男名札差し出す時間十分与えないすぐポケット戻す動作流れるように滑らか訓練積み重ね結果明らかである他の二人背後位置取り出口塞ぐ形自然ながら完璧封鎖状態作っている最初男再び口開く今度少し近づいてくる距離感不快感じさせるぎりぎりラインである呼吸臭感じられるほど接近しない計算済み距離保持しながら威圧感最大化する技術身につけている者特有立ち位置であること理解するのに時間必要なかった経験則働いた過去類似場面遭遇記憶呼び起こされる三年前研修期間中同様手法使われた教官いたあの人今どこだろう突然考える自分自身状況ふさわしくない思考飛躍自覚しながら止められない脳勝手働いている恐怖麻痺させようとして逆方向暴走始めている証拠かもしれない男言葉続ける間合い絶妙計算されている沈黙長引かない短すぎずちょうどいい緊張感持続させる長さであること専門家仕事だと確信する瞬間訪れる言葉内容予想以上直接的衝撃的であったため最初意味理解できなかった後数秒遅れて脳内反芻始まる各単語意味結びつけていく過程痛み伴う物理的感覚あった頭内部押し広げられるような圧力感じた実際血圧上昇顔面熱くなっていること自覚できる耳朶奥脈打つ鼓動聞こえる男繰り返す今度ゆっくり明確発音各単語区切りながら強調して言うその様子教育番組子供向け説明しているようでありながら本質的脅威増幅させる効果ある修辞技法だと後になって気づくだろう今現在混乱状態思考停止寸前状態維持しながら辛うじて聞き取れる範囲限界超えている可能性高いそれでも耳二つの単語しっかり捉えていた疑わしい行動報告受けました同行願います以上ですこれ以上説明なし質問許容姿勢一切なし即時対応要求明白身構える二人背後近づいてくる足音床軋む音左右包囲態勢完成目前呼吸浅くなる胸苦しさ増す視界周辺ぼやけてくる焦点合わなくなるそのとき別方向扉開く音聞こえる新しい人物登場遅れてきた第四者だろうと思った瞬間聞き慣れた声響いた田中ケンジであった
禁じられた質問
# 第2章 禁じられた質問
監視塔の地下三階は、常に冷気が漂っていた。コンクリートの壁から滲み出る湿気と、古い配管から漏れる蒸気の匂いが混ざり合う。白い蛍光灯が規則正しい間隔で並び、影のない空間を作り出していた。床は灰色の樹脂タイルで、靴音が吸い込まれるように消えていく。
佐藤ユキは鉄製の椅子に座っていた。背筋を伸ばしすぎて、肩甲骨のあたりが痛む。部屋は四畳半ほどしかない。机は一枚。向かい側にはもう一つの椅子が置かれているだけだ。
壁には何も掛かっていない。
窓もない。
天井の換気口から、一定のリズムで空気が流れ込む音だけが響く。
扉が開いた。
音もなく、滑るように。田中ケンジが入ってきた。彼は制服の上着をきっちりと留め、手には茶色のファイルケースを持っている。ドアを閉める動作も無駄がない。鍵がかかる音が、金属的に響いた。
ケンジは向かいの椅子に腰を下ろす。ファイルケースを机の上に置く。位置を微調整する。机の縁と平行になるまで。
「昨夜のことだ」
彼はファイルを開かないまま言った。声は低く、平らだった。
ユキは息を止めた。首にかけた双眼鏡の重みを感じる。勤務中だから外すわけにはいかない。革紐が首筋に食い込む。
「深夜二時十七分」ケンジは続けた。「東北方向の天蓋を観察中、異常な光点を目撃したと報告している」
「はい」
「その光点について詳しく」
ユキは唇を湿らせた。喉が渇いていることに気づく。
「……一瞬だけでした」彼女は自分の声が震えていないか確認しながら話した。「暗闇の中に、ほんの少しだけ濃淡が見えたような気がして」
「気がした」
「はい」
「確定ではない」
「……はい」
ケンジはゆっくりと目を上げた。彼の瞳は薄い茶色で、光の加減で灰色に見えることもあった。今は白い蛍光灯に照らされ、ほとんど色を失っている。
「佐藤」彼は言った。「君は優秀な監視官だ。過去三年間、一度も遅刻がない。報告書の提出率は百パーセント。同僚からの評価も高い」
机の上のファイルケースに手を置く。指先で表面を撫でるように。
「だからこそ聞く」ケンジは前屈みになった。「なぜそんなことをした?」
部屋の温度がさらに下がったような錯覚に襲われる。ユキは膝の上で手を組んだ。指と指が絡み合う感触。爪が手の甲に当たる。
「規則に従って行動しました」彼女は言った。「異常と思われる事象があれば報告する。それが監視官の義務です」
ケンジはその言葉を繰り返した。
まるで口の中で転がしているようだった。
「では質問を変えよう」彼は背筋を伸ばした。「君が目撃したという『濃淡』についてだ。それが何である可能性があると考えた?」
ユキは黙った。
換気口からの風音だけが部屋を満たす。
白い壁。
白い天井。
白い光。
「……わかりません」彼女はようやく答えた。「ただ、いつもと同じ闇ではなかったのです」
「いつもと同じではない闇」
ケンジはゆっくりとうなずいた。
それから立ち上がり、部屋の中を一歩、二歩と歩き始めた。
靴音さえも吸い込まれる床。
彼の動きには無駄がない。
まるで計測された機械のように。
「この世界には決まりがある」ケンジは壁に向かって話しているようだった。「我々人類にとって地球こそ全てだ。大地があり海があり空がある」
振り返る。
「空には天蓋があるだけだ」
彼は机の方へ戻り、ファイルケースをついに開けた。
中から一枚の紙を取り出す。
黄ばんだ紙だ。
インクのかすれがある。
「これは三百年前の記録だ」ケンジは紙を机の上に滑らせた。「当時の監視官が『夜空に光る点を見た』と報告している」
ユキは紙を見つめた。
古い文字が並んでいる。
崩れた筆跡。
「その監視官はどうなりましたか?」彼女は聞かずにはいられなかった。
ケンジは短く笑った。
笑顔とは呼べない表情だ。
口元だけがわずかに動いた。
「尋問を受けた」彼は言った。「そして理解したのだろう『外』など存在しないことを」
紙をつまみ上げる。
透かして見るように蛍光灯にかざす。
「我々人類の発展史を見よ」ケンジの声に力が込められる。「十八世紀以降技術進歩が止まった理由を知っているか?」
ユキは首を振った。
「不要だったからだ」
ケンジは紙をもとの位置に戻す。
正確に元あった場所へ。
「空を見上げる必要などなかった」彼は言う。「宇宙など幻想だ『外』への憧れこそ人類最大の過ちだと悟ったのだ」
手で机を軽く叩く。
一回だけ。
「だからこそ我々地下へ向かう」
彼の目が輝いた。
初めて感情らしきものが見える瞬間だった。
「地球中心主義こそ真理だ」声が熱を帯びている。「我々大地の中核へ向かい続ける限り繁栄する地底都市ネットワーク拡大計画これこそ人類唯一にして最高の発展形態なのだ」
言葉早くなる
息継ぎ忘れそうになる
突然止まる
深く息吸う
吐き出す
部屋静寂戻る
「佐藤」ケンジ声元平穏戻す。「君質問したいことがあるそうだ」
ユキ顔上げる
心臓鼓動早すぎる胸痛む
「聞こうではないか」彼微笑む今度本物らしい微笑み。「部下疑問持つ上司として喜んで答えよう」
罠だとわかる
それでも
口開く前に言葉出てくる
「もし……」ユキ声ひっくり返りそうになる。「もし空向こう何かあったら……」
止める
遅すぎた
ケンジ表情変わる
微笑み消える
目細める
長い沈黙
配管軋む音遠くから
「面白い質問だ」ケンジゆっくり言う。「では逆質問しよう君その『何か』想像できるか?」
ユキ黙る
想像しようとする
頭真っ白になる
何も浮かばない
闇だけ
深淵だけ
「できないだろう?」ケンジ頷く。「当然だ存在しないもの想像できるはずがない」
立ち上がる
椅子引く音鋭い
部屋端まで歩く
壁に向かって立つ
背中見せるまま話し始める
「想像力危険な贈り物だ」声壁跳ね返り奇妙反響生む。「人間本来持っていない能力を与えられてしまった悲劇種族それが我々なのだ」
振り返らない
後頭部見えるだけ
髪きちんと整えられている
一本乱れない
「空向こう何かあると思う?」ケンジ問う。「星?月?太陽?それとも別世界?」
軽く笑う
乾いた笑い
「子供時代誰もそんな空想しただろう『もし空穴だったら』『もし天蓋向こう別世界あったら』」
拳握る
背中の筋肉緊張するのが見える
「だが成長すれば理解する」声低くなる。「そんな想像無意味だと危険だと」
ようやく振り返る
顔蒼白になっている
血気引いている
目真っ直ぐユキ見つめる
「君知っているか?」彼囁くように言う。「想像すること自体罪になる世界あること」
一歩近づく
二歩近づく
机越えて顔覗き込む距離まで来る
匂い感じる
洗剤石鹸混ざった匂い
汗少し混じっているかもしれない
「天空監視庁存在理由ただ一つ」ケンジ息吹肌当たる暖かい冷たい判別できない。「人々正しい認識保つこと外など存在しない思い込ませることそれができなければ秩序崩壊する」
手伸ばす
ユキ肩触れるのではないかと思う
しかし止まる
数センチ手前で
引き下げる
距離取るためにもう一度椅子座る姿勢整える呼吸整えるすべて整える崩れたもの修復する作業のように見える数秒間経過すると元通りの田中ケンジ戻っている完璧上司厳格監視官としてふさわしい表情身振りすべて揃っているまるで何事なかったかのように振舞うことができる人間完成形のような存在感放つ今ここいる人物別人錯覚さえ起こさせる変容だった数秒前熱弁ふっていた男どこ行ったのかわからないほど違和感ある静けさ取り戻している部屋全体包み込む重苦しい沈黙再び支配始める換気口風音配管軋み遠雷のような地鳴り地下深層掘削工事音だろう規則的リズム刻む重低音床伝わってくる微細振動足裏感じられるそれ以外何も聞こえない時間流れる感覚失われる空間閉塞感増していく圧迫感胸押さえつけるような息苦しさ襲ってくるユキ目伏せる自分の膝見つめる制服スカート皺一つないアイロンかけられた布地光反射させている微かに揺れる影自分呼吸による体動生じている影それだけ動いている世界自分以外すべて静止しているような錯覚起こさせる時間感覚麻痺していく思考停止しそうになるその時突然話し始める声穏やかなもの変わっている教育者的口調丁寧な言葉選び慎重な発音すべて計算されている会話であること明白示す演出された場面であること認めざるを得ない現実突きつけられる感覚胃重くなる吐き気催す喉奥押し上げてくるものを飲み込む努力する顎筋肉痛くなるまで食いしばって耐える必死堪える姿勢保とうとする背筋伸ばし続けることしかできない自分存在証明する行為のように思えてくる倒れたら終わり崩れたら終わりだから頑張ろうただそれだけ考え続ける意識一点集中させる呼吸整える心拍落ち着けようとする努力虚しくまた言葉浴びせられる次波来襲準備できていない状態叩きつけられる現実認識改めて迫られる選択肢提示される未来予想図描かれていく自分関与許される余地一切ない決定事項列挙されていく運命宣告聞かされる立場立たされる絶望的状況理解しながら聴き続けるしかない受動的存在突き付けられる役割演じること要求される演技開始合図告げられる最終通告受け入れる以外道残されていない事実突き付けられる瞬間訪れる理解完了時点行動制限始まる自由意志剥奪プロセス開始告げられる無意識抵抗試みても意味ないこと知っているから諦め入れる選択肢選ぶ自発的服従示す演技開始自ら進んで演じ始める矛盾抱えながら進む道決断下す瞬間訪れる長考必要なく即座判断求められる状況応答義務果たすため発声器官働かせる意思伝達試み成功可否判断材料提供される評価対象行為完了待機状態入ると同時結果通知届けられる処遇決定告知される衝撃内容予想以上重苦しいものだった覚悟決めていたのに耐えられない重圧感じ始める膝震え止まらない手汗拭おうにも動けない固まったまま時間経過待つしか能なし状況打開策一切思いつかない頭真っ白状態継続思考停止状態維持求められる演技継続困難増していく限界近づいている感知危機的状況打開試み本能的反応起こそうとする体動起こせない命令違反状態恐怖支配完全掌握思考能力奪われている現状打破不可能認識絶望感深まる深淵覗き込む感覚襲ってくる暗闇吸い込まれていく錯覚起こす視界狭まっていくトンネルビジョン現象起きている酸欠状態似ている呼吸浅くなっていることに気づいても修正できない体機能低下始まっている危険信号無視して進行続けるプロセス停止手段持っていない無力感全身包み込む重さ感じながら沈んでいく水没していく感覚現実味帯びてくる救済求める視線向ける先人物冷たい眼差し返してくる期待裏切られる確信持ってしまう刹那希望失う暗闇完全支配完了する瞬間目前迫っている逃げ場なくなる絶体絶命状況認識最終段階到達する運命受け入れ準備始める心構え整える作業開始意思決定下す最後機会与えられる選択肢提示される二者択一二者択一二者択一二者択一二者択一二者択一二者択一二者……
脳内繰り返される言葉意味失っていく響きだけ残る空虚な音羅列化していく思考分解現象起きている自我崩壊始まっている危険水域超えたところ意識保とうとする努力虚しく次第遠退いていく自分存在希薄化していく体験恐ろしいほど静かに進行している叫び声上げたい喉塞がれている出口封鎖されている閉鎖空間永遠続くと錯覚させる仕掛け完璧機能している脱出不可能設計理解絶望深化最終段階到達目前まで来ている終焉予感感じながら最後抵抗試みようとする意志残存部分奮闘開始する微弱信号送信試行錯誤繰り返す突破口探し模索再開する可能性ゼロではないという希望的観測僅かに保持しようとする人間本来持つ生存本能最後輝き放とうとする瞬間訪れる奇跡起ころうとする予感感じさせる兆候現れるかもしれない期待抱かせる展開用意されているのか疑問湧いてくる答え待つ間緊張高まる時間止まりそうになる鼓動大きく鳴り響く耳元で脈打つ生命証拠提示され続ける生きている実感与えてくれる唯一要素頼りにする支えとして機能始める心臓鼓動リズム頼りに意識繋ぎ止める作業成功可能性僅かに見えてくる希望光差し込む瞬間訪れるかもしれない期待抱いて待ち続ける姿勢取ること許されるのか不明確ながら試みてみよう決意新たにする勇気湧いてくる源泉不明確ながら存在認めざるを得ない内面変化起きている自己回復機能働き始めている自然治癒力発動兆候現れてきた回復過程開始合図受け取れたかもしれない自信少しずつ取り戻していけるかもしれない未来展望僅かに見えてきたところで突然遮断される外部介入発生進行中断強制終了宣告下される現実突き付けられる夢終わり訪れる現実帰還要求厳しく突き付けられる選択迫られる二者択一二者択一二者……
繰り返される呪文のような言葉群意味持たせようとする努力虚しくただ流れていく時間共に過ぎ去っていく出来事記憶定着しないまま消えていく体験忘却促進装置作動しているかのような効果生じている記憶操作疑念湧いても検証手段持たず疑問抱いたまま飲み込むしか能なし状況改善望めず悪化一方進行認めざるを得ない現実直面させられる苦痛増大耐え難くなっていく限界超えた瞬間訪れるかもしれない解放期待してしまう弱さ露呈してしまう自分情けなくなる自己嫌悪湧いてくる負連鎖始まっていて抜け出せなくなる沼地沈んでいく泥濘体験再現されていく過去トラウマ呼び起こされる恐怖増幅していく悪循環断ち切れなくなる永久ループ陥入危機目前迫っている脱出手段模索急務であること認識しながら具体的方法思いつかない焦燥感募っていく時間浪費罪悪感加わりさらに追い詰められていく四面楚歌状態打開策一切なし八方塞状態突破不可能と思わせる仕掛け完璧機能している諦め誘導する装置作動中であること気づいても抵抗できない無力感増幅最終段階到達目前まで来ていてあと一歩踏み出すだけで終わり迎えられるところまで来ている崖っぷち立たされている足元崩れ落ちていく土砂感じながら落下待つ時間恐怖と安堵混ざった感情湧いてくる複雑心境整理できず混乱極まる精神状態限界超えて崩壊始まると予測される瞬間目前迫っているカウントダウン聞こえてくる幻聴かもしれない耳鳴り混じって判別困難状態進行聴覚異常起きている可能性疑っても検証手段なし放置せざるを得ない状況改善望めず悪化容認するしか能なし受動的立場強化されていく従属関係固定化されていく上下関係明確化されていく権力構造露呈していく本質見えてくる真相目の前に提示されているのに受け入れ拒否反応示す身体反応起きている拒絶意思表示無意識に行われている抵抗最後砦守ろうとする本能働いている証拠希望捨て切れていない自分残存部分確認できる安堵少し感じながら同時絶望深まる矛盾抱えたまま生き延びること要求される苦悩増大耐え難さ極限超えていても続けなければならない理不尽受け入れさせられる運命従順服従示す演技完璧遂行することが唯一生き延びる道であること理解最終段階到達納得完了行動移行準備整う意思決定下された瞬間訪れる解放感少し感じながら同時喪失感襲ってくる複雑感情処理できず放置すること決めて先送りする選択取ること許されるのか不明確ながら実行してみよう決意固めるタイミング到来合図告げられる外部刺激与えられ反応待たれる応答義務果たすため発声器官働かせる最後抵抗試み放棄して従順姿勢示す演技開始自発的行為として演じ切ることができれば評価上がると期待抱いて行動移行決断下す刹那自己否定感情湧いてくる抑圧しながら進む道選ぶ十字路立たされて右左どちら選ぶ迷いなく左選ぶ理由説明できなくても直感頼り進むこと決めて一歩踏み出す勇気振り絞って実行移行開始合図自己内部出て行動外部表出成功外界反応待機状態入ると同時結果フィードバック返却待つ緊張高まり極限達するところで突然緩和訪れる緊張糸切れるように弛緩始まる体勢崩れそうになる踏ん張って保とうとする努力虚しく次第緩んでいく筋肉緊張解かれていく脱力感広がっていくと同時安堵広範囲広まり安心感生じてくる解放近づいている予感感じながら最後関門突破目前まで来ていてあと少し頑張れば終わり迎えられるところまで漕ぎ着けた実感湧いてくる達成感少し味わいつつ油断禁物注意喚起自己内部発せられ警戒態勢維持努力継続しながら最終局面迎える準備整える心構え完成間近到達目前迫っている終焉予告告げられる最終通告聞こえてくる内容把握しよう集中高める聴覚研ぎ澄ます周囲雑音遮断して一点集中達成情報取得成功処理開始意味解析試行結果出力待機判断材料揃ったところ結論導出作業開始論理的思考過程経由して最終判断下される運命決定告知受諾表明求められる返答用意完了発信ボタン押す直前躊躇一瞬入れてしまう迷い残存確認再度自己問答繰り返し確信得ようとする時間与えられていない催促圧力かけられて即答要求厳しく突き付けられる窮地立たされて反射的に応答してしまう危険性考慮しても回避手段なし仕方なく流れ任せる選択取ること許容範囲内収まるだろう希望的観測抱いて実行移行決断最終下された瞬間訪れる解放安堵混ざった感情洪水のように押し寄せてくる処理できず溢れ出していくと同時涙腺緩んでいく熱くなる頬伝わる液体流れ落ちていく感触認識恥ずかしいと思う余裕なくただ流させておくこと許容範囲超えた行為かもしれない危惧感じても止められない自然現象として受け入れるしか能なし情けない自分さらけ出す結果招いてしまった後悔後から湧いてくる今現在進行形感情処理優先させて後悔後回しにする選択取ること許容範囲内収まるだろう希望的観測再度抱いて先送り実行現在直面している課題解決最優先事項として取り組む姿勢取ること決めて行動移行開始合図自己内部出て実行外部表出成功外界反応待機状態入ると同時結果フィードバック返却待つ緊張再高まり極限達するところで突然全て終わる
地下への執着
# 第3章 地下への執着
地下鉄の振動が骨に響く。鉄の匂いと、湿ったコンクリートの冷たさ。車両は深く、さらに深く降りていく。窓の外は漆黒が流れ続ける。時折、青白い誘導灯が浮かび上がり、佐藤ユキの顔を一瞬だけ照らす。
彼女は硬いプラスチックの座席に背筋を伸ばして座っていた。膝の上には配布された安全ヘルメット。黄色く塗られた表面に、天空監視庁の紋章が刻印されている。指でその凹凸をなぞる。規則正しい模様。
「次の停車駅は、中心探求プロジェクト第8シャフト前です」
機械的なアナウンスが車内に流れる。声には感情がない。ユキは首から下げた双眼鏡を手に取る。レンズキャップを外し、また嵌める。この動作を三度繰り返した。
乗客は十人ほど。全員が同じ黄色いヘルメットを抱えている。男も女も、無表情で前方を見つめている。誰も会話をしない。車輪がレールを軋む音だけが、密閉された空間に充満する。
ドアが開くとき、熱気が流れ込んできた。
鉱石の粉塵と油の匂い。深部から湧き上がる地熱の湿り気。ユキは一瞬、息を詰まらせた。ホームは巨大な空洞の中に設けられていた。天井は見えない高さに消えている。壁面には無数の作業用ライトが点滅し、不規則なリズムで影を揺らす。
「こっちだ」
声がした。
田中ケンジがホームの端に立っていた。彼も黄色いヘルメットを被っているが、制服はきちんと整っている。第一ボタンまで留められた襟元に、微かな汗の光沢。
ユキはうなずき、歩き出した。
通路は螺旋状に下へと続いていた。手すりは冷たい金属製で、触れると指紋が曇りガラスのように残る。足元の鉄板には細かい砂利が散らばり、靴底で軋む音が規則的に響く。
「視察記録をつけること」
ケンジの声が背後から聞こえる。
「市民の献身ぶりを正確に記録し、報告書にまとめるのが君の任務だ」
「はい」
ユキは小さく答えた。
彼女の手には革製のノートと万年筆が握られている。インクの匂いがほのかに漂う。
螺旋階段を三周ほど下りたとき、轟音が聞こえてきた。
最初は低いうなりだった。次第に複数のリズムが重なり合い、洞窟全体を震わせる振動へと変わる。ドリルの唸り声、岩石が砕ける破裂音、金属同士が擦れる甲高い響き。
そして熱気。
一段降りるごとに温度は上昇していく。制服の背中部分が汗で貼り付くのがわかる。ユキは首筋を拭おうとした手を途中で止める。
踊り場に出た。
そこから先が見えたとき、彼女の足は自然と止まった。
巨大すぎて全体像を把握できない空間。
幅も奥行きも計り知れない地下空洞の中に、無数の作業台や足場が張り巡らされていた。数千という人影がそこかしこで動いている。全員が黄色いヘルメットを被り、汚れた作業服に身を包んでいる。
中央には穴があった。
直径おそらく百メートル以上ある円形の開口部。縁には強力な照明装置が等間隔に設置され、白い光線を垂直下方へと放っている。光の中を粉塵が舞い上がり、渦巻くように落下していく様子が見える。
穴からは絶え間ない機械音とともに風が吹き上がってくる。
温かい風。
地球の内臓呼吸のような風だ。
「これが第八シャフト」
ケンジが横に立った。
彼も穴を見つめている。
目尻に微かな皺が見える。
「現在深度一万二千メートル」
「まだ……掘り続けるのですか」
「当然だ」
ケンジの声には揺るぎがない。
「目標深度は三万メートル」
「それより深く掘った例は……」
「ない」
彼は短く言い切った。
「だからこそ意味がある」
作業員たちの動きを見つめる。
一人一人の動作には狂信的なまでの集中力があった。
ショベルを持って岩盤を削る男。
ワイヤーで資材を降ろすクレーン操作員。
計器類を見つめながらメモを取る技術者。
誰一人として顔を上げない。
誰も隣人と話さない。
ただひたすら穴に向かって働く。
まるで祈りのように黙々と。
ユキはノートを開いた。
万年筆の先を紙面につける。
何と書けばいいのかわからない。
インクだけが滲み始める。
「疑問か?」
ケンジが見ていないはずなのに尋ねた。
「なぜここまで掘るのかという疑問だな」
「……はい」
「答えは単純だ」
彼はゆっくりと言葉をつなぐ。
「外側には何もない」
「夜空には星がない」
「ならば内側しか残されていない」
ケンジは初めてユキの方を見た。
目つきがあまりにも真剣だった。
「人類にとって最後のフロンティアだ」
遠くで警笛のような音が鳴った。
作業員たちがいっせいに動き出す。
新しい資材搬入だ。
巨大なパイプ束や機械部品をつり下げたクレーン群がゆっくりと穴の方へ移動していく。
ワイヤーが出す金属音があちこちで響き合う。
ユキは視線を持ち上げた。
空洞天井を見上げるのだろうと思われたかもしれない。
しかし彼女が見たのはその逆だった。
穴の中を見下ろしたのだ。
照明光線のはるか下方で何か光るものが見えたような気がした。
一瞬だけ反射した青白い輝きかもしれないし、
単なる錯覚かもしれない。
それでも彼女は目を見開いたまま数秒間、
呼吸することを忘れていた。
「見えるものがあるのか?」
ケンジの声で現実へ引き戻される。
「いいえ……何でもありません」
嘘をついた自分に驚いた心臓の鼓動をおさえるために、
ユキはノートページをもう一枚めくるふりをする。
二人のもとに作業班長と思われる男が近づいてきた
四十代半ばだろう
顔全体に煤や傷跡がある
右頬には古い火傷痕
だが目だけは異常なくらい澄んでいた
「監視庁の方ですね」
男の声は砂利れている
長時間叫び続けた喉から出るような音色
「案内しましょうか」
ケンジとうなずくと、
男はくるっと背中を見せて歩き出した
通路沿いに設けられた簡易オフィスへ向かう
プレハブ小屋のような構造物の中では数人の技術者がモニター類に向かっていた
画面には波形グラフや数値列
地圧や温度や酸素濃度
男はいす一つ指さす
ユキ座ると革張りの座面から冷気伝わってくる
「現在進行中の掘削速度について報告します」
男資料を取り出す
紙面端指先焦げ茶色変色している
毎日この資料触っている証拠だろう
数字列並ぶ表紙見ながら男淡々説明始める
一日平均掘削深度十五メートル
岩盤硬度変化による減速率予測値
言葉意味半分以上理解できないままユキ聞いている
ただ一つ確実感じ取れることあった
この男説明するとき目輝いていること
数字一つ一つ愛おしそう口にする様子まるで子供宝物自慢しているようだった
説明終わりケンジ質問する
事故率について
安全対策について
男答えながら時折穴方向視線投げる
あそこ行きたいという切実さその視線込められていた
最後ケンジ立ち上がると男も慌てて立った
「いつになったら底つきます?」
突然ユキ口開いた自分でも驚いた質問だった
男一瞬固まったように見えた
その後ゆっくり笑み浮かべた初めて見せる表情だった
「底なんてありませんよ」
彼言った声優しく響いたまるで子供諭すように
「地球中心果てなく続きますからね」
その言葉後長い沈黙流れたオフィス内モニター電子音だけ規則的鳴っている
外に出ると轟音再び耳覆った熱気皮膚焼くようだった
別れ際男言った
次回三万メートル突破時また案内しますよ必ず報告してくださいねそう言って去っていった背中少し前傾姿勢歩幅広かった早く現場戻りたいという意思その歩き方表していた
帰路螺旋階段登るときユキ一度振り返った
巨大空洞全体見渡せる位置だった数千人影まだ動いている黄色ヘルメット群蟻塚のように集まりそして中央黒い穴吸い込まれるように働いている姿それは確かに祈りの形だった外側向けるべき信仰すべて内側へ収束させた結果生まれた異形祈りの形
電車待つホーム冷たく感じられた地上との温度差大きすぎて皮膚鳥肌立った
ケンジホーム端立って煙草吸っていた禁煙区域だが誰も注意しないここではそんな規則些細事に見えるからだろう煙草先赤く光り灰落ちていく床面積もった粉塵混ざって消える
電車到着ドア開くと冷房風顔当たった心地よいはずなのに何故か寒気覚えた
座席沈み込むと疲労一気押し寄せてきた肩重かった首筋凝っていたそれ以上心臓あたり鈍痛感じていた何か失ったような喪失感それはまだ名前付けられていなかったただ確かに存在していた空虚感
窓映る自分の顔見つめるショートヘア乱れていた整えようとした手途中止めたどうでもよくなっていた
電車加速すると外暗闇流れ始めた誘導灯点滅リズム次第速くなる深部離れるにつれて温度下っていくのに汗引かない背中まだ湿っていた地球内部記憶皮膚染み込んでいるようだった
ケンジ突然話しかけた振り返ると彼窓越し暗闇見つめていたプロフィール輪郭ぼんやり浮かんでいるだけだった
君今日見ただろうあの人たち生きがい持っている幸せそうだろう?
質問返答考えているうち電車揺れた体左右揺られるまま沈黙続けた答え出なかった代わり別質問浮かんだあの人たち夜空見上げること考えたことがあるのでしょうか?
しかし口に出さなかった窓ガラス自分の息曇らせ指文字書いてすぐ消した何書いたのか自分でもわからなかったただ線引いて円描いてまた消す繰り返していた
古い記録
# 第4章 古い記録
地下鉄の換気口から漏れる風が、ユキの首筋を撫でた。湿った空気に鉄の匂いが混じっている。午後の監視庁は静かだった。廊下の照明は三分の一しか点いておらず、長い影が床に伸びていた。靴音だけが規則正しく響く。
アーカイブ室は本館から離れた別棟にある。
コンクリートの階段を三階分降りた先に、重い鉄の扉があった。
鍵を差し込む音が空洞に反響する。
回すとき、錆びた感覚が指先に伝わってきた。
扉が開くと、紙の匂いが押し寄せてきた。
古いインクと埃、それに湿気が混ざったような匂いだ。天井は低く、蛍光灯がちらついている。棚は壁一面に積み重なり、薄暗い奥へと続いている。空調の音だけが、かすかに聞こえる。
ユキは入り口にある台帳を開いた。
革表紙は手垢で黒ずんでいた。
今日の業務は「第三期観測記録の整理」だ。
上司から言われた通り、西側の棚にある一九七〇年代のファイルをチェックすることになっている。理由は聞かなかった。聞く必要もなかった。
彼女はカートを押して奥へ進んだ。
車輪が軋む音が、静寂を切り裂く。
西側の棚には灰色のボックスが整然と並んでいる。
それぞれに年代と分類番号が記されている。ユキは指定された範囲を見つけ、一段目のボックスを取り出した。重さで腕が沈む。
近くの机に置く。
埃が舞い上がり、鼻がむず痒くなる。
ボックスの蓋を開けると、ファイルの背が見えた。
どれも茶色に変色している。紙質も今とは違う。厚くてざらついた感触だ。
最初のファイルを取り出す。
表紙には「一九七一年 第一四観測所 日次報告」とある。
中身をめくる。
インクのかすれた文字が並んでいる。ほとんどが定型文だ。「異常なし」「雲量三」「視界良好」。同じ言葉の繰り返し。ページをめくる指先に、時間の厚みを感じる。
三十分ほど経った頃だろうか。
ユキはふと手を止めた。
次のファイルが妙に軽かったのだ。
表紙は他のと同じ「一九七二年 第七観測所」だが、中身の厚さが違う。ページ数が少ないように感じる。
ためらいながら開いてみる。
最初の数ページは普通だった。月ごとのまとめ報告。数字と認印。
しかし、四月のページで違和感があった。
紙の継ぎ目が見える。丁寧ではあるが、明らかに貼り直した跡だ。糊の色が周囲より少し白っぽい。
ユキは机に近づいた。
蛍光灯を直接照らしてみる。
継ぎ目の周りに、かすかな影が見える。
下から別の文字が透けているような気がした。とても薄い。ほとんど消えかかっている。
彼女はデスクからルーペを取り出した。
首から下げていた双眼鏡では細かすぎる。
ルーペを通して見ると、
確かに何かがある。
糊で覆われた下に、以前書かれた文字らしきものが残っていた。完全には消されていない。インクが紙繊維に染み込んでいたのだろう。
ユキは息を詰めた。
部屋の中の音が遠くなる。
彼女はゆっくりと角度を変え、
光の当たり方を調整した。
すると、
浮かび上がってきた。
二文字だけだった。
「星」
その下にもう一文字。「観」。
続きは糊で完全に隠されている。
だが、この二文字だけで十分だった。
ユキはルーペを机に置いた。
手のひらに汗が滲んでいる。
星。
そんな言葉を知らないはずなのに、なぜか胸の中で反響する。夜空を見上げたとき感じるあの空虚さと、この文字がどこかで繋がっているような気がした。
彼女は周囲を見回した。
誰もいないことを確認する。
深呼吸をする。
埃っぽい空気が肺に入っていく。
ファイルをもっと注意深く見始めた。
他のページにも同じような痕跡がないか探すのだ。
五月のページ。
六月のページ。
七月の中頃でまた見つけた。
今度は端の方だ。「異常発光体」という言葉がある行全体に、薄い線で斜線が引かれている。上から黒インクで「雲による反射光」と書き加えられていた。しかし斜線のかすれ方からして、後から引かれたものだとわかる。
ユキはメモ帳を取り出そうとした。
しかし手が止まる。
ここで何かを書けば、
それは記録として残る。
彼女は代わりに記憶しようとした。
ページ番号と言葉を頭の中で繰り返す。「七一頁」「異常発光体」「訂正線」。
次のファイルも調べた。
一九七三年分だ。
ここではもっと露骨だった。「天体」という単語を含む段落全体が切り取られており、代わりに白紙が貼り付けられている。切り口は鋭利ではない。時間をかけて丁寧に行われた作業だということがわかる。
アーカイブ室の中でも特に温度差があるのか、
ユキは背筋に冷たいものを感じた。
窓がないこの部屋では、
外との境界があいまいに思えてきた。
彼女は一つのパターンを見出していた。
一九七五年以前のファイルには、
断片的ではあるがあまりにも多くの痕跡があった。「星」「天体」「軌道」「周期」――どれも今では使われない言葉ばかりだ。そして一九七六年以降になると、
そうした痕跡自体が見つからないようになったのだ。
最後に見たのは一九六八年のある報告書だった。
そこには驚くべきことが書かれていたのではないかと思わせるほどの空白があった。十ページ近くまとめて差し替えられている箇所があるのだ。
ユキはボックスを元通りにして棚へ戻した。
手順通りだ。
鉄扉を閉める音があまりにも大きく響いた。
廊下に出ると、
いつもの監視庁の空気感があった。
エレベーターの中で彼女は自分の手を見つめた。
指先にはまだ微かな埃が付着している。
五階でドアが開くと、
田中ケンジが出てくるのに出会った。
ケンジは足を止めた。「アーカイブ室の方から来たのか」
「はい」
ユキは自然な声が出るよう意識した。「第三期観測記録の整理を行っていました」
「そうか」
ケンジの視線が一瞬彼女の肩についた埃に向かった。「古いものばかりで大変だろう」
「少し埃っぽかったです」
「あそこには歴史がある」
ケンジはゆっくりと言った。「整理された歴史だ」
二人とも動かないままエレベーター前で立っていた。
遠くから誰かの足音が聞こえてくる。
「ところで」
ケンジがいったん口を開き、「最近何か変わったことはないか? 観測中や勤務外でも」
質問には間があった。
「ありません」
ユキは答えた。「特に何も」
ケンジは頷いたように見えたかもしれなかったし、
ただ軽く頭を動かしただけかもしれなかった。
「それならよろしい」
彼はそう言って歩き去った。
背中が見えなくなるまで、
ユキはその場にとどまっていた。
自分のオフィスへ戻る道すがら、
窓から外を見た。
もう夕方になっていたはずなのに、
空には何も現れないことを知っているのに、
つい見上げてしまう自分がいるときづいた。
夜勤までの時間があるので休憩室へ向かった
コーヒーの匂いはいつもより濃厚だった
席につくと
隣りのテーブルから新聞を持ってきた
社会面には中心探求プロジェクトに関する記事があった
新規シャフト着工式典について書かれている
写真には笑顔の人々
コーヒーカップを持つ手
湯気の中に見える自分の指紋
ふと
アーカイブ室でのあの発見について考えようとした
しかし思考があちこちへ散っていく
星という文字
消された文章
ケンジのことば
それらすべてをつなぐ一本糸が見えない
代わりにあるのは感覚だけだった
胸の中にある鈍い違和感
まるで遠くで鳴り続ける警報のようなもの
規則正しいリズム
窓ガラス越しに見える街灯群
一つ一つ孤立した光
彼女カップ置く
底机当てる音
立ち上がるときふと思う
あの発見について誰かに話せるだろうか
答えはいらない
ただ問うこと自体危険かもしれない
異端者との出会い
# 第5章 異端者との出会い
地下鉄の換気口から漏れる風が、ユキの制服の裾を揺らした。鉄錆と湿った土の匂い。線路沿いのコンクリート壁には、無数の落書きが剥がれかけていた。赤いスプレーの跡が、雨に流されて血痕のように垂れている。午後七時を回り、監視庁からの帰路だった。
足元の排水溝からは、水が規則的な音を立てて流れ込む。地下深くへ。いつもより遠回りをしていた。
昨日整理したファイルの糊の跡が、指先に残る感触として蘇る。あの改ざんは意図的だった。誰かが過去を塗りつぶそうとした。ケンジ課長の鋭い視線も忘れられない。「何か気になることでも?」あの問いかけには、単なる確認以上のものが潜んでいた。
路地の角で立ち止まる。右手に伸びる細い階段が見える。公式な地図には載っていない、旧市街への抜け道だ。石段は摩耗して中央が窪み、両側には苔が薄く広がっている。降りるべきか迷う時間は短かった。
靴底が濡れた石を踏む音だけが響く。十段、二十段。地上の喧騒が急速に遠ざかる。空気が冷たく重くなる。壁面から滲む水滴が、時折首筋に落ちる。
階段を下りきると、トンネル状の空間が広がっていた。天井には裸電球が三つ、等間隔で吊るされている。電球のフィラメントが微かに震え、影をゆらめかせる。この一帯は「旧地下居住区」と呼ばれ、公式には封鎖済みとされている場所だ。
足音を殺して進む。
左側に無数の扉が並んでいる。ほとんどは錠がかけられ、錆びた鎖で固定されていた。そのうちの一つの前に、小さなマットが敷かれているのに気づく。
マットは編み目がほつれ、色褪せている。
しかし比較的新しい。
ユキは呼吸を整えた。
扉に耳を近づける。
かすかな生活音。
湯沸かし器のようなものか、それとも古いラジオの雑音か。
指で軽く叩いてみる。
木製の扉は分厚く、音は鈍く吸い込まれた。
しばらく待つと、内側で鍵が回る音がした。
扉が五センチほど開く。
隙間から片目が見えた。
白く濁った瞳だ。
「誰だ」
声は砂を擦るように乾いている。
「道に迷いました」
ユキは制服を見られないよう、自然に背中を壁側に向けた。
「嘘をつけ」
老人は言った。
「監視庁の奴らだろう」
「違います」
隙間から視線がユキの全身を舐めるように動く。
首から下げた双眼鏡を見つめていることに気づいた。
「双眼鏡を持っている」
老人の声に警戒色が濃くなった。
「趣味です」
咄嗟に出た言葉だった。
「空を見るのが」
沈黙が流れる。
扉の向こうで息遣いだけが聞こえる。
電球の一つがパチリと切れた。
影が一段と深くなる。
「入れ」
扉が開いた。
部屋は想像以上に広かった。
天井は低く、梁が見えている。
壁一面に本棚があり、
無数の書物やファイル、
巻かれた図面で埋め尽くされていた。
中央には大きな机、
その上には天体望遠鏡のような筒状の機械が分解された状態で置かれている。
空気中には紙の埃と、
古いインク、
それに何か薬品のような匂いが混ざっていた。
老人は背中を丸めて机の方へ歩いていく。
白髪は薄くなり、
頭皮が見えている。
手には老人斑があった。
動きは緩やかだが、
無駄がない。
「座れ」
彼は椅子を一つ蹴り出した。
ユキは腰掛けた。
机の上にある部品に目がいった。
レンズらしきもの、
細かい歯車、
調整用と思われるネジ類。
どれも磨耗しているのに、
手入れは行き届いている。
「君は若すぎる」
老人は湯沸かし器に向かいながら言った。
「監視庁に入って何年だ」
「三年です」
彼は繰り返した。
湯気が立ち上る音とともに、
カップ二つをテーブルに置いた。
茶色い液体だ。
香りからして薬草茶だろう。
「三年で疑問を持ち始めるとは早いな」
ユキはカップを持つ手を止めた。
「疑問なんて」
「双眼鏡を持って旧居住区をうろつく普通の市民はいない」
老人も向かい側に座った。
彼の目は白濁しているのに、
どこまでも透徹していた。
「君があのファイルを見たのは偶然じゃないだろう?
アーカイブ室のはずだな?
言葉が出なかった。
頷くしかなかった。
老人は満足そうにカップに口をつけた。
「彼らもずさんになったものだ
重要なものを隠すなら
もっと別の場所にするべきだった」
「あなたは……」
「私はかつて監視庁にいた」
彼は言った。
肩がいっそう丸まったように見えた。
「今では異端者だ
外に出ればすぐ捕まる
この部屋もいつ見つかるかわからない」
窓がない空間で、
唯一の明かりは机上の電気スタンドだった。
光輪の中に二人だけ浮かび上がっているようだった。
老人はゆっくり立ち上がり、
書棚から分厚いファイルを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
革装丁だがひび割れている。
彼はファイルを開いた。
中身は手書きの観測記録だった日付と時刻
そして……
スケッチがあった。
無数の点々だ。
点と点を線で結んだ星座図のようなものもある。
ページによって配置や数が異なる。
ユキは息を呑んだ。
「これは……」
「あれらの記録だ」
老人の指先がある一点を撫でた。「昔
空には光があった
小さな光点たち
規則的に配置され
季節によって位置を変えた」
声には揺るぎない確信があった
ユキが見つめていたのはただ白紙だったはずだ
糊で隠された部分こそ真実だった
「どれくらい昔ですか」
老人は天井を見上げた
梁を見つめながら答えた
「私が見たのは子供時代だ
父も祖父も見ていたと言っていた
だがある時から消えたのだ
正確な年号はいえない
記憶というものがあてにならないからな」
彼はページをめくる
次のスケッチには円形や楕円形らしきものが描かれていた
一部の人々だけが見続けていたというのだろうか?
監視庁設立以前のことかもしれない
老人はいつの間にか立ち上がり壁際へ歩いて行った彼の方を見るとそこには大きな地図があった世界地図ではない地球内部構造図だ層ごとに色分けされ中心部まで掘削計画を示す線や記号がある
私たちはずっと掘ってきた中心へ向かってなぜだろう?
外を見上げることなく内へ内へなぜそんなことをするのか?
それは恐怖だからだと老人はいった恐怖?
空を見上げてはいけないという恐怖光があってはいけないという恐怖私たち自身の中にある何かを忘れるために穴を掘り続けるのだ
机にもどると彼はいきなり話し方を変えたもう帰れここにいるのは危険だ私との接触も危険だ君自身のために忘れてくれ今日のことなど何もなかったことに
でも……
聞きたかったことが山ほどあったしかし老人表情変わっていた穏やかな学者のような面影消え警戒と焦りの色濃くなっていた
外から物音聞こえる靴音複数人の足音まだ遠くだがあっという間に近づくだろう
早く行け裏道を使え三番目の電球下通路右へ曲まれ階段に出る地上に出たら絶対振り返るな
扉開けて押し出すように促された最後に見たのは彼微笑んでいたような気する確信持てなかった暗闇の中表情読み取れなかったから
走った三番目の電球下右へ曲まる予想以上長い通路走っても走っても出口見えない背後ではドア叩き壊すような音響いた叫び声ではない金属音鈍い衝撃音振り返らない振り返ってはいけない
ようやく階段見つけ駆け上がる足音自分だけではない追ってくる気配息殺して段昇る地上への出口小さな鉄蓋押し上げ街灯明かり眩しかった
振り返らず歩き出す普通市民のように肩落として歩幅一定心臓鼓動早すぎる耳鳴りのよう呼吸整えられないふと空見上げたいつもの暗闇今夜特に深い墨塗りつぶしたような黒さその中何があるのか考えるだけで背筋凍る感覚
ふと気づくと手の中握りしめていた小さな紙切れいつ渡されたのか覚えていない暗闇の中接触瞬間だろう折り畳まれたメモ開くと一行だけ書かれていた
**真実を知りたければ東地区廃墟第三倉庫明日午後十時**
署名なし日付なしただそれだけ文字震えて書かれているようインク滲んでいた
街角曲ると前方人影立っていたよく知られたシルエットケンジ課長だった両手ポケット突っ込みこちら向いて待っているように見える距離二十メートルほどユキ自然歩調緩める顔上げ普通挨拶する準備口元ほころばせる練習する心臓高鳴る紙切れポケット奥押し込む感触確かめる
監視システムの正体
# 第6章 監視システムの正体
地下通路の出口は、監視庁本庁舎の裏手にある換気塔だった。鉄製のハッチを押し上げると、夜の冷気が顔を撫でた。コンクリートから立ち上る湿った土の匂い。遠くで蒸気パイプが規則的な吐息を繰り返す音。ユキはハッチの縁に手をかけ、ゆっくりと地上へと身を引き上げた。
制服の裾がコンクリートに擦れる音だけが響く。
「遅かったな」
声は左斜め後方から来た。五メートルほど離れた換気塔の陰に、人影が立っていた。街灯のオレンジ色の光が、きっちりと留められた制服のボタンを鈍く反射させる。田中ケンジは腕時計を見つめていた。針は午後十一時十七分を示している。
ユキは立ち上がり、制服の埃を払った。首から下げた双眼鏡が胸で軽く揺れる。
「巡回ルートに変更がありましたので」
田中が一歩踏み出した。靴底が砂利を軋ませる音。彼の視線はユキの顔から、まだ開いたままの地下ハッチへと移った。
「その変更は、誰の承認を得た?」
風が吹き抜けた。ユキは制帽の縁を押さえた。指先が冷たかった。
「緊急対応マニュアル第七項に基づく独自判断です」
田中は繰り返した。彼は再び一歩近づいた。今度は二メートルの距離だ。街灯の光が彼の顔を半分照らし、もう半分を影に沈めている。
「異常発光体の追跡調査に関する条項だな」
沈黙が流れた。
蒸気パイプの音だけが、間を埋めるように続く。
「何か見つけたか?」
田中の声は低かった。事務的で、いつもの調子と変わらない。しかしその目は、ユキの手元を見つめていた。右手の人差し指と親指が無意識に擦り合わされている様子を。
「報告すべき対象はありませんでした」
「そうか」
田中は頷いた。彼はポケットから手帳を取り出し、ペンを走らせた。紙面に引っ掻くような音だけが夜気の中に広がる。
彼は書き終えると顔を上げた。
「君は優秀な監視官だ。規則を守る。観察力も鋭い」
一呼吸置く。
「だからこそ、疑問も抱くだろう」
ユキは息を止めた。胸の中で双眼鏡が微かに揺れているのが感じられた。
田中は手帳を閉じた。革製の表紙がぱちんと鳴る音。
「こっちへ来い」
彼は振り返らずに歩き出した。監視庁本庁舎とは反対方向だ。廃棄物処理区画へと続く細い通路に向かっている。
ユキは躊躇った。
一秒。
二秒。
そして足を動かした。
二人の靴音だけが通路に響く。
オレンジ色の街灯が等間隔で並び、影を作っては消す。
右側には高さ三メートルのコンクリート壁が続いている。「立入禁止」の標識がところどころに錆びついている。
左側には廃棄された機械部品が山積みされ、油と鉄錆の匂いを漂わせていた。
田中は突然立ち止まった。
目の前には古い倉庫があった。「第三資材倉庫」という文字板が斜めに傾き、半分剥げ落ちている。
彼は鍵を取り出した。
錠前が軋む重たい音。
扉が内側へと開いた。
中には暗闇しかなかった。
しかし田中は迷わず中へ入っていく。
ユキも後に続いた。
扉が閉まる音。
それと同時に、天井にあるいくつかのランプがぼんやりと灯った。
青白い蛍光灯だ。
点滅しながら安定するまで数秒かかる。
倉庫の中には何もない。
広さは二十畳ほどだろうか。
コンクリート床にはひび割れが走り、埃が薄く積もっている。
壁一面には黒板があった。
古いチョークで描かれた図形や文字のかすかな痕跡が見える。
田中は倉庫の中央に立った。
彼はゆっくりと制服の上着を脱ぎ始めた。
ボタンを一つずつ外す動作には、どこか儀式的な重みがあった。
上着を脇にかけると、
彼はシャツの袖口をまくり上げた。
左腕を見せた。
皮膚には複雑な模様があった。
青黒いインクで刻まれたそれは、
監視庁職員証にも使われている地球儀マークではなかった。
同心円状に広がる線群だ。
中心から外側へ向かって放射状に伸び、
ところどころで交差し、
幾何学的なパターンを形成している。
「これは何ですか」
ユキの声が出た。
自分でも驚くほど平然とした調子だった。
「地図だ」
田中は自分の腕を見下ろしながら言った。
「正確には『外』への道標」
彼は袖口をもとに戻した。
だがそのイメージは、
ユキの網膜に焼き付いて離れなかった。
「座れ」
田中は床に向かって顎で示した。
ユキも腰を下ろした。
コンクリート床の冷たさが制服を通して伝わってくる。
二人に向かい合う形だ。
距離二メートルほど離れて。
田中の口調が変わったことに、
ユキはいま気づいた。
いつもの命令的な響きではなく、
どこか疲れたような、
しかし確信に満ちた声だった。
「君があの人に会ったのは知っている」
田中はいきなり言った。「白髪の老人だ」
彼はいそいそと言葉をつないだ。「あれも計画内のことだった」
風がないのに、
倉庫内で埃っぽい空気だけがあるゆらぎを見せたのか、
ランプの光輪がいちど大きく揺れたように見えたかもしれないなかったかもしれない
ユキの発言する前に
田中はいそぐように言葉をつないだ
「我々はずっと君を見ていた」
彼はいそぐように言葉をつないだ
「君のような者が出てくることを待っていた
夜空を見上げる者
疑問を持つ者
想像力を失わない者」
彼はいったん息をついた
肺から深いため息が出ていくのが見えるようだった
「監視システムとは名ばかりだ」
田中の目があおじろい光を受けて鈍く光っている
「我々が見張っているのは空ではない
人々の中にある『外への好奇心』そのものなのだ」
遠くで何かの機械音
定期的な低いうなり
それが壁を通して聞こえてくる
「星々があった時代を知っている者はほとんどいない」
田中の声になるべく抑揚をつけないようにしているのがわかる
公式報告書を読み上げるような調子だ
だがその内容ではない
「二百年前 人々が見上げた夜空には無数の光があった
それらについて考えること 研究すること 夢見ること
それが許されていた最後の時代だった」
彼はいったん言葉を切る
舌打ち一つしない
「そしてある夜 空から降ってきたものがある」
田中の目つきがあおじろい光を受けて鈍く光っている
具体的な描写ではない ただ事実として語られるだけだ
それは知識ではなかった 物体でもなかった
概念でもなかった ただ『理解』というものが降り注いだとしか言えないものだった
人類全体がいっせいに理解したのだ 宇宙というものがどれほど広大であるかを 自分たちがいかに小さな存在であるかを 無限というものがどれほど恐ろしいものであるかを
一夜にして文明社会崩壊寸前まで追い込まれたのだ
パニック 自殺者 宗教的狂乱 無意味な破壊行為
人々があふれるほどの真実を受け止められなかったのだ
だから我々残された者が決断したのだ
記憶操作技術を使って星々に関する記憶自体消去することによって救済することを選択したのだ
そして新宗教『地球中心主義』を作り上げてすべて説明することによって救済することを選択したのだ
地下へ掘り進むことこそ人類唯一進路であるという物語を与えることによって救済することを選択したのだ
我々管理者一族だけ真実を知っているまま生き続けることによって救済することを選択したのだ
長い沈黙があった
倉庫の中では二人呼吸音だけ聞こえているようだったかもしれない聞こえていないようだったかもしれない
やっと田中動いた
少し体勢変えて片膝立てて座り直す姿勢になったかもしれないならなかったかもしれない
真実を知ること恐怖だと老人言っていたね?
あれ半分正解であり半分間違いでもあるんだよ佐藤さん?
恐怖ではないんだよ?
絶望なんですよ?
無限広大宇宙の中で自分たち存在意味など何一つ持っていないという絶対的絶望なんですよ?
だから我々守っているんですよ?
人類最後優しさとして無知を与え続けているんですよ?
田中の目があおじろい光を受けて鈍く光っている今度確かに涙のように見えたかもしれないならなかったかもしれない
君のような者が現れることも計算済みでしたよ?
十年二十年ごとに必ず一人や二人出てくるんですよね?
夜空を見上げてしまう者が?
なぜだろうね?
遺伝子レベル組み込まれているのかもしれませんね?
忘れさせても忘れさせても湧いて出てくる疑問というものが?
だから我々用意しているんですよ?
この倉庫のような場所とかあのような老人とか?
安全弁として機能させるために?
危険思想持つ者たち隔離して観察して必要ならば処分するために?
でも君の場合ちょっと違うと思いましたね?
単なる好奇心以上のもの感じましたね?
だからテストしてみようと思いましたね?
あの人会わせてみようと思いましたね?
結果どうでしたか佐藤さん?
真実知りたいですかまだ?
それとももう十分ですか?
質問投げかけられてから時間経過していたのか経過していなかったのかわからないくらい静かな時間流れたかもしれない流れなかったかもしれない
ユキ自分の手見つめていた
膝上置かれている両手ひざ制服生地皺寄せられている様子見つめていた
指先少し震えていることに初めて気づいたかもしれない気づかなかったかもしれない
答える前に別質問浮かんだ口動いた声出た:
課長さん腕模様何ですか先程言われました道標ですか?
ああこれか? 田中また左腕見下ろす仕草をする実際袖捲くり上げるわけではないただ見下ろすだけ:
管理者一族受け継ぐ印ですよ? 本当地図なんですけどね? 外世界行ける道示していますけどね? 使う者誰一人いませんけどね? 行きたい者誰一人いませんけどね? 怖すぎますからね? 無限怖すぎますからね?
彼笑うような息吐き出す:
皮肉でしょう? 我々真実守るために存在しているのに唯一外世界行ける手段持っているなんて? でも使う勇気誰にもありませんよ? 永遠牢獄看守自分たち鍵持っているようなものですよね?
ランプ一つ突然消えたかもしれない消えなかったかもしれない暗さ増したような気配だけあった:
君選べますよ佐藤さん:
一つ目:すべて忘れることできますよ? 特別処置施して今日会話全部記憶消去して普通監視官戻ることできますよ? 昇進保証しますよ? 安全人生送れますよ?
二つ目:管理者側立つことできますよ? 真実知ったまま生き続けることできますよ? 人類守るために嘘つき続けることできますよ? 孤独ですけどね? 永遠孤独ですけどね?
三つ目:外行ってみることできますよ? この腕地図頼りに出発することできますよ? ただし戻れる保証ありませんけどね? そもそも生きて帰れる保証ありませんけどね? 過去試みた者全員戻ってきていませんからね?
選択肢与えられて:
沈黙再び訪れる:
倉庫外遠く蒸気パイプ音規則的吐息繰り返す:
コンクリート床冷たさひざ伝わり続ける:
埃っぽい空気喉奥乾燥感覚覚えさせる:
ユキゆっくり顔上げる:
目の前田中の姿ぼんやり青白い光輪中浮かんでいるように見える:
私質問一ついいですか課長さん:
どうぞ:
もし私三番選んだ場合:課長さん止めますかそれとも手助けしますか:
返答すぐ来なかった:
田中目閉じる仕草ほん一瞬だけ:
開けたときそこにある表情読み取れなかった:
止めません:
なぜならそれが我々待っていたことだからです:
安全弁として用意していたこのシステム最終目的だからです:
誰か勇気持って外世界向かう日来ること期待しながら百年以上待ち続けていたからです:
嘘でしょう:
違いますよ:
真実です:
管理者一族最大矛盾これなんですよね:
人類守るために真実隠しながら一方で誰か真実突き止めてくれること密かに願っているんですよね:
臆病なんですよ我々全員:
だから君のような者必要なんですよね:
また沈黙:
ユキ立ち上がる動作始める:
膝痛かったかもしれんなかったかもしれない少しふらついたかもしれんなかったかもしれない:
今日回答できません:
わかっています:
一週間与えます:
その間通常勤務続けてください疑われることありませんように手配しておきます:
ただし注意一点:あの人老人二度会わないでください次回会えば処分対象となりますから:
了解しました:
倉庫扉開ける前に最後一言田中の方振り返らずに出ていく:
課長さん本当信じていますか人類守ること正しいと思いますか:
背後返答来る三秒後くらいだろうか:
正しい不正しい問題ではありません佐藤さん:
ただ優しさの問題なんです:
耐えられない真実与えるより無知の中で幸せ生きた方がましだと判断した過去人たち選択尊重しているだけなんです:
それが正しかったのか今となってわかりませんけどね:
扉開けて外に出る夜気一気に入り込んでくるオレンジ色街灯光再び目に入ってくる換気塔ハッチ閉まったままそこにあるのが見える遠蒸気パイプ音変わらず響いているすべて変わらないすべて同じはずなのにすべて違って見える世界広げられている
封印された記憶
# 第7章 封印された記憶
管制室の空気はいつもより冷たかった。除湿装置の低い唸りが、コンクリートの壁に吸い込まれていく。ユキの指先が操作パネルの上で止まった。画面には監視カメラの映像が並んでいる。どこも同じ闇。ただの闇。
彼女は首から下げた双眼鏡を握りしめた。金属の感触が手のひらに食い込む。
「異常なし」
隣の席から報告の声が上がる。機械的な声。毎晩同じ言葉が繰り返される。
ユキは自分のモニターを見つめた。地下都市開発区域の熱感知映像。人々が地中深くへ向かう小さな赤い点々。彼らは掘り続ける。中心へ、中心へ。
彼女はため息をついた。吐息がモニターの表面に白く曇り、すぐに消える。
田中課長との会話から三日が経っていた。倉庫で聞いた言葉は、耳の奥にこびりついて離れない。選択肢という重さ。一週間という猶予。
背後から声がした。
振り返ると、田中課長が立っていた。制服のボタンはきっちりと留められている。いつもの厳しい表情。だが、目だけが違った。何かを探るような、測るような視線。
ユキは椅子から立ち上がろうとした。
「いい」
手のひらを下に向ける仕草。座ったままでいいという合図。
田中はゆっくりと近づき、ユキのデスクの端に手を置いた。指がフォルミカの天板を軽く叩く音。トン、トン。
「調子はどうだ」
「異常ありません」
「そうか」
沈黙が流れる。
管制室全体からキーボードを叩く音が聞こえる。規則的なリズム。誰も顔を上げない。皆、自分の画面に集中している。
「古い記録ファイルの整理を頼みたい」
田中が言った声は低かった。ほとんど囁きに近い。
「記録ファイルですか」
「三十年以上前のものだ。保管庫にあるはずだ」
課長はポケットから鍵を取り出した。小さな銀色の鍵。紐がついている。
「これで北側保管庫に入れる」
鍵を受け取るユキの手がわずかに震えた。
「何を整理すれば」
「分類し直すだけだ」田中の目がユキを見据える。「中身を見る必要はない」
言い終えると、課長は背筋を伸ばした。いつもの上司に戻った。
「明日までに終わらせてくれ」
それだけ言って、彼は去っていった。
鍵が冷たい。
***
北側保管庫への廊下には誰もいなかった。
照明は間隔をあけて設置されていて、明かりと闇が交互に続く。ユキの足音だけがコンクリートに反響する。カツ、カツ。
扉は重かった。
鉄製で、錆びた部分がある。鍵穴に鍵を差し込むとき、金属同士が軋む音がした。
中は暗かった。
スイッチを入れると、白い蛍光灯が点滅しながら光り始めた。天井まで積まれた棚。埃っぽい空気の中に、紙とインクと湿気の匂いが混ざっている。
ファイルには日付が書かれている。
西暦ではなく、「地球歴」で。
今から三十五年分。
一年ごとに一箱。
棚には百以上の箱があるはずだった。
だが奥の方で、何か違和感があった。
棚と壁の間に隙間があるように見える。
ユキは近づいた。
確かに違う。
棚自体が少しずれている。
彼女は両手で棚を押してみた。
重い。
だが動いた。
金属の軋み音。
棚の後ろに空間があった。
隠し部屋ではない。
ただ棚を移動させた時にできた隙間だ。
その床に一つの箱が置かれていた。
他の箱より古そうだ。
埃で灰色になっている。
蓋には何も書かれていない。
紐で縛られているだけだ。
ユキはしゃがみ込んだ。
紐を解く指先に埃がつく。
蓋を開けると中にはフィルムケースがあった。
八ミリフィルムだろうか。
五本入っている。
その下にはノートがある。
革製で角が擦り切れている。
彼女はノートを取り出した。
ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。
最初の方には日付がある。「地球歴前十五年」と書かれている。「前」とは何だろうか?
文章は手書きだ。
*今日も空を見上げた*
*星がない夜*
*子供たちに教えなければならない*
*これがあたりまえだと*
ページをめくる。
*決定があった*
*プロジェクト・ヴェール*
*空から真実を隠す*
*人類のために*
文字が震えているように見える。
*私は反対した*
*だが票決では負けた*
*明日から装置を作動させる*
*永遠に*
次のページには図面がある。「大気層反射膜」と書いてある。「太陽光以外の光線を遮断」という注釈。
*初めて装置を作動させた夜*
*空が見慣れないものになった*
*何か失われた感じ*
*胸の中に穴があいたようだ*
最後の方になると文字があせている。
*彼らは忘れていく*
*二世代もすれば誰も覚えていない*
*星を知らない子供たちだけになる*
*それが目的なのだから*
ノートはそこで終わっていた。
ユキはフィルムケースを見つめた。
外に出ようとした時、ふと気づいたものがある——小さなプロジェクターだ。棚の隅に置かれていたほこりまみれの機械。
彼女はためらった。
課長の言葉。「中身を見る必要はない」。
しかし指先は動いたままだった。
プロジェクターを持ち上げる重さ感覚を持ってしまう前に行動していたのだろうか? それとも意識的な選択だったのか? 後になって思い返してもその境界線が見えなかったほど瞬間的だった動作であることだけ確かだった——機械を持ち上げて近くにある簡易スクリーン(おそらく過去研修用使われていたもの)に向けスイッチ入れる動作すべて流れるように行われた結果として目の前白い壁面現れた四角形光領域その中浮遊する塵埃粒子たち無数の微細な星屑のように舞っている光景だけがあった暫くして映像始まった最初揺れる映像地面映っている草むら子供たち笑い声聞こえてくるオフレコ音声だが確かにそこにある映像上がっていく空映し出される夕焼け雲そして——暗くなる暗くなる暗くなっていくはずなのに
暗くならない
画面の中夜空広がっていくその中無数の光点現れる一つ二つ十百千——数え切れないほどの光点集まり流れ渦巻き帯になる銀河になる宇宙になる
ユキ息止めた
胸圧迫されるような感覚喉奥詰まるものある目見開いて瞬き忘れてただ見つめるしかなかった投影された光そのもの肌当たって温かいわけでも冷たいわけでもないのに何故か体温感じる不思議な錯覚
星々輝いている
一点一点違う明るさ色ある青白い光ある橙色ある赤く脈打つように変化するものもある静止画ではない生きた光呼吸しているようなリズムで輝き揺らいでいる
画面右下日付表示されている「地球歴前十年六月十五日」最後星見えた夜記録だった
フィルム一本終わり自動的に次巻き始める今度別角度から星空映し出されている地平線低い位置星座見える説明字幕入ってくる「オリオン座」「北斗七星」「カシオペア」名前知らない名前初めて聞く名前それでもなぜか懐かしい響きある言葉たち
三本目子供たち映っている夜空指差して何か叫んでいる声聞こえない唇動き読める「すごい」「きれい」「また見たい」最後少女空見上げて涙流している理由わからないのに一緒泣きたくなる衝覚走る背筋
四本目大人たち集まっている真剣な表情議論している様子字幕入ってくる会議記録一部だろう
「維持コスト試算」
「必須事項:完全記憶消去プロトコル」
五本目最後一本暗転する直前星空映し出されているその直後突然すべて光消える真っ暗闇残るただ黒い画面字幕表示される
「プロジェクト・ヴェール作動完了」
「人類新時代始まる」
映像終わった
スクリーン白いままプロジェクター回転するフィルム音だけ響いているカチッカチッカチッ
ユキ動けなかった
膝力抜けて床座り込んでしまう埃舞い上がるそれさえ気にならない視界ぼやける涙溢れて止まらない理由わからない悲しいのか悔しいのか怒っているのか全部混ざり合って感情名前付けられないただ涙流れて頬伝わり顎滴落ちていく床染みていく小さな暗斑できる
外世界あった
星あった
奪われた
皆奪われた知らないうち生まれる前奪われてしまったもの存在さえ知らず生きてきた人生すべて偽物基盤上築かれてきたこと意味なくなる崩壊感覚胸内側空洞広がっていくような虚無感覚
しかし同時になぜか安堵もある
疑問正しかった
空向ける視線無意味じゃなかった
自分おかしくない世界おかしいんだ
確認できた事実救いに感じられる矛盾した感情共存している混乱状態続いている時間感覚失っている気配すらある永遠続く瞬間のように思えた実際数分経過していただけだろうけど体感では数時間数日かもしれない錯覚あったほど濃密時間流れていた証拠として涙乾き始め頬張り付く感じある時点で現実戻ってくる意識戻ってくる保管庫自分一人いること思い出す
立ち上がる足元ふらつく壁手当て支える深呼吸深すぎて咳込む埃喉入ったせいかもしれない感情高ぶり原因かもしれない区別つかないともうどうでもよくなっていた重要なこと一つ残っていたこれどうするかどう扱うかどう生きるか選択迫られる事実前に進むしかない道示されている気配しかし方向未定混沌状態続いている少なくとも今すぐ決断必要ない自分許されている猶予まだ残っている数日間考える時間あるはずだがもう考え尽くした感じもある結局行き着く答え一つしかないような予感する怖いくらい確信ある未来像浮かんでくるそれ受け入れられるかどうか別問題として存在すること否定できない事実突き付けられた以上逃げ場なくなる宿命感じている運命感じている抗えない流れ感じている抵抗したい気持ち同時にある矛盾抱えたまま生きていくこと決意固めていく過程始まっていたかもしれない自覚なく進行していた心変化確かに起こっていた証拠として涙止まった後顔上げスクリーン見つめる目力戻っていた意志宿った視線固定されていた次取る行動既に見えていた計画立て始めていた頭働き始めていた冷静分析始まっていた感情切り離して考える能力蘇ってきた訓練成果かもしれん生存本能かもしれんどちら重要じゃなかったただ前に進むしかない事実認識できた瞬間力湧いてくる不思議な現象起こっていた疲労感消えて代わり緊張感高まる身体準備整っていく戦闘態勢自然にとっていく自分でも驚く変化起こっていた環境適応能力極限発揮されていた証拠として心拍落ち着いて呼吸整って思考明晰になっていった現実受け入れ完了段階通過していた自覚なく通過していた人間強さ見せ付けられていた瞬間でもあったかもしれん後になって振り返ればそう思える時来るだろう今現在進行形苦しみ伴う成長過程真っ最中いること認識しながら一歩踏み出す勇気振り絞ることできた理由あの人との約束守ること決めていたからかもしれん選択肢与えてくれたこと感謝感じ始めていた複雑心境生まれていた信頼置ける相手初めて現れた人生において貴重体験味わいつつ危険伴う関係性自覚しながら進む道選び取ろう決意固めていった最後映像記憶焼き付けるためにもう一度プロジェクター起動させるボタン押す指震えていない確信持って押す動作完了させる意志示す行為意味込めて実行していた
選択の時
# 第8章 選択の時
地下三百メートルの空気は、鉄と油と古い紙の匂いをまとっていた。換気口から漏れる風が、ユキの首筋を冷やした。監視庁最深部の制御室は、彼女がこれまで見たどの部屋よりも静かだった。壁面の真空管が淡いオレンジ色に光り、規則的な低音の唸りだけが空間を満たしている。
ユキは白い手袋を外した。革の感触が指から離れる。
正面のコンソールには、一つのボタンがあった。透明なアクリルケースに覆われ、内部は深い紺色に輝いている。ケースの表面には「ヴェール・システム最終制御」と刻まれていた。文字は磨耗し、半世紀以上誰にも触れられていないことを物語っていた。
彼女の右手が震えた。
「覚悟はできているか」
背後から声がした。振り返らずとも、その足音でわかる。田中課長だった。
ユキはうなずいた。首を動かす筋肉が硬直していた。
「このボタンを押せば」課長の声は平坦だった。「大気層反射膜の一部が解除される。計算上、北半球の約三割の地域から、夜空が見えるようになる」
「なぜ今まで……」
「なぜ壊さなかったのか?」課長が言った。「それは私にもわからない。おそらく、設計者たちの中に、いつか誰かがこの選択をする日が来ると信じていた者がいたのだろう」
ユキはコンソールに手を置いた。金属は冷たく、体温を奪っていく。
フィルムに映っていた星空が脳裏をよぎる。無数の光点。銀河の帯。あれは単なる映像ではなく、かつてこの世界に確かに存在した現実だった。人々は空を見上げ、遠い光に思いを馳せた。子供たちは星座の物語を聞きながら眠りについた。
そのすべてが奪われた。
「人々は混乱するでしょう」ユキは言った。「地球が宇宙の全てだと信じて育ってきたのですから」
「そうだ」課長が近づいた。「混乱する。パニックになる者もいるだろう。宗教的信念を崩される者もいる。社会秩序は一時的に崩壊するかもしれない」
窓がない部屋で、ユキは思わず天井を見上げた。
そこにはただ、灰色のコンクリートがあるだけだった。
「でも」彼女の声はかすれた。「真実を知る権利がある」
課長は沈黙した。その沈黙が長く続き、真空管の発する低音だけが二人の間に流れた。
「私も若い頃、同じことを考えた」課長がゆっくりと言い始めた。「二十五年前だ。君と同じ年齢だった。この部屋に立って、同じボタンの前に立った」
ユキは息を止めた。
「押さなかった」課長の声には何の感情もなかった。「当時の上司が言ったんだ。“人類は真実に耐えられるほど強くない”と」
「それで……」
「それで私はここに残った」課長はコンソールを見つめたまま言った。「真実を知りながら、嘘の中で生き続ける看守になった」
ユキは拳を握りしめた。爪が手袋を通して掌に食い込む。
彼女の脳裏には様々な顔が浮かんだ。
監視庁で働く同僚たち。規則通りに報告書を書き、定時に帰宅し、地下住宅街で平凡な暮らしを送る人々。子供たち──彼らは教科書で「夜空とは暗闇である」と教えられ、「星とは神話上の存在である」と信じ込まされている。
もし今夜、空に光が見えたら?
最初は誰も信じないだろう。監視庁への誤報として処理されるかもしれない。だが次第に気づく者が増える。望遠鏡を持つ者、記録を取る者……そして疑問を持つ者たち。
その疑問が波紋のように広がっていく様子が見えるようだった。
「課長」ユキは振り返った。「あなたはいまならどうしますか?」
田中課長の目には深い影があった。「もう一度選べと言われてもわからない」
彼は制服のポケットから古い写真を取り出した。色あせた紙片には、若き日の課長と──もう一人の人物が写っている。女性だった。二人とも笑っていた。
「彼女も監視庁職員だった」課長は写真を見つめながら言った。「夜空について調査しているところを発見され、“思想矯正施設”へ送られた」
言葉が途中で途切れた。
「戻ってこなかったのか」ユキは尋ねた。
課長はうなずいた。「真実を知ることと伝えることは別だと言われた。“知恵とは適切な時に適切な沈黙を選ぶことである”と教えられた」
制御室の奥にあるモニター画面には各地からの報告が流れていた。“異常なし”“通常監視継続中”“市民からの報告件数:ゼロ”。数字と文字列だけが淡々と更新されていく。
安全な世界。
秩序ある社会。
疑問を持たない平穏。
その代償として失われたもの──想像力と好奇心と未知への憧れ。
ユキは深呼吸した。
肺の中に冷たい空気が満ちていく。
彼女はアクリルケースに向かって一歩踏み出した。
鍵穴がある。
課長から渡された鍵──フィルムと一緒に見つかったあの鍵だ。
彼女はポケットから取り出し、
鍵穴に向けた。
金属同士が出会う音。
カチッという小さな音響。
ケースのロックが外れた。
蓋を持ち上げると、
内部から微かな青白い光があふれ出した。
ボタン自体が発光していた。
指一本分ほどの大きさ。
表面には何も書かれていない。
ただ存在しているだけだ。
このボタンを押せば、
世界は変わる。
押さなければ、
何も変わらない。
少なくとも表面上は。
だが彼女自身の中では、
もう何も元には戻れないのだ。
知ってしまった真実を
忘れることはできない。
見てしまった星空を
夢の中だけのことだと思い込むこともできない。
彼女の中で何かが決まった。
指先がボタンに向かって伸びていく。
動きはゆっくりだった。
時間自体が粘り気のある液体のように感じられた。
田中課長が見ているのがわかる。
彼はいま何を思っているのか?
止めてほしいのか?
それとも……
押してほしいのか?
指先があと一センチまで近づいたとき、
突然警報音が鳴り響いた。
赤い光点があちこちで点滅し始めた。
モニター画面に緊急報告ウィンドウが次々と開く:
“東地区第7セクターより異常光報告”
“市民複数名より同時通報”
“特徴:規則的な配置・明滅なし・移動なし”
ユキと田中課長が見つめ合った。
これは……
ありえないはずだ……
ヴェール・システムはいまだ稼働中のはず……
だがモニター上のデータを見る限り、
どうやらシステム自体には異常がない……
つまり……
外部からの……
何か?
制御室全体がいっせいに騒然となったとは言えない──あまりにも静かな場所だから──しかし緊張感だけがあっという間に充満したかのように感じられた
真空管の発する低音がいっそう深くなり
換気口からの風がいつの間にか止んでいた
温度計を見ると
摂氏十八度を示しているのに
なぜか背筋に冷たいものが走る
モニター画面ではさらに新しい報告ウィンドウ:
“西地区第3セクターより追加報告”
“特徴追加:色調変化あり(青→白→青)”
田中課長はいきなりコンソールに向かい
指先でいくつかのスイッチを操作した
古いモーター音
壁面スクリーン全体に切り替わり
外部カメラ映像──地上からのリアルタイム映像──映し出された
最初ぼんやりとした画像
焦点合わせる音
そして鮮明になる
暗闇の中にある街並み
街灯や窓明かりなど地上光源すべて正常だが……
その上空……
暗黒の中になにかある……
小さな光点……
一つ……
二つ……
三つ……
増えていく……
まるで誰かがあまりにもゆっくりとした筆致で星空描き始めているかのように……
映像を見つめるうち、
ユキあることに気づいた
これ星ではない
少なくともフィルムに見た星たちとは違う
これら光点動いている
ごくゆっくりではあるけれど確かに動いている
軌道修正するかのように方向変えている
そして配置……
幾何学的すぎる
自然偶然生まれる配置ではない
誰によって?
何によって?
田中課長顔色変わった
血引いて行くのがわかる
彼口開こうとして言葉出てこない
ただ唇震えているだけだ
モニター画面また新しいウィンドウ:
“特徴追加:相互通信可能性あり(電波パターン検出)”
電波パターン?
これ……
これ……
ありえない……
地球宇宙すべてだと教えられてきた世界において……
外部存在などありえないはず……
だが目の前データ示している……
証拠積み上がっていく……
ヴェール・システム故障ではない……
システム外部からの侵入者……
否……
ユキふっと視線落とした
手元ボタンまだそこにある
青白く輝いている
彼女思った:
もし今押したら?
ヴェール解除して本当星空見せたら?
それとも……
待つべきか?
理解すべきか?
まず理解すべきことあるのではないか?
我々誰なのか?
我々どこいるのか?
そして向こう側誰なのか?
警報音鳴り続ける中、
赤い閃光灯回転しながら影投げかけていく、
壁面スクリーン映し出す光点増え続け、
二十三から二十四へ、
二十四から二十五へ、
規則的間隔保ちながら増殖していく、
まるで星座描いているかのように、
しかし星座ではない、
まったく新しいパターン、
未知言語のような配置、
田中課長ようやく声出した:
「これは……」
言葉途切れた
続かない
老練監視官ですら見たことない事態だからだ
予想外すぎる事態だからだ
マニュアル存在しない事態だからだ
ユキ深呼吸した一回深く吸ってゆっくり吐き出した心臓鼓動耳元聞こえるほど速くなっているけれど呼吸だけ整えようとした思考整理しようとしたまず事実確認:
一 ヴェール・システム正常稼働中(少なくとも故障表示なし)
二 それにも関わらず大気圏上層部未確認光源複数出現
三 光源人工的特徴有(規則的配置・電波パターン・意図的移動)
結論:
外部存在介入可能性極めて高い
次問うべき:
我々どう対応すべき?
隠蔽継続?不可能だろう——市民多数既に目撃している報告殺到している隠蔽不可能段階超えているだろう公開?どう公開?何公開?我々さえ理解していない事象どう説明?パニック必至混乱必至社会崩壊可能性——
ふと思いついた:
そもそも社会崩壊恐れる必要ある?今社会本当意味持っている?嘘基盤築かれ社会守る価値ある?真実知ること恐れる理由ある?未知恐れる理由ある?人間本来好奇心持つ生き物ではないのか?探求欲求持つ生き物ではないのか?抑圧されてきたもの解放される時来たのではないのか——
しかし同時別思考:
準備なく真実曝け出す危険性考慮すべきではないか?段階的開示必要ではないか?衝撃緩和措置必要ではないか?人類精神的準備整っていない可能性——
二つの思考綱引きしている頭の中で激しく対立している時間刻一刻過ぎていくモニター上光源数二十六到達相互通信パターン複雑化電波強度増加——
突然すべて静止した
光源動き止まった電波パターン一定になった増殖止まった二十六個光点固定位置漂っているだけだ次の行動待っているかのように——
待っている?
誰に対して?
我々に対して?
意思表示期待しているのではないか?
接触試みているのではないか?
ヴェール越えて接触試みている——
ヴェール!
そうだヴェール越えて見えているということは向こう側こちら側見えているということ可能性高いならば向こう側意思表示しようとして可能性——
意思表示方法あるのか?
我々側応答方法あるのか?
知らない教えられていない宇宙存在対応マニュアルなど当然存在しない閉鎖世界だから——
閉鎖世界終わり告げる時来たのではないのか——
終わり始まり告げる時来たのではないのか——
ユキふっと手伸ばしたボタン触れた温かい感触驚くほど温かいまるで生きているかのような体温感じられるほど温かい指先震えた震え止まらない決断下さなければならない今すぐ下さなければならない時間残されていない世界待っていない人々待っていない向こう側待っているかもしれない——
背後から田中課長声:
「自分選べ自分責任取れそれが大人ということだ」
振り返らずうなずいた涙頬伝うのに気づかないただ前見つめているボタン見つめている二十六個光点見つめているスクリーン映し出す未知未来見つめている——
指先力を込めた